第一話 君とひとり

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「で、そのおっぱい星人が言うわけ。『俺の……』」 「あまり聞かない星だね。この間のサミットに参加してた?」 「ものの例え! おっぱい星の出身じゃなくて、アレのときやたらと人の乳首いじりたがるからって意味だよ」 「アレって?」 「わかってやってるだろ、アンタ」  案の定吐き出さないのが奇跡なほどにまずいバーをなんとか咀嚼しながら目の前の相手を睨みつけると「なにがなんだかさっぱり」と涼しい顔をしてルームメイトが肩をすくめる。 「君とのおしゃべりはいつだって素晴らしい冒険さ。知らないことに自分がこんなにわくわくするなんてね。こういうときには、僕にも心臓があればなんて夢見たりするんだ」 「言ってろ。……それで、どこまで話したっけか。えーっと」  仕事明けはいつにもまして働かない頭を少しでもどうにかしようと限界まで濃く淹れている星雲コーヒーを啜ると、突然あることを思い出してマグカップをダイニングテーブルに叩きつけるように置いた。 「おっと。なんだい急に」 「アンタ、今何時かわかってる?」 「そろそろ『紳士は触手とギョロ目がお好き』が始まる時間だね」 「そうだな。それで俺の思うに、俺は今日その番組をこの家で一人で見るはずなんだけど」 「正確には、いつも一人じゃないかな。僕はアンドロイドだからね。つまり、今は一人と一体だ」 「だから、たった一人でって意味だよ。のんびり新聞読んでるアンタと一緒じゃなくてな。なぜなら、今日の、この時間は、君はリハビリに行っているはずですから??」  リハビリ、という単語にぴくりと眉を上げたところを見るに図星らしい。朝も夜もわからなくなるような働き方をしているこの同居人が自分の予定まで覚えているわけがないと踏んでいたらしいが、あまり舐めてもらっては困る。ルームメイトはにこりと笑みを浮かべると「さっきまでソファの周りを掃除してたんだけど」と言った。 「意外なほど汚れていたから夢中になってしまって、気づいたらこんな時間に。リハビリに行くリハビリを、彼らは最初に僕に勧めるべきだったと思うけどね」  自分には(つまり、地球人の自分の感覚としては)30代半ばの青年のように見えるこのアンドロイドが子どものような言い訳をいけしゃあしゃあと吐くのに心底呆れかえって「あのな」と呟くとまだ濡れている髪に思わず手を入れてぐしゃぐしゃとかき乱す。一体なにから話せばいいのだろう。 「あー、もう。このやり取り何回目だよマジで。いいか、アンタは、リハビリに行くんです。行くの。これはもう決定事項なんだよ。わかるか? あっちはアンタのために時間空けて待っててくれるわけ。なのにアンタがまたそうやってバックレたらスケジュール組み直さなきゃいけなくなるだろ? そうするといろんなやつが困っちゃうんだよ。嫌だろ、困らせるの」 「僕は構わないよ。アンドロイドは感情を理解しないからね」 「はいはい出た出た。それここじゃ通用しねーから」  一旦落ち着くためにマグカップを持ち上げてすでにぬるくなり始めているコーヒーを飲み干すと、ルームメイトは手持ち無沙汰にテーブルの傷に爪の先を沿わせているところだった。 「……だからさ、行きたくないって気持ちはわかるよ。その日の調子とか気分とかもあるし、しんどいのもわかるけどさ。でも」 「連絡もしないでフケるのはいけないことだよね」 「そーいうこと。そこの、耳のほら、つけるやつ取って。連絡するから」 「魅惑のスターダンサーが機械操作に弱いって知ったらみんななんて言うだろうな」 「うるせーよ。ギャップ萌えってやつだろ。……どこのボタン押すんだっけ」 「ここだよ」 「サンキュ。……あ、もしもし。すみませんいつもお世話になってます、あの、あ、はい。そうです。はい、すみません。あ、はい。家にいます」 「僕に代われって?」 「当たり前だろ。ほら、ちゃんと謝れ」 「はいもしもし。申し訳ありませんでした。はい、仰る通りで。ええ、よくわかります」 「……生返事にもほどがあるな……」 「ではさようなら……。君に代わってくれって」 「オーケー。はい、あ、次回ですか。そうですよね、はい、もちろん。そうします。いえいえ、いつでも平気です。はい、じゃあその日で……ちょっとメモ出してくれ。本当にすみませんいつも。ええ、じゃあまた。えーと、ああ、右タップか」  ややもたつきながらもなんとか通信を切ってため息を吐くと「なんのメモ?」とお騒がせなルームメイトが首を傾げる。 「次のリハビリ。今度は俺がついてくことにしたから、頼むぜマジで」 「君が? 仕事はどうするの」 「まだシフト出してないしどうとでもなるよ。それよりこっちをなんとかしないと」  言うと、表情を大きく変えることはなく目の前のアンドロイドがみるみるうちに不機嫌の雲を纏っていくのがわかった。 「なんだよ。文句があるなら言葉にしろ。俺たちどっちもテレパシーは使えないんだから」 「君がいつまで経っても2番人気の理由がやっとわかったよ」 「クソが……。それ家では話題にしないって約束しただろ」  急に痛いところを突かれて胸を押さえながらなんとか言葉を絞り出すと、自分より何倍も苦しそうに「だって僕は知っている」とルームメイトが呟く。 「今はっきりとわかったよ。僕が君の重荷だ。お店の稼ぎ時だろうが大きなイベントだろうが、君はそんなもの放っていつだって僕を優先する。奇妙で、世話のかかるアンドロイドを。そんな状態で一番になんかなれるわけがない。僕が、理由なんだよ」 「そんなわけあるか。そもそも……」 「僕は君を困らせたくない。当たり前だよ。君も、他の人も、誰のことだって困らせたくない。でも」  今日はリハビリに行きたくなかった、とかすかな声が、古びたダイニングテーブルにぽつりと落ちた。 「……だって僕は今、普通に暮らしてる。過去の記憶が全くないことと、ときたま体がうまく動かせなくなるのを除いてね」 「だからそれが……」 「わかってる。君からすれば大問題なんだろう。でもリハビリをしたところで記憶は戻らない。記憶媒体ごと跡形もなく破壊されたんだ。もっとも、僕はそのことすら覚えていないけど。それに比べたら体がどうだなんて……僕には大事なことだとは思えない日がたまにある。今日がそうだった。それだけだよ」  やがて沈黙に包まれたリビングには、窓際の観賞植物に生えたばかりの乳歯がかちかちと音を立てる音だけが響いていた。 「……悪かった。アンタの話ろくに聞かないで、勝手にいろいろ進めて。無理に行かせようってわけじゃないんだ。ただ俺は、なんていうか、すぐにあれこれ首突っ込みたがるから」 「いいんだ。次回はきちんと行くよ。君がついてきてくれるし。ただ……ああ、うまく言えない。こんなつもりじゃなかった」 「ごめんギル、俺、」 「いいや、謝るのは僕のほうだよ。ごめん。ちょっと一人に……一体に、させてほしい」  強張っている肩に思わず手をやると、優しく、しかしはっきりと拒絶の意を持って振り払われる。狭いフラットで静かになれる場所はバスルームか寝室しかない。迷わずバスルームのドアを開けて、ギルのガラスの瞳が一瞬こちらを振り返ったのがわかった。 「おやすみ、カオルくん」
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