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あの日以来、生き恥を押し付けた『狐』を殺してやりたくて、直澄は必死で稽古に励むようになった。戦にも出陣した。手合わせも挑める限り挑んだ。
それでも何かが足りなかった。あの日あの瞬間、幻乃と向き合って感じた『何か』を追体験するには、それらすべてがぬるすぎた。三条の名が命の取り合いを妨げるのだと気づいてからは、名と顔を隠して活動することを思いついた。
より苛烈な戦場を求めて彷徨ううち、人斬りの仕事を請け負うようになった。昼に人当たりの良い藩主を演じておけば、誰も直澄を疑わない。立場を利用して世の流れに少しだけ手を加えてやれば、それだけでいくらでも血生臭い仕事を作り出すことができた。息苦しいだけの藩主の立場を、初めて悪くないと思えるようになる。
戦場で『狐』を見かけるたびに憎らしくて、その視界に入りたくて、あの日果たせなかった殺し合いを今度こそ果たしたくて、ひたすらに腕を磨き続けてきた。人を何人殺しても、罪悪感などまるで感じなかった。強い相手と斬り合って、また一歩高みへと近づける充足感を覚えるだけだ。
幻乃に出会ったその日から、それまで生きてきた三条直澄という人間は、きっとどこかが壊れてしまったのだろう。あるいは、ごく平凡な殻に押し込められていた直澄の本性を、幻乃が解放してくれたのだと言うべきかもしれない。
「斬り合いたいだけだと、思っていたのだがな」
どこで間違えてしまったのだろう。
あれほどこの男を斬りたかったのに、斬れなくなってしまったのは、どうしてだろう。
あの雷雨の夜、袈裟切りにした幻乃が生きていることに気づいた時、欲を出したのがいけなかったのか。あの日、任務で町人に擬態していた幻乃は、万全の状態ではなかった。人斬りの仕事を終えて、狐面を外した瞬間を幻乃に見られたのは、直澄とてまったくの想定外だったのだ。
ならばもう一度、と思っただけだった。
幻乃が生にしがみ付くことができたなら、かつて受けた屈辱すべてを本人に返した後で再戦を。
死んだら死んだで、焦がれ続けた狐の死骸をひっそりと愛でれば、それだけで心が慰められる気がした。
腰を折って身を屈める。ぐったりと横たわる幻乃の頬をするりと撫でる。
一度ならず二度も生かしたとなれば、目覚めたその瞬間、幻乃は烈火のごとく怒るだろう。幻乃を斬れないならば、せめて幻乃に斬って欲しい。想像するだけで、笑い交じりの吐息が漏れた。
「……三条直澄」
強張った声に顔を上げる。同盟藩の者たちが数人、こちらを険しい顔で見つめて立っていた。落ちている死体を見て怯んだ彼らに首を傾げて、直澄はふらりと立ち上がる。
「『人斬り狐』には多数の要人暗殺の嫌疑がかかっている。新政府の中核に、そのような者を残しておくわけにはいかない。同行してもらお――ぐっ!」
言葉すべても聞かぬまま、向き合う相手を切り捨てる。信じられぬような目で直澄を見上げて事切れていく男を無感情に見下して、直澄は残る剣士たちを誘うように顎を上げた。
向かってくる相手すべてを淡々と切り捨てながら、直澄はぼんやりと思考する。
奪いたいと思っただけだった。
『狐』と呼ばれるたび、誇らしげに微笑む幻乃の顔が憎らしくて、目を惹かれた。『狐』に近づきたくて、直澄も狐の面を被った。いつしか、暗躍する『狐』の名声は鳴りを潜めて、無慈悲な『人斬り狐』の名ばかりが囁かれるようになった。けれど、『狐』の名を奪っても、幻乃は榊俊一の忠実な家臣のまま、変わらなかった。
妬ましかった。
強く有能な幻乃が妬ましかったのか、幻乃の忠誠を一身に受ける榊俊一が妬ましかったのか、自分でも分からない。分からないから、それも奪うことにした。けれど、榊藩を潰して、主人を殺してもなお、幻乃の忠誠心は揺るがない。主人の死に際に興味などないと言うくせに、事あるごとに死者を引き合いに出すその口が、憎らしくてならなかった。
新時代を口実に人斬りに勤しむ傍らで、直澄は幻乃の居場所を奪うため、慎重に手を回した。けれど、計画通りに榊藩を潰したのに、上手くいかない。仕事を奪い、主を奪い、生き恥を晒すことを強いたのは自分だというのに、心を弱らせ、くだらない世間の言葉に心を揺らす幻乃に腹が立ってならなかった。
だから、苛立ちに任せて体を暴いた。屈辱を与えたかっただけなのか、直澄を煽ってやまない、その嘲笑をはぎ取ってやりたかっただけなのか、もう自分でも分からない。
大した抵抗もなく、幻乃は直澄を受け入れた。幻乃の快楽に歪む顔は、それまで体を繋げた誰よりも直澄を煽る。肌を合わせ、血を浴びた興奮を分かち合うたび、体の快感とは別に、言い知れぬ満足感を感じていた。
けれど、何度抱いても、いくら快楽を覚え込ませても、終われば幻乃は何事もなかったかのように笑みを浮かべる。たしかに体を手に入れたはずなのに、幻乃は決して、直澄のものにはならなかった。幻乃に近付くたびに、より一層直澄の飢餓は深まるばかりだ。
「……お前の言うとおりかもしれないな、幻乃」
血の海の中央で、声ひとつ出さない死体の山々に囲まれながら、直澄は力なく呟いた。
隣にあるのは刀だけ。刀を交えるときだけ、幻乃を近しく感じられる。互いに戦いの興奮に身を委ね、生と死の境でふたりきり、刀を交わして語り合うことができるのだ。
ほかの誰を斬るより、幻乃を斬る方が満たされる。それなのに、斬れなくなってしまった。
途方に暮れて、直澄は立ち尽くす。
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