エピローグ 家族

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 そこにいるだけで目を惹きつける、存在感のある男は、まさに今話していた港井組の組長・港井直澄だ。商談帰りらしく、短く切り揃えられた髪をぴっしりと後ろに撫で付けている。着流し姿も麗しいが、今夜のような洋服もよく似合う。組長に心酔している山下は、ひそかに目を輝かせた。 「今戻った。……相変わらず、仲がいいな? 正一、悟」 「あ、あ、わ……」  整った微笑みに胸を打ち抜かれ、うめくしかできない山下の後ろから、「おかえり、親父」と正一が身を乗り出す。怖いもの知らずの子どもは、これだから恐ろしい。  周りを囲む若衆たちにひとしきり声を掛けた直澄は、ふっと笑みを消すと、まっすぐに幻乃の元へと向かっていった。気絶した新入りを冷たい目で見下ろしていた幻乃も、近づいてくる直澄に気付くと、ぱっと表情を和らげる。 「おかえりなさい、直澄さん。ご無事で何よりです」  ――商談に行ったんだよな?   疑いたくなる迎えの言葉だが、直澄は当然のようにその言葉を受け止め、頷いた。   「ああ、ただいま」 「()()はいかがでしたか? ご機嫌ななめですね。珍しい」  笑っていたのに、不機嫌だったのか。そう思いながら耳をそばだてる。   「……問題ない。鬱陶しい虫がいただけだ。留守の間に変わったことは?」 「隣組が喧嘩を売ってきましたよ。港の利権に興味があるようです。今日か明日の夜あたり、遊びにいらっしゃるでしょうね」  さらりと告げられた言葉に、部屋中に緊張と興奮が広がっていく。反対に、山下は頭を抱えたくなった。 (なんでこんな急に買い付けを命じられたかと思えば、それでか……!)  服の内側にひそませている短刀を確認しつつ、山下はそっと弟分を隣の部屋へと誘導していく。いくら正一の肝が据わっているとはいえ、ここから先は、子どもにはまだ早い。    直澄率いる港井組。普段、港湾業務を生業にしている彼らには、人には見せない裏の顔がある。  あるときは用心棒。  またあるときは、後ろ暗い仕事の元締めと管理役。  世が華やかに発展すればするほど暗くなる影の部分を、金と力で支配するのが彼らの流儀だ。表の世界のような法も規則もないけれど、はみ出し者にははみ出し者なりの序列とやり方が存在するのである。  山下と同じくひそかに争いの準備を始める若衆を尻目に、直澄は幻乃の顔をのぞき込み、面白がるように口角を上げた。 「機嫌が良いな、幻乃? 暴れられるのが、そうも嬉しいか」  怒っているように見えたのに、幻乃はあれで上機嫌だったらしい。このふたりの表情は本当に読めない。  笑っていると思えば不機嫌で、怒っていると思えば上機嫌。  優しく見える幻乃の性根は冷酷で、冷たく見える直澄は優しい人だ。  いっそ中身と外見を入れ替えてほしいと思った後で、そんな組長は嫌だと思い直して、ひとりで首をぶるぶると振った。   「ここのところ大きな抗争もなければ、骨のある賊も出なかったでしょう? 久しぶりに刀を振れると思うと、楽しみです。……ああそうだ、山下さん」  いきなり名前を呼ばれて、山下は飛び上がるように返事をする。   「はい、お頭! 無事に戻りました!」 「知ってます。頼んだものは?」 「つつがなく。何人でも処理できます」  山下は暴力は苦手だが、掃除は得意だった。直澄も幻乃も、幕末を生き抜いた者らしく、敵には容赦がないので、こういう争いごとのときには掃除の前準備が欠かせないのだ。  満足そうに頷いて、幻乃はくるりと背を翻す。 「あ、お頭。顔に――」 「顔?」    返り血が飛んでますよ、と教える前に、直澄がごく自然な動作で幻乃の頬に手を伸ばした。ぐいと血を拭い去って、直澄は苦笑する。 「正一が怯えるぞ」 「あの子はこの程度で怯えませんよ。でも、そうですね。……斬りに行くときには、面でもつけるとしましょうか」 「好きにしろ」    含みを持たせた幻乃の言葉に、直澄が笑みを深める。  もう十年も下で働いているというのに、いまだにこのふたりのことは掴めない。不思議な人たちだと心底思う。義兄弟なのか主従なのか、はたまたただの友人なのか知らないが、このふたりにしか通じ合えない何かがあるのだろう。    ――昼番の者たちも呼びますか?  そう聞こうとした瞬間、どこからか破裂音が聞こえてきた。  銃声だ。  一気に重苦しさを増した空気の中で、くすりと場に似合わぬ笑い声が響く。  笑ったのは直澄か、それとも幻乃か。  真っ先に外へと足を向けた直澄を追うように、幻乃は棚に置かれた狐の面をひらりと被って、意気揚々と刀を掴む。 「直澄さんも行く気ですか? 帰ってきたばかりでしょうに」 「何、気晴らしだ。――総員、戦闘の準備をしろ。喧嘩の時間だ!」    雄たけびが上がる。鋭い視線で敵を見据えて、上役ふたりは歩き出す。 「人斬り狐め! 覚悟しろ!」    誰かが叫ぶ声がした。  血に濡れた夜が、今日もはじまる。  命を燃やす男たちを寿ぐように、その背に桜の花弁が一片、はらりと舞い落ちていった。
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