第二話 心臓をあげる

1/3
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

第二話 心臓をあげる

  「俺たちは労働者だ」  我々は言葉を手に入れた。これは力であり自由であり、祈りでもある。歩んできた道のりを振り返るとき、いつでも耳に蘇るのは、アスファルトを踏みしめるブーツの踵の一定のリズムだった。あのころから今も鳴り続ける鼓動が重なると、生きている理由をようやく見つけられる。 「俺たちには権利があり、おまえには責任がある。要求を呑んでもらうまでここを動かない」    まだ騒がしくない夜の街はひたすら不潔なだけで、明かりがつく直前の街灯を睨みつけるとコートの裾を翻してただ目的地に向かって歩みを進める。ブーツの踵を鳴らしながら、気をつけていないとつまずく段差をひょいと乗り越えると扉の先にはいつものように血と吐しゃ物と香水の匂いが広がっていた。隅にできている人だかりを、荷物をロッカーに詰め込む暇もなくかき分けて「なにがあった」と問うと馴染みの顔たちが次々と振り返る。 「刺し合いです」 「またか……。あー、ナイフは」 「家で使いたいってブラッディが回収していきました」 「ああそう……おい、おい聞こえるか」  腹を押さえて壁にもたれかかっているダンサー二人に声をかけると「はい……」と力ない頷きが返ってくる。 「意識はあるな。ドクターは?」 「呼んだんですけど、追加料金取るって」  状況を報告していたダンサーの一人であるマゾ公爵(とクラブでは名乗っているが実際はMでもなんでもないらしく、そもそもここはSMクラブではない)が、「あのヤブ医者。変な知恵ばっかつけやがって」と吐き捨てる。 「まあ、支配人がどうにかするだろ。俺たちが気にすることじゃないさ。さあおまえたち、準備に戻りな。開店に間に合わせなきゃどうしようもない」  手を叩くと野次馬ダンサーたちはぶつくさと文句を呟きながらあちこちに散り始める。まだセットしていない前髪をかき上げるとカバンからタオルを取り出した。流血沙汰のために持ち歩いているわけではないのだが、と思いながら二人の前にしゃがみ込んで、オレンジ色とピンク色に染まっているそれぞれの患部をタオルで強く押さえる。 「まったく。どうしておまえらはこう血の気が多いんだか」 「今まさに失われてますけど。こいつのせいで!」 「テメーが先に手ぇ出してきたんだろこのクソビッチ!」 「やめろやかましい! ここはいつから闘技場になったんだ? はあ……ここのルールぐらい知ってるだろ」 「でも誰も守ってませんよ」 「そりゃ、ナイフ禁止が最初にくるぐらいだからな。おまえらは守ってないだろうよ」 「でも、銃も毒も使ってないし」 「鉄バットも縄も」 「鎌とかメリケンサックとか」 「あとは……」  すらすらと出てくる凶器たちに呆れて思わず天を仰ぐと、突然ものすごい破裂音と熱風が背後から叩きつけられて、もういっそのことこのまま気を失いたくなった。 「……爆弾も」  粉々に吹っ飛んでいるであろう従業員用トイレの方向を指さしてバカ二人が美しいハモリを披露する。「自分で押さえられるか」と二人に訊いて立ち上がると、裏口が蹴飛ばされるように開いてしわくちゃの白衣と薄汚いスラックスが姿を見せた。 「今日はそいつらの手当か。毎日毎日くだらないことで呼びつけやがって。今日は高く吹っかけてやるから覚悟しろよ」  すでに酒に焼け切っている声を響かせてドクターが往診用の鞄を汚い床に叩きつける。 「よおドクター。どっかの金持ちの手術失敗して今逃げ回ってるんだって? どうりで金集めに必死になってるわけだ」  洗濯という概念を知らないシャツに人差し指を突きつけて挨拶代わりに昨日仕入れたばかりのゴシップを披露すると、「話が早いな」とドクターが先端の細くなっている腕を組む。 「値段交渉なら支配人のところへどうぞ。アンタがここでやることはこいつらと、爆発でやられたやつの治療だ。ほら早く」 「待て、爆発? 聞いてないぞ」 「今起こったんだよ。バカダンサーどもがまた揉めたんだろ。おい、怪我したやつはいるか?! ドクターはここにいるから、とりあえず集まれ。歩けないやつらは周りが手を貸して連れてこい。いいな?」  控室中からダンサーたちの返事が聞こえてくると、ドクターが「冗談じゃない」と唾を吐いてこちらを睨みつける。 「なにが冗談だ。アンタの仕事だって言ってるだろ」 「これ以上働かせるなら上乗せ分は前払いだ」 「はっ。あんまり生意気言ってんなよ、このヤブ」 「おまえこそ大口叩ける立場か?! ああ?! どっかの変態客の角のせいで死にかけてたおまえを助けてやったのは誰だ?!」 「でっかい声で言うなそんなこと! おまえが来るのが遅かったせいでこっちはエグい臨死体験してんだよカス!」 「どうせ地獄にでも引っ張り込まれたんだろ。覚えてるなら、今だってなにを優先させるべきかわかるよな? うん?」 「……とんだ悪徳医者だよ、アンタ」  歯噛みして財布から抜き出した紙幣を顔面に投げつけると「いい子だ」とドクターが満面の笑みを浮かべる。 「かもな。アンタの奥さんにペニバンでイかされまくってるところにアンタがやってきたときよりは」 「この……!」 「思い出してドキドキしちゃった? 金の分は働けよ。クソ野郎」  再びしかめ面になったドクターの頬に噛みつくようなキスをくれてやって、後ろ手で中指を突き立てると「次に死にかけたら覚悟するんだな!」とドクターが叫ぶ。知るか。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!