エピローグ 家族

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エピローグ 家族

 森永十五年――ヒノモトの国を震わせた維新の時は過ぎて久しく、時代は文明開化を経て、進歩の一途を辿っていた。    日の沈みかけた大通りを、坊主頭の青年は全力で走る。満開の桜は美しいが、悠長に眺めていられる余裕はない。  死にそうになりながら走る青年の隣を、人力車が忙しない音を立てて通り過ぎていった。夕焼けに照らされた工場の向こう側には、もくもくと立ち上る白い蒸気が見える。ここ十年ですっかりお馴染みになった、蒸気機関車の煙だ。機関車自体は嫌いではないが、海も見えていないうちから煙が見えているのはよろしくない。このままでは仕事に間に合わない。   (やばい。お(かしら)にシメられる……!)    青年――山下(さとし)が顔を青くした瞬間、甲高い汽笛の音が聞こえてきた。夜の港での荷下ろしを生業にしている山下にとって、この時間の汽笛は始業の合図に等しい。 「買い付けひとつろくにできないんですか」とため息をつく、お頭の胡散臭い笑顔が脳裏に浮かんだ。  違うのだ。時間に間に合うように買い付けは終わらせたし、余裕を持って行動していた。ただ帰り道でごたごたに巻き込まれたというだけなのだ。心の中で言い訳をして、山下はぶるりと背を震わせる。    毎日の仕事を割り振ってくれるお頭は、言葉面だけは優しいくせして、二言目には手が出る短気な男だ。過去も素性も尋ねたことはなかったが、暴力を生業にしてきたことだけは聞かずとも分かるので、あの慇懃無礼な話し方をやめた方が良いのではないかと正直思う。一見親しみを感じる狐のような容貌と、丁寧な話し方のせいで、舐めてかかる新人が後をたたないのだ。騙されてはシメられる彼らが、あまりにも可哀想だ。 (いや……! お頭に怒られるのはいつものことだ。この際仕方がない。それより……)  今日は、隣の県まで会合に行っていた組長が帰ってくる日だった。  港湾業務を取り仕切る港井(みなとい)組といえば、今や知らぬ者はいない都の一大勢力である。  今年三十七歳を迎える組長は、それはそれは見目麗しい人格者であった。十五年ほど前、この地で港湾業務を仕切る会社を立ち上げた組長は、路頭に迷った落伍者どもへと手を差し伸べて、あっという間に港まわりの治安を回復させた。事業が成長し、港井組の名を知らぬ者がいなくなった今でも、山下のような博徒上がりの若者や、居場所のないはみ出し者に仕事をくれる、まさに神さまのようなお方なのだ。    見かけだけ優しい乱暴もののお頭と違って、一見近寄りがたい隻眼の組長は気さくな方で、山下のような末端の者にもよく声を掛けてくれる。凛とした眼差しを向けられて、優しく名前を呼ばれるたび、天にも上る心地になるものだ。若い構成員が増えた最近は、皆の父にも等しいということで、敬愛を込めて親父さんと呼ぶ者も増えてきた。  山下が港井組に入って約十年。尊敬する組長に、まさかお頭にシメられている情けない姿を見せるわけにはいかない。  人力車を追い抜き返しながら全力で道を駆け抜けて、山下は海沿いの事務所の扉に素早く手をかける。勢いよく飛び込もうとしたところで、扉くらい静かに開けてくださいと前に叱られたことを思い出して、寸でのところで思いとどまった。ゆっくりと扉を押し開き、音を立てずに事務所の中へと入り込む。 「――遅かったね、山下。遅刻だよ?」  扉をくぐるなり、入り口付近の椅子に腰掛けていた少年が、顔を上げて声を掛けてくる。せっかくこっそり入ってきたのに台無しだ。   「バカ! 正一(せいいち)! でかい声で呼ぶんじゃない! お頭に気づかれる……!」 「大丈夫だよ。運が良かったね。叔父貴なら、あそこでほら――」  焦りながら室内を見渡す山下を哀れに思ったのか、正一は絵を描いていた手を止めて、鉛筆で部屋の奥を指し示した。子どもらしいふくふくとした手の先には、今まさに壁に向かって吹っ飛ばされていく男が見える。 「お取り込み中だから」    新人を容赦なく蹴り飛ばしているのは、着流し姿の小柄な男――お頭こと港井(みなとい)幻乃であった。  あの人は組長より年上だと聞いたことがあるけれど、とてもそうは見えない。志士らしかった長髪をばっさりと切り落としてから、余計に童顔が際立つようになった。額が出るまで短く刈り上げられた茶色の髪も相まって、ああいう悪そうな顔で笑っていると、血の気の多さばかりが強調されて見える。 「一般人に手を出すなと、何度言えば分かるんでしょうね。困ったものです」 「すびっ、すびばぜん……! もうしません! しませんから――ぐっ!」  顔をぼこぼこに晴らした新入りが、泣きながら謝罪の言葉を口にしている。当の幻乃はと言えば、耳すら貸さずに淡々と新入りを足蹴にしていた。相当に怒っているらしい。あの調子では、腕までは行かずとも、指の一本くらいは切るつもりかもしれない。  顔を引きつらせながらその光景を眺めたあとで、はっと気づいて山下は声を上げる。   「教育ー! ガキの前で何やってんだあの人! 見るな、正一!」 「今さら何? 幻乃の叔父貴が乱暴なのは、いつものことじゃん」  それに先に仁義にもとることをしたのはあの人の方だよ。  ませた口調で言う正一は、さすが乳飲み子のころから港井組で育っているだけあって、妙に肝が据わっている。 「そうだけどさあ……。お頭、顔に血ぃ飛ばしながら笑ってるんだもん。怖いだろ」 「山下のビビり。俺は別に怖くないよ」 「そうか。流石だな」    響き続けるうめき声に戦々恐々と背を丸めながら、山下は正一の隣に腰を下ろした。  何を描いているのかと手元を覗き込めば、古い新聞の余白には、銃と思わしきものの分解図が書き込まれている。 「物騒なもの描いてるなあ」 「護身用にって叔父貴がくれたんだ。分解してみたら、結構面白かった」    上役ふたりの薫陶を受けてのことか、正一が年齢以上に賢いのは知っていたけれど、ひとり遊びですらこうも物騒だとは知らなかった。教育に良くない。 「……つーか、さっきから叔父貴って何だ? お頭はお頭だろ」 「お頭って言い方、山賊みたいで嫌じゃない? だってさ、親父も幻乃も――」 「さんをつけろ、さんを」  ぱっと遮って訂正する。上役ふたりが教育に悪いことしかしないのならば、せめて兄貴分たる自分がしっかりと礼儀を教えてやらねばならぬのだ。  面倒そうに唇を尖らせながらも、渋々と正一は言い直した。   「親父も幻乃さんも、名字が『港井』だろ? 俺にとってはあのふたりが親みたいなもんじゃん? 親父は親父でいいとしても、幻乃さんは俺の『親父』じゃないし……。で、悩んでたら、父親の兄弟は、オジって言うんだって。学校で習ったんだ」  ううむ、と山下は唸った。  確かに筋は通っている。維新の時代を知らぬ子どもにしてみれば、婚姻でも結ばない限り名字も名前も生まれたときから変わらぬもので、同じ名字をしているものは、親子やきょうだい、夫婦に限るのだろう。  しかし、組長と幻乃――主従のようなあのふたりが血縁とはとても思えないし、あの年代ならば尚のこと、今の名が本当の名である保証もないのだ。  名を変えて過去を消すことができた時代を知る山下から見ると、息をするように人を消す幻乃は間違いなく武家出身の前科者だろうし、動作の節々に育ちの良さが滲み出ている組長は、良家の次男、三男坊だろうと当たりをつけている。何かしらの縁で知り合ったふたりが、港のそばで一旗上げる決意を込めて改名した。そんなところだろう。  とはいえ、それを十を超えたばかりの子どもに説明するのは難題だ。 「あのな、家族でも名字が違うってことだってあるし、別に血が繋がってなくたって、名字が同じことだってあるんだぞ。正一だって名字は港井だろ」 「うん。でも俺は、橋の下に落ちてたのを幻乃さんが拾ってくれたらしいし……、いや、船の上だっけ? ……あれ? じゃあやっぱり俺の『親父』は親父じゃなくて幻乃さんなのかな? でも親父は親父だしな……、うーん……」  どうでもいいことで目を回している正一の頭をくしゃりと撫でて、山下は笑う。   「難しく考えなくていいんだよ。ここで拾われたやつはみーんな港井組の仲間だし、名字が港井じゃなくても家族なんだ。『俺たちにとってはお前たちが家族みたいなものだ』って、親父さんもよく言ってるだろ?」 「家族かあ。……あの人も?」  ひんひん泣いている新入りを指さす正一に、山下は「いや、あいつはどうかな……」と言葉を濁して目を逸らす。 「でもほら、お頭を叔父貴って呼ぶなら、俺はお前の兄貴になるぞ」 「ええ……、それは嫌だな。山下、なんか頼りないし」 「どういう意味だ!」  弟分と取っ組み合いながら戯れていると、不意に周りの男たちが席を立つ音が聞こえてくる。目を向ければ、部下を引き連れた長身の美丈夫が、ちょうど部屋へと入ってくるところだった。
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