第二話 心臓をあげる

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 その後も立て続けに起こるありとあらゆる厄介ごとをどうにか乗り切って、ようやく一息つける時間がわずかに訪れる。開店前にも関わらずすでに高まっているクラブの熱気はこの体には過剰すぎて、今はとにかく夜風に当たって火照った体を冷やしたかった。裏口から外に出ると、路地裏に佇んでいた影が気だるげにこちらを振り返る。 「ハーイ、スウィートハート」  表情一つ変えずに寒気がするほどの猫なで声で影の持ち主、マグラーシャンがいつもの挨拶を寄越す。やつの愛用している甘ったるい葉巻の煙が鼻をついた。 「ハイ、マギー。マイラブ。ご機嫌だな」  吐き気を堪えながら答えると、マグラーシャンが「ご機嫌?」と首を傾げる。 「さあ、あんま考えたことなかった。気分がいいかって? ハハ、おまえってホント面白いよ」  乾いた笑い声を漏らしたと思ったら、その艶のある触手を震わせて1秒後にはこちらの襟元を掴んでいた。今までの能面のような顔が嘘のように激しい怒りの表情を浮かべて、「オレの客と寝たな」と低く呟く。 「へえ、それでストレス解消にここで一服ってわけか。わかるぜ、ここは落ち着く」  そう言って、相手から葉巻をかすめ取ると口をつけて深く吸い込む。もう二度と手に入ることはないだろうキャラメルにも似た香りの煙が灰を満たしていく感覚に、思わず目を細めた。 「で、アンタの客って?」  答えるや否や、ばしゃ、と顔から胸元にかけてなにかがぶちまけられる。マグラーシャンが荒い息のまま何本目かの触手に握りしめているのは先週辺り失くしたと思っていた潤滑油で、今まさにその窃盗犯に自首どころか盗難品の返却までしていただいたことになるわけだ。火の消えた最高級品の葉巻と口にまで入ったぬめりのある液体を相手の顔面に向かってきっちりと吐き出すと、さらにきつく胸元を締め上げられた。 「それも3回もだってな。あの粗チン相手にどうやったらそこまでヨガれるんだよ。あそこに金貨でも詰められてイったか?」 「まあな。それでアンタは、オレのケツからじゃらじゃら溢れてくるカネが羨ましくて仕方ないわけだ。あそこも財布もスカスカでさびしんぼか?」  せせら笑うと、首に素早く巻き付いた触手の先が口内に差し込まれて、やつの憎悪に燃える瞳がぐっと近づけられた。 「おまえの薄汚い臓物を引きずり出して、ついでにこの細い細い首を締め上げたらオレの気分も少しは晴れたりして。なあ、どう思う? オレの可愛いエイリアン?」 「試してみればいい。ご大層な商売道具嚙みちぎられたくなけりゃな。そうだろ、ハニー?」  差し込まれた触手に歯を当てて唸ると、マグラーシャンの体がみるみるうちに黒く染まっていく。 「ああ、ダーリン。やめてくれよ。おまえってホント」  やつがわざとらしく身をくねらせて巻きつけている触手に力を入れたので、気道がキリキリと締め上げられて瞬く間に息ができなくなる。血の行き場がなくなった首がドクドクと脈打っているのだけが聞こえるこの瞬間は何度経験しても苦手だった。 「その気にさせるのが上手いんだから」  耳元に吐息混じりに吹き込まれると、突然頭が割れるように痛んで同時に首からシュルシュルと音を立てて触手が外れていく。こめかみを押さえながら一気に入り込んできた空気に噎せていると、肩になにか小さい固いものが食い込む感覚があった。わざわざ確認しなくとも該当者は一人ぐらいしかおらず、息も整わないうちに「プリンス?」と問うと、「正解です」と上機嫌そうな声とともにレースに包まれているはずの小さな手に耳たぶを思い切り引っ張られた。 「これはこれは、殿下までご登場か!」  同じように頭を押さえていたマグラーシャンも気づいたらしく、目を見開くと嫌味たらしくHighness(殿下)をことさら強調してこちらの肩にヒールを食い込ませているリル・プリンスに顔を寄せた。 「こんばんはキング。今日もハウイーさんに欲情されているんです?」 「このみすぼらしい地球人に? 殿下、あんまりオレを笑わせるなよ。うっかり叩き潰しちゃうだろ」 「おや、お茶目ですね♡」  リル・プリンスは3番人気のダンサーだが、この店で唯一、経歴も本名もプライベートもすべてが謎に包まれている人物でもある。実は大金持ちの子息だとか、大物変態政治家の情夫だとか元エリート工作員候補生だとか下っ端ダンサーたちが好き勝手話しているのを訊いたことはあるが、どれもただの質の悪い噂止まりに過ぎない。地球人の手のひらに乗るほど小柄な体躯からときどき謎の音波のようなものを出して、周囲に頭痛を始めとした身体的不調を引き起こしてはその様を笑いながら眺めているが、本当は頭痛程度ではちっとも満足できないんだといつかどこかで零していた。やつの身分に関しては全く知らないし興味もないが、そもそも本人の性格からしてはちゃめちゃにアブナイやつであることは間違いない。 「ここのお店の人たちってみんな本当に可愛いんですから。今日も従業員トイレを素敵にめちゃくちゃにした誰かさんがいたとかいなかったとか」 「トイレ?」  プリンスの言葉にマグラーシャンが眉をひそめて新しい葉巻に火を点ける。その様子じゃどうやら本当に爆発騒ぎについては知らなかったらしい。さすがナンバーワンらしく優雅な、あるいは愚鈍な王様っぷりだ。 「ああ、今日の中じゃでかい事件ではあったけどな」 「まだまだたくさんあるんですか? ボクさっき着いたばかりだからまだよくわかってなくて」 「聞きたいか? いいけど、キリの悪いところで終わっても仕事中のおしゃべりはナシだからな」 「わかってます。だから、さあ早く。ああそうだ、お化粧の仕上げを手伝います。繊細な手作業じゃボクに勝る人はここにいないでしょ?」 「ヤダよ。おまえ白目を狙うだろ」 「さすがナンバーツー。生涯学習ですね」  この前うっかり頼んでしまってとんでもない目にあったことを思い返して顔をしかめると、プリンスが可愛い子ぶってぱちぱちと瞬きをする。うえ、と舌を出してクラブの控室に戻ることにすると、裏口のドアが完全に閉まる直前、まだ吸えるはずの葉巻を足でもみ消しているマグラーシャンがちらりと顔を上げる。目が合って、やつの口がなにか侮辱的な言葉のためにぱくぱくと動いたのがわかったが、伝わる前にドアは鈍い音を立てて閉まっていった。
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