手簡 宮沢賢治

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手簡 宮沢賢治

 手簡  雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。  心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。  ぬれるのはすぎなやすいば、  ひのきの髪は延び過ぎました。  私の胸腔は暗くて熱く  もう醗酵をはじめたんぢゃないかと思ひます。    雨にぬれた緑のどてのこっちを  ゴム引きの青泥いろのマントが  ゆっくりゆっくり行くといふのは  実にこれはつらいことなのです。  あなたは今どこに居られますか。  早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に  まっすぐに立ってゐられますか。  雨も一層すきとほって強くなりましたし。    誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。  向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。    いま私は廊下へ出やうと思ひます。  どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。  その白びかりの巨きなすあしで  あすこのつめたい板を  私と一諸にふんで下さい。  賢治先生の『春と修羅』から。この詩をうまく説明できるほど、わたしは詩という物に、あるいは賢治先生に精通しているわけではありません。  スギナとスイバは植物です。賢治先生はこれを書く数年前に、肺を患っています。マントは賢治先生も愛用していました。ゴム引きとは、表面がゴムで加工されているものです。  あなたというのは、特定の誰か、もしくは神様とか仏様のような存在、どちらともとれます。この頃は賢治先生に恋人がいたと書いてありました。  「子供が噛んで」「男が喉を鳴らして」と併記してあります。音のイメージです。  白光りの大きな素足の人に、一緒に来て欲しいと言っています。  いっそう透き通った雨も、今僕のところにも降っています。感情が灯ったり消えたりして、僕のカッパも役に立たないぐらい。  帰ってご飯を食べましょう。
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