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仕事中はあんなに恋しいと思っていた夜風がとっくに冷え切った体に染みる。くしゃみを堪えると歩みのスピードを上げた。空が明るくなり始めている中でいまだ消えないネオンが痛々しい酒屋の前にさしかかると、突然「カオル」と自分の名前が呼ばれて思わず足を止めた。
「お、幻じゃなかった。まだ酔いが足りないな」
空の酒瓶を地面に叩きつけてまた新たな瓶を手に取る手に取る大家に「なにしてんだよこんなとこで」と問いながらしゃがむと、鼻先に缶が突きつけられる。
「いらねーよ。ほら帰るぞ。飲んだくれの資本家なんてホント救いようがないな」
缶を吸いつけている吸盤ごと押し返して軽く背中を叩く。促されてのろのろと立ち上がった大家が今気づいたように「なんかびちゃびちゃしてる」と怪訝そうな顔を向けた。
「そう。今ちょっとびちゃびちゃしてんだよ」
「なんで?」
「あー……なんでだと思う?」
並んでのろのろと歩きながら、どれほど酔いが回っているのか確かめたくなって返すと、大家は酒瓶を一口あおって考え込むような素振りを見せた。地球人の感覚だから事実とは異なるかもしれないが、自分とたいして年の変わらなそうな頬をしているとなんとなく眺めながら思った。
「しお」
ちょうど吹きつけた強い風に身を縮こませていたところだったのであまり聞き取れず、え、と顔を上げると大家がじっとこちらをねめつけてもう一度「しお」と言った。
「なに? しお?」
「潮吹きまくって夜明けには相手も自分も全身ぐっしょり。ふむ、間違いない」
真顔で言い切った大家に呆れて「アンタなあ」と呟くとその手から酒瓶を取り上げる。
「さすがに酔いすぎ。俺ばっかりシラフなのが嫌になるよ、まったく……」
奪った酒瓶に口をつけてぐいと傾けると「飲め飲め」と無責任な相槌を打ちながら大家が袋からまた新しい缶を取り出した。
「で、正解は?」
「クラブの冷房がぶっ壊されたんだよ。またダンサー同士のもめごとさ」
「それでも営業はした、と」
「するに決まってるだろ。それぐらいで店閉めてたら何億光年経っても再開は見込めないっての」
食道の細胞の一部をそのまま引きはがしていってしまうのではないかと錯覚するほど、焼き尽くような強いアルコールに顔をしかめてもう一口飲み込む。
「へえ。そんなとこで働いて、よくもそんなピンピンしてられるな」
「そりゃ必死だよ。がめつくてアルコール漬けの大家が管理してるあのフラットにギルだけ残しちゃかわいそうだろ。想像しただけで涙出るわ、マジで」
「その減らず口が命取りにならないことを祈ってる。地獄まで家賃請求しに行くのは面倒くさそうだ」
「アンタならほんとにやりかねないからな……」
酔っぱらいの戯言とも思えず遠い目をすると、「しばらくは死ぬなよ」と大家がひとりごとのようにかすかに唇を動かして、缶の酒を啜った。
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