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絵描きが招かれたのはマーガレットの自室だった。一歩踏みこめば女性らしい香りが鼻腔に触れ、フィルの足が止まる。
マーガレットは先に窓のそばに置かれたソファへ座り、どうぞと手のひらを見せた。
「遠慮せずに入って。私はここでもいいかしら」
どんな理由であれ淑女と二人きりになることはあらぬ噂を呼ぶ。フィルは扉を大きく開いたまま固定し、用意した厚手の紙と画材をテーブルに置いた。
「そのまま楽に座っていてください。できるだけ早く終わらせるつもりですが、疲れたらすぐに声をかけてください」
「分かったわ」
フィルは腹を決めると引き寄せた椅子に腰を据え、コンテを手に取った。
仕事であれ遊びであれ、無骨な手は一度描き始めたら妥協することはない。被写体は年頃の娘であり申し分なく美しい。ざらついた紙面を擦る炭の音は時を忘れさせ二人の間を満たした。
「もう少し顎を上げて。……ああ、そうです。そのままで」
輪郭から滑り降りた線は首筋を辿り、垂れた髪を一筋描き足す。滑らかに浮いた鎖骨、女性らしい丸い肩、そして形よくふくらんだ胸の先。器用な指は丁寧になぞり、コンテの先はくびれた腰回りへと流れ着く。フィルの真剣な眼差しは画家としての欲望に染まり、呼吸さえ忘れるほどの集中力に部屋の空気がピンと張り詰めた。
マーガレットは高揚感に上気していた。男の手が動くたびに体を暴かれるような切なさに飲まれ、触れることのできない距離をもどかしく思う。あの情熱的な瞳に燃えるものが愛情であればと儚い願いまで抱いていた。
綺麗に描いて欲しいわけじゃない。雇い主の娘として見て欲しいわけじゃない。焦がれた想いで見つめるこの目を写しとり、真実に気づいてほしかった。
「あのね、フィル」
長い沈黙の後だった。マーガレットの赤い唇がぽつりとこぼす。
「私、婚約者が決まったの」
無心で動いていたフィルの手が繊細な線を一本描き逃す。
「……そうですか。おめでとうございます」
「誕生日パーティでお披露目するの。キリト侯爵様の御嫡男ですって。知ってる?」
「ああ、ガウス卿ですね。確か前の戦で大層優秀な功績を残されたとか」
「そう。あのゴリラみたいな野蛮人」
「マーガレット様……」
思わず諫めると、マーガレットは膝の上で手を組みうつむいた。
「自分の役割はちゃんと分かってるわ。でも、でも私は……」
「お嬢さま!」
開け放した扉から血相を変えた女が一人飛び込んだ。マーガレットが生まれた時からそばにいる年配の侍女だ。大切なお嬢さまに駆け寄り、威嚇するように男をきつく睨んだ。
「これはいったい何事です!?」
「カリン、そんなに声を荒げないでちょうだい。絵を描いてもらっていただけよ」
「そんな予定は聞いておりません!」
「それはそうよ。さっきお願いして来てもらったんだから」
フィルはまるで悪党かのような扱いに肩をすくめ、描きかけの絵を手に立ち上がった。
「どうもお邪魔しました。私はこれで失礼します」
「フィル!ねぇ、絵はまだ仕上がってないのでしょう?明日も来てくれるわよね?」
絵描きは返事をすることもなく扉の向こうへと消えていく。マーガレットは追うこともできず、伸ばした指の隙間には虚しさだけが通り抜けた。
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