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おどおどと周囲を見回しながらきらびやかなホテルのエントランスをくぐり、ラウンジで待っていた柊二さんと落ち合った。ルームキーを持った柊二さんの後をついて部屋に入ると自動で背後のドアが閉まる。
荷物を適当に置いてソファに座ると、「遥人、おいで」と呼びかけられた。言われるまま近付けば、両手を取られてそのまま柊二さんの手が俺の手首、肘、二の腕へとゆっくり移動する。脇を通過して胴を流れるその手を俺はどきどきしながら見ているだけだ。
最近柊二さんはよく俺の体に触れる。プレイを始めたばかりの頃は頭を撫でたり手を握るくらいのものだったけれど、近頃はこうやって触れられて抱き締められることも少なくない。そのたび俺はそわそわして落ち着かない気持ちになる。嫌だったらすぐにセーフワードを言って、と言われているけれど、柊二さんに触れられている間はきゅっと胸が苦しくなって、なのにふわふわして、何も言えなくなる。
「遥人、“Kneel(おすわり)”」
コマンドで指示されて、俺は柊二さんの足元にぺたんと座り込んだ。
「いい子だね」
頭を撫でられて、うっとりと柊二さんの膝に頭をもたれさせる。犬扱いされているようで苦手意識のあったこのコマンドも、今では自ら喜んで従うようになってしまった。そのくらい今はこの人に褒められることが嬉しくて心地いい。
「柊二さん、」
呼びかけると優しい視線が降りてくる。
「これ……いつものお礼」
荷物の中から目的のものが入った袋を探し出し、簡易包装されたそれを差し出す。
「お礼?」
お礼されるような事はしてないけど、と柊二さんは言うけれど、いつもプレイの後は家の近くまで送ってもらっているし、今日のホテル代だって俺は一銭も出していない。そんなの気にしなくていいよ、と言われても気にしないわけにはいかなかった。
「開けていい? あ、ドリップコーヒーだ」
「柊二さん、よく飲んでるから……」
「よく見てるね。これは?」
柊二さんがコーヒーに添えられたお菓子の袋を手に取る。
「そっ、それは……おまけ」
おまけ、と言いながら、実はそっちが本命だ。甘いものが苦手な柊二さんのために選んだお菓子。見た目は生チョコに似ているけれど、ドライフルーツとカカオニブとかいうので作られていて、普通のチョコレートより甘さ控えめらしい。わざわざこんなものを用意したのは、今日がバレンタインデーだからだ。
口に合えばいいんだけど……、と俺が言うと、柊二さんはありがとう、と笑って頭を撫でてくれた。
「せっかくだから一緒に食べよう。遥人もコーヒー飲んでみる?」
俺がうん、と頷くと、柊二さんは俺の頭をもうひと撫でしてソファから立ち上がった。備え付けの電子ケトルで湯を沸かす。
「ミルクと砂糖は? 僕の分も使っていいよ」
そう言って柊二さんは元々部屋にあったシュガースティックとコーヒーミルクを手に取る。
「……いらない」
「いいの? 遥人、苦いの嫌いでしょ」
「俺、もう高校生だし」
「それ関係ある?」
「ある! 柊二さんは俺を子ども扱いしすぎ!」
「別にしてないよ」
俺がむきになって言い募ると、柊二さんはくすくすと笑った。俺にとっては、その余裕こそ恨めしい。
早く大人になりたい。今はそれぞれ高校生と大学生で年齢差を感じるけれど、もっと年齢を重ねて大人になれば三歳の年の差なんてきっと誤差にしかならなくなる。
「なんかこっちがフルーツ系で、こっちがココア系なんだって」
購入したドリップバッグは二種類。買ったお菓子に合わせるコーヒーを悩んでいると店員から「ドライフルーツと合わせるならフルーツのような酸味を感じるケニア産のものが、酸味が苦手な方ならココアのような口当たりのこちらのブレンドがおすすめです」と言われた。そもそもコーヒーにそんな種類があることすら知らなかった俺は、訳のわからないままとりあえずおすすめされたものを両方買うことにした。
以前フレーバー付きの紅茶をもらって飲んだことがあるが、コーヒーもそれと同じような感じなのだろうか。詳しくないからわからない。
柊二さんが二つマグカップを用意して、それぞれにドリップバッグを被せて湯を注ぐ。
「僕は酸味がない方が好きだな」
トレーにカップを乗せてソファに戻ってくると、柊二さんはそのうちの一つを俺に手渡した。
「ありがとう」
カップを受け取ってふうふうと息を吹きかけてからそっと一口啜る。その瞬間舌を痺れさせるような苦味に顔が歪んだ。確かこっちはフルーツの酸味がどうとか言っていたもののはずだ。思い描いていたフルーツの甘みなんてものはなく、コーヒー独特の苦味が口に広がる。
「どう? 美味しい?」
柊二さんが俺の顔を覗き込んでくる。俺が文字通り苦い顔をしていると、「こっちも飲んでみる?」ともう一つのマグカップを差し出してきた。こちらはココアのような口当たりだとかなんとか。頭の中でココアの甘さを思い描いてひとくち口に含む。そして俺はそっとマグカップを柊二さんに突き返した。
「……どっちもコーヒーの味がする……」
俺の言葉に、それまで様子を眺めていた柊二さんが顔を背けてくっくっ、と喉を鳴らす。
笑われた。ショックと羞恥で頬が熱くなる。
「……! また子ども扱いした!」
「してないよ……」
そう言いながらも柊二さんの声は震えている。俺は半分不貞腐れながらマグカップに視線を落とした。
「……コーヒーってよくわからない。俺、苦手かも」
「よくわからないって?」
「だって香りからイメージする味と違うんだもん」
図らずも拗ねたような口調になった。これじゃ本当に子どもみたいだ。
コーヒーは好きじゃないけれど、香りは好きだ。香ばしいその香りは焼き菓子のような甘さを連想させる。けれど実際飲んでみれば口に広がるのは重たい苦みで、詐欺だと思わずにはいられない。
「カフェモカなら遥人にも飲めるかもね」
「カフェモカ?」
「エスプレッソにチョコレートシロップと牛乳加えたやつ」
そもそもエスプレッソが何なのかすらよくわかっていないのだが、チョコレートと牛乳が入っているのならきっと甘いのだろう。それなら飲めるような気がする。
「じゃあ次からはそれにする……」
俺がそう言うと柊二さんは再び喉を鳴らして笑った。「大人でもブラックコーヒー飲めない人なんてたくさんいるよ」とフォローされたけれど、絶対に子ども扱いされている。
「あ、これ美味しい」
柊二さんが俺の選んだお菓子を口に含んで、明るい声を上げた。
「遥人も食べてごらん」
口元へ差し出されて、俺は促されるまま口を開ける。舌に乗せると、ドライフルーツの素朴な甘さとねっとりとした濃厚なカカオの風味が広がった。歯触りはほとんど生チョコだ。
俺にとっては物足りない甘さだが、柊二さんは気に入ってくれたらしい。
「遥人は僕の好みがわかるんだね」
優しいね、と後頭部をくすぐられて、俺はなんだか誇らしい気持ちになった。柊二さんが喜んでくれた。褒めてくれた。この人が笑顔になると、まるで自分のことのように嬉しい。
「そんな遥人に、僕からもご褒美」
柊二さんは鞄を引き寄せると、そこから小さな紙袋を取り出した。紙袋の中からさらに細長い長方形の箱が現れる。シンプルだが高級そうに見える青い包装紙には、濃い青のサテンリボンが巻かれていた。
「はい。ハッピーバレンタイン」
まさか柊二さんも用意してくれているとは思わなくて、俺はぱちぱちと目を瞬く。
差し出された箱を受け取って「開けてもいい?」とたずねると、優しい声音でいいよ、と返ってきた。そっとリボンを解き、包装紙を破らないよう広げて箱を開ける。そこには、宝石のルースみたいな佇まいのチョコレートが並んでいた。
「なんか食べるのもったいない……」
「食べない方がもったいないよ」
そう笑って柊二さんはそのうちの一粒を手に取る。ほら、と言って俺の口元へ運んだ。口を開いてそれを受け入れると、チョコレートは舌の温度で魔法みたいに溶けていった。
「美味しい?」
「うん。こんなの初めて食べた……」
「良かった」
柊二さんがほっとしたように微笑む。柊二さんが一粒一粒味の説明をしながらチョコレートを口に運んでくれるのを雛鳥みたいに受け入れる。そうするうちに元々ちょっとしかなかったチョコレートは、あっという間になくなってしまった。
残念に思いながら、ふと柊二さんの鞄の見遣ると、奥に隠れているもう一つの箱の存在に気付く。
「そっちの箱は?それもチョコ?」
「あ……いや、これは」
問いかけると、柊二さんは気まずそうに言い淀んだ。
箱こそ既製品のように立派だが、拙いリボンの結び方で手作りなのだとわかる。柊二さんが大学でもらったものだろうか。
「これは、気にしなくていいんだ」
柊二さんは俺の視界からそれを逃がすように箱を引っ掴むと、近くにあったゴミ箱へ放り込んだ。
「えっ」
予想外の行動に驚いて声を上げる。いくら甘いものが苦手だからって、手作りのものを捨てるのはさすがにひどいんじゃないだろうか。
「柊二さんが食べないなら俺が食べるよ」
贈った相手は柊二さんに食べてもらいたくて作ったのだろうが、開封すらされず捨てられるよりは誰かに食べられた方がきっとマシなはずだ。
ゴミ箱を引き寄せてチョコを救出しようとすると、慌てた様子の柊二さんがそれを阻んできた。
「いや、いいんだ。これは、本当に」
いつもと違う柊二さんの様子に、もしやと思って「これ、柊二さんの手作り?」と
たずねると、柊二さんはばつの悪そうな顔をして返事をしなかった。──それが答えだった。
「あっ! こら、」
俺に言い当てられて動揺する柊二さんの一瞬の隙を突いて、ゴミ箱からチョコレートを手にする。
制止の言葉を振り切ってすばやくリボンを解き、包装紙を取り外して箱の蓋を開ける。そこにはサイズや形が一つひとつ異なるチョコトリュフが並んでいた。
「本当は、もう少し上手にできると思ったんだけど……」
練習する時間が足りなかった、と柊二さんは口惜しげに呟く。よくよく見れば下瞼にはうっすら隈らしきものが出来ていた。寝不足になるくらいチョコ作りに励んでいたということだろうか。
「……これ、俺が食べてもいい?」
そう問うと、柊二さんは無言でトリュフを俺から取り上げようとしてきた。俺はその手を避けてトリュフを死守する。
「食べない方がもったいないでしょ!」
柊二さんに言われた言葉をそっくりそのまま返して、トリュフを一つ口の中に放り込む。
「ちょっ……、遥人!」
柊二さんが珍しく声を張り上げる。青くなったり赤くなったりする顔は、慌てたようにも絶望しているようにも見えた。
口の中でころころとトリュフを転がす。表面にかかっていたココアパウダーは、製菓用の無糖のものではなく加糖のもののようだった。チョコレートの膜に包まれたガナッシュは砂糖が溶けきっていないのか、舌の上でじゃりじゃりとした音を立てる。
「甘いね」
俺がそう言うと柊二さんは「だから止めたのに……」と項垂れていた。普段めったに見ない柊二さんの姿に、なんだかちょっと面白くなってきてしまう。
「自分が甘いのが苦手だから、ちょうどいい甘さっていうのがどの辺なのかわからなかったんだ。試しに人に味見させたら甘すぎるって怒られて……」
どうやらそれで贈るのをやめたらしい。
上手に作れなくても思いを込めて作ったも
のなら受け取ってもらえそうだけどな、と思いながら、先ほどのコーヒーを手に取り嚥下する。口の中のトリュフの甘さがコーヒーの苦さでほどけて溶けた。
「甘いけど、コーヒーと一緒に食べたらちょうどいいよ」
チョコと生クリームとコーヒーだから、実質カフェモカだね、と俺が笑うと、柊二さんは憮然とした表情で「あ、そう……」と返した。でもその耳は赤く、ああ、恥ずかしがっているんだと思った。そうしてしばらくの間、柊二さんは俺がこの甘すぎるトリュフを食べている姿を何も言わずに見つめていた。
「遥人、こっちに“座って”」
三つ目のトリュフに手を伸ばそうとして柊二さんに呼び止められる。
マグカップの中身をこぼさないように慎重に立ち上がって、柊二さんの足の間に割り入り、右の太腿へ腰掛けた。いい子、と頭を撫でられて、ひどく甘えたい気分になる。
それからは絶妙なタイミングで口へ運ばれるチョコレートとコーヒーを交互に味わいながら、柊二さんといろんな話をした。
期末テストが終わったばかりなのに模試が連続して二回もあること、球技大会で自分のクラスが三年生相手に健闘したこと、それから現代文の先生が芥川龍之介のファンで一向に授業が羅生門から先へ進まないこと。とりとめもない話だ。
「芥川龍之介が贈ったラブレターの話知ってる?」
俺が知らない、と首を振ると、柊二さんは芥川龍之介はいろんな女性に熱烈なラブレターを送っていて、それが今も残っているのだと言った。その中でも後に彼の妻となる八歳年下の恋人へ送ったものが特に有名なのだという。
「『僕には僕の仕事があります。それも楽な仕事ではありません。その仕事の為には随分辛い目や苦しい目にあうことだろうと思っています』」
柊二さんはすらすらと歌うように口ずさむ。その姿は、暗唱するというよりまるで自分で言葉を紡いでいるようだった。
「『しかしどんな目にあっても、文ちゃんさえ僕と一緒にいてくれれば僕は決して負けないと思っています。文ちゃんの他に僕の一緒にいたいと思う人はありません。文ちゃんさえ、今のままでいてくれれば』」
蜂蜜色の瞳に見つめられて、まるで、自分に向けて言われているかのような錯覚に
陥る。雰囲気に飲まれているうちに、気付けば顔が近付いていた。今にも唇が触れそうな至近距離。柊二さんがココアパウダーのついた指先で俺の唇をなぞる。
「『二人きりでいつまでもいつまでも話していたい気がします。そうしてKissしても
いいでしょう。嫌ならば止します』」
嫌ならセーフワードを───そう言われたのを思い出す。心臓が早鐘みたいに打って落ち着かない。体じゅうそわそわして、今すぐここから逃げ出したいくらいなのにでもそれが嫌じゃない。……嫌じゃないから、困っている。
俺を見つめる柊二さんの瞳がゆっくりと細められる。居た堪れない気持ちになって顔を逸らすと、柊二さんがふっと笑うのが耳にかかる吐息でわかった。
「この頃僕は、君がお菓子なら頭から食べてしまいたいくらい可愛い気がします」
「っ、……!」
今度は俺が真っ赤になる番だった。
こんなとき、一体どう返すのが正解なんだろう。俺は文豪でもなんでもないから、上手い返し方なんてわからない。
「遥人」
柊二さんの吐息が肌に当たる。名前を呼ばれたら、“見ろ”のサイン。柊二さんにいちばん最初に教えられたコマンドだ。
柊二さんが汚れていない方の手を俺の頬に添える。全身が心臓になったみたいにどくどくと脈打つ。今自分がどんな顔をしているかなんて想像もしたくない。きっとみっともない情けない顔になってしまっているから。
表情を取り繕うこともできないまま視線が絡まる。甘く溶けた瞳に返事を強請られて、俺はゆるゆると唇を開いた。
「お、美味しく食べてね……」
やっとの思いでそう吐き出すと、柊二さんはしばらく絶句した後、俺の肩口に顔を埋めて大きなため息を吐いた。
「……遥人には敵わないよ」
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