13人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
目鼻立ちのすっきりした整った顔だち、ハーフアップにされた黒く艶やかな髪、日焼けを知らない白い肌、人形のように長いまつ毛。休憩から上がり仕事に戻ると、どこか浮世離れした雰囲気を纏う、非常に面倒な客が来た。
こういう場合は逃げるに限る。わざわざこちらから出向く必要はない。自動ドアの前に立つ男を視認した瞬間、目が合う前よりも先にしゃがみこみ、カウンターの裏側に隠れ、物音を立てないように膝をついて一歩ずつ前進する。
カウンター内にいた同僚に不審な目で見られたので、慌ててしーっと人差し指を口の前に当て、声を出すなと訴えかける。このまま事務所に通じるドアまでたどり着けば、こっちの勝ちだ。
「すみません。本日、冬野さんはいらっしゃいますか?」
「はーい! 出勤してます〜!」
あ、終わった。たった今、俺がこの三日間で仕上げた完璧な作戦は、店長の意気揚々とした声により崩壊した。期待した俺がバカだった。店長ならこの面倒な客を帰らせるために嘘をついてくれると思ったのに、しれっと本当のことを言いやがって。
いや、待てよ。ここでうずくまっていれば、体調不良だと勘違いしてくれないだろうか。さっきの休憩時間に堂々と牛丼を食べたけど、うずくまるついでにうめき声も上げれば誤魔化せるかもしれない。
「ほら、冬野くん。大事なお客様が来てるよ」
何とか誤魔化せないかとカウンターの裏でうずくまっていると、営業スマイルを貼り付けた店長に軽く足蹴りされたので、涙を呑んでしぶしぶ立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
無理やり口角を上げ、目尻を下げ、これでもかというほどの営業スマイルを作り上げる。どこからどう見ても顔が引き攣っているはずだ。昨日の夜、鏡の前でこの笑顔を作る練習をした。こんな営業スマイル見せられたら、気分を害してもおかしくはない。俺が客なら間違いなく帰る。
しかしこの男には通用しないらしい。
「こんにちは、冬野さん。何だか疲れてるみたいですけど、大丈夫ですか?」
さっきまでめちゃくちゃ元気だったよ。お前が来店するまでな。と言いたい気持ちを抑えて笑顔を保つ。
「大丈夫です。心配してくださってありがとうございます。ちょっと昨日寝るのが遅かっただけですから」
「寝不足はいけませんね。明日、この店に寝具一式をこの店に送ってもよろしいですか?」
「ダメです」
「それじゃあ、睡眠の質を上げるアロマはいかがですか?」
「結構です」
「僕のおすすめの睡眠アプリを教えましょうか?」
「必要ないです」
笑顔で断り続けていると、店長に思い切り足を踏まれた。
「いっ……!」
「いつもうちのスタッフをお気遣いいただきありがとうございます。ですが、冬野はたまたま夜更かししだけですので、ご心配には及びませんよ」
店長にぐりぐりと足の甲を踏まれながらも笑顔を必死で保つ。夜更かしの原因は笑顔の練習なので、俺は悪くないはずだ。
「そうでしたか。でも寝不足は体によくありませんから、きちんと寝てくださいね」
「ええ、もうそれは言い聞かせておきます。それで本日は……」
「あ、はい。今日は、あの棚からあっちの棚まで全部購入します」
その面倒で迷惑な客は、レジカウンターの前にある棚を端から端まで指差した。店長はこの一週間の中で一番の笑顔を見せた。俺の胃が痛くなった。
最初のコメントを投稿しよう!