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寝室のダブルベッドに倒れ込んだはいいが、疲れ切った足がマットレスに沈んでいくのを感じても結局一睡もできずに天井を眺めている。どれくらい経っただろうか、思い切って体を起こしてバスルームに向かう。
「ギル」
ドアを軽く叩くが返事はない。
「入っていいか? トイレ行きたい」
やがて、「鍵はかけてないよ」とくぐもった声がドア越しにかすかに聞こえてきた。迷いながらもドアを開ける。
「あのさ」
きっちりと閉まっているシャワーカーテンに向かって話しかけると、その向こうの影がわずかに揺れた。
「記憶のこととか体のこととか、それでアンタがどれだけ辛い思いしてるかとか、俺には想像もつかないのが……怖くて、勝手に不安になるときがある。せめて今のギルにとって少しでも助けになることはしてやりたいって思ってるけど、肝心のアンタの気持ちがどうなのか、俺は訊こうともしなかった」
視線を落として見つめたバスルームの静謐なほどに白い床は、自分の愚かさのなにもかもを知っているようだった。
「アンタは俺の重荷じゃない。そんなこと思ったことなんか一度もない。ギルは俺と一緒にいるけど、それは俺のわがままだ。俺が望んだ。だったらわがまま聞いてもらってる分ぐらいは返したくて、でも……でもまた間違えた。またこうやってアンタを苦しめてる。俺は……」
強く拳を握ると、目の前でシャワーカーテンがゆっくりと開く。
「カオルくん」
「ギル」
「僕も、言わなくちゃいけないことがあるね」
バスタブの中で膝を抱えているギルが手招きをするので、床に膝をついて顔を寄せた。
「君は、いつだって僕のナンバーワンだ」
囁かれて、ふいに息が詰まりそうになる。とっさに顔をしかめて「嬉しくない」と言うと、バスタブのふちを握りしめている右手にそっと、ギルの左手が重ねられた。右手と違ってビニール製の皮膚がなくパーツがそのままむき出しになっているから、自分の体温が伝わった瞬間にあっという間に白く曇ってしまう。
「さっきはごめん」
自分と相手との温度が徐々に近づいていく。自分の手が熱すぎたのかギルの手が冷え切っていたのかはわからなかった。
「……別に、気にしてない。だって実際に俺は……おえ、2番人気だし」
クラブの憎きナンバーワンの姿が浮かんで思わず軽くえずきながら答えるとギルが小さく笑う。
「僕の1番だよ。いつまでも」
「悪いけど、ロマンチストさん。俺は金も権力も全部欲しいんだよ」
同じように口元に笑みを浮かべて、ぬるくなってきたギルの左手に頬をすりつけると目を閉じた。瞼の裏の暗闇は優しい色をしていて、ロケットの窓からいつか見た、頭を抱えて大声で泣き出したくなるようなあの黒色とは似ても似つかない。
銀河の片隅に訪れた小さな安寧に息をつくと、一人の地球人はゆっくりと眠りに落ちていった。
<第一話おわり>
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