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「疲れた。マジで……疲れた」
服も化粧もそのままに家のソファーにうつぶせに倒れ込んで呟くと、「おつかれ」と頭上からギルの声が降ってくる。体をわずかに動かしてギルを見上げると、抱えているクッションから感じる鼓動が、クラブにいるときの張りつめたものから徐々に穏やかなものになっていくのを感じて息をついた。
「おー……。昨日ちゃんと充電できた?」
「だと思うよ。確かめてみる?」
「遠慮しとく。調子平気ならいいんだ」
「君はそうじゃないみたいだね」
「開店前から盛りだくさんでさ……もーホント、客もダンサーも勝手なやつらばっかだよ」
「なるほど?」
床にあるカバンから覗いている、潤滑油をかけられたドレスシャツに視線をやってギルがくいと眉を上げる。
「あー、そうそれ……。そうだ、ギルちょっと、そこのバカホ取って」
地球にいたころに使っていたスマホと形がよく似ているが操作やら機能やらがスマホと比べて圧倒的に複雑すぎて一向に使いこなせないため、怒りのままに『スマート』の称号を剥奪してバカホと呼んでいる機械をカバンから取り出してもらう。
「えーと、なんだっけ、ログイン方法……」
「なにをしようとしてるのかな?」
「通販。クソッタレにぶっかけられたんだよ。予備の衣装は用意してたからよかったけど、髪までちょっと濡れたし。まあ仕事には結局そこまで影響なかったけど」
ギルが画面を覗き込むようにして顔を寄せてきたので見やすい位置に掲げながら答えると「つまり?」とルームメイトが首を傾げる。
「つまり? 濡れてる男ほどそそるものはない。たぶんな」
肩をすくめて3度目のパスワード入力を行うと、「真理だろうけど、僕が知りたかったのはどちらかというと、一体なにが君にぶっかけられたのかってことかな」とギルが言う。
「潤滑油。やっと返してもらったと思ったらこれだよ。マジで、クソ」
3度目もあえなくログインに失敗し、頭をかきむしって叫び出したくなる衝動と必死に闘っていると「貸して」とギルが手を差し出す。
「結構。自分でやる」
「潤滑油を通販で購入しようとしているという理解で合ってる?」
「そ。手元にないって気づいたときに近所の店で代わりのは買っておいたけど、なんかもう全然ダメだったし。ストックも今ほとんどないから、思い立ったら行動ってワケ」
「素晴らしいことだね。つまり僕は、今から通販サイトにログインすればいいということだ」
「だから、いいって。そのぐらい自分でできる」
「君ができることを僕がやっても特に問題はないと思うけど」
「でも俺が使うものだし。だったら自分で買った方がいいだろ」
「普段と同じものを買うんじゃないの?」
「そうだけど、でもほら」
「オーガニックの宇宙植物由来のやつだよね」
「よく覚えてるなそんなこと……」
「もちろん覚えてるよ。だって、そうじゃないと君は」
「もういいって」
「腹痛と鮮やかな色の便に苦しむことになるから」
静止も聞かずギルが淡々とした口調で言い切ると、リビングになんとも言えない沈黙が広がった。黙ってルームメイトをじっと睨むと、珍しく決まりが悪そうな表情を浮かべてギルが「僕は……」と両手を空中でうろうろさせながら口走る。
「僕はおそらく、記憶喪失になるタイミングを間違えたんだろうね。それじゃあちょっと乾燥機に……」
「待て待て待て」
慌ててソファーから上半身を起こして、リビングから出ていこうとするギルの背中を呼び止める。
「別に、アンタが俺のどんな情報を覚えててもまったく構わないけど、ただ俺は、自分の……あー、蛍光グリーンの便の話はしたくない」
「蛍光グリーンって好きだよ」
「俺だって時と場合によっては好きだよ。時と場合によっては! でもあれはとにかくホント……最悪。オーケー、この話は終わりだ」
「ごめん」
「いいよ。一つ前に戻って、馴染みの潤滑油の通販の話をしてもいいか?」
「うん、いいよ」
「どうも。つまり、そりゃ俺だってギルに操作を頼んだほうが早いしうまくいくことはわかってる。でも、なんでもかんでもやってもらうのはなんか……嫌だ。これはアンタにじゃなくて、俺の内側に向かってる感情。助けてくれるのは嬉しい。けどなんか」
「うん」
「俺の言い分としてはなんというか……俺にはときどき誰かの助けが必要だし、アンタだってそう。みんなそうだ。ちょっとずつ助け合ってどいつもこいつもなんとか銀河に存在してる」
「その通りだね」
「そう。それはそうとして、俺の場合は、それでもやっぱり自分でできることは自分でやりたいし、できること自体も増やしていきたい。こう思う原因がなんなのかはわからないけど。自立心? たぶん。で、通販はちょっと頑張ったらギリギリできそうなんだよ。だから、今は自力でなんとかやりたい。その気持ちを俺は……俺は、尊重してほしい。アンタに」
ギルと出会ってから使うようになった言葉が今は自然と落ちていくのに一向に慣れず、いつまでも新鮮な驚きに目を見開きながらクッションをきつく抱き寄せると、ギルがソファーの横にしゃがみ込んだ。いつもの笑みを浮かべてこちらを見上げている。
「わかった」
まっすぐに見つめられると急になんと返したらいいのかわからなくなって、「ご協力どうも」ともごもご呟くと「当たり前だよ」とギルが言う。
「それじゃ、俺に手出しはせずに見守っててくれる?」
「了解」
さっそく4度目のパスワード入力に取り掛かるとギルが「おすすめの方法があるんだけど」と近くのローテーブルからデジタルのメモ板を起動させる。
「僕がそれを教えて、君が参考にするのはどうかな。君がよければ、今からここに書こうと思ってるんだけど」
「じゃあそれで。あー、ギル」
「なに?」
「……ありがと」
「こちらこそ! 君を尊重するのって好きだよ。当たり前のことで、大好きなんだ。これって……」
すらすらと指先を動かしていたギルがそこで手を止めて言葉を切る。
「最高だ。ヌルヌル玄関イチャラブセックスよりもね」
なにかのビジネスシーンのように真剣な表情のあと、「どう?」と言いたげないたずらっぽい笑顔がその整った顔中に広がっていく。
「マジでアンタって」
肘で軽く小突きながら呆れ顔を返すと、触れ合った部分からまた自分の体温だけが高くなり始めているのがバレてしまう。
「ジョークのセンスがゼロだ」
「事実を述べたまでだよ」
「ふん。……さっきの記憶喪失のやつ、アホほどつまんなかった」
「ごめんね」
「ああいうのネタにするのやめろよな」
「悲しくなる?」
「言わせんな」
デジタル板にじっと視線を向けながら、結局、と思う。結局、どこにいても熱からは逃れられない。クラブだろうが、路地裏で腹の立つナンバーワンに首を絞められているときだろうが、家でルームメイトと過ごすときだろうが、感じているのはいつも身体のすべてが吹き飛ぶようなこの鼓動と、勢いよく巡ろうとする血の温度。
「なあ、俺の心臓いる?」
おととい、心臓があればとギルが言っていたことを思い出してふと零すと「なんの話?」とギルが目を丸くする。
「あげる。タダでもってけよ」
「それは嬉しいね」
デジタル板に内容をすっかり書き終えて隣に腰かけたギルの肩にもたれると「アンタからもなんかちょうだい」と呟いた。
「いいよ。君には全部あげる」
「全部?」
問い返すと、ギルがそっと頷く。今度は冗談めいた調子ではなかった。
「僕の全部。また誰かに砕かれないように、大切に保管していて」
<第二話おわり>
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