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バスタブの中で、わたしの亨が眠っている。
底の栓を閉めておいて本当によかった。大切な恋人の血が、排水溝に流れて行くなんて耐えられない。
だからわたしのこの手も、顔も、洗えない。服も。
……ああ、もちろん包丁もね。
お水が欲しいわ。
「ちょっとだけ待っててね、亨」
バスルームを出てキッチンへ歩く。
右手に持った包丁をシンク脇に置いて、コップに満たした水を一気に飲み干した。やけに喉が渇くのよ。どうしてかしら。
ふと目をやったガラスの縁が、薄っすら紅く染まってる。
ああ、これも洗わずに取っておかないと。
鉄の味、塩味、……わたしの大好きなあの人の。
窮屈そうな姿勢で、バスタブに掛かった腕はまだ生きてるみたいに温かかったわ。
『手が冷たい人は、心が温かいのよ』
つまり。
手が冷たくなったら、心が温かくなるのよね?
そうしたら今度は私が抱き締めて、手も身体も温めてあげるわ。あの最初のデートで約束したものね。
彼にはもうわたししかいない。
だって亨が最期に見たのはわたしなんだもの。もう二度と、彼の瞳には誰も映らないんだわ。わたしだけの特権よ。
わたしも亨しか見ないからおあいこね。
──あなたは、永遠にわたしだけのものだから。
~END~
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