あなたを愛したからこそ

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「母上、何故我が家の家系図には男しか居ないのですか?」  今年で十になる息子が純粋な眼で問いかけてきた。ああ、とうとうこの日が来たのか。  この子が産まれてから長かったような短かったような、まだ死の間際でもないと言うのに頭の中では赤子の頃からつい最近、手習いを褒められたと喜んでいた笑みが浮かんでは消えていく。  しかし、教えねばなるまい。それが我が家の決まりなのだから。 「簡単です。我が家は嫡男以外はこの家から離れねばならぬのです」  だからそなたの父上も次男だったために、ここには居ないのだ。噛んで含めるように伝えると、息子ははじめて父がまだ生きているのかと他人事(ひとごと)のように、摺りたての墨のように黒々とした大きな眼は固まっていた。 「そなたには、姉も妹もいるのです。しかし、そなたとは生涯会えぬ決まりなのです」  この子にすれば突然空から槍でも降ってくるかのように、初耳なことばかりだろう。だが、仕方がない。この子は独りで生きねばならないのだから。 「え、でも、母上。我が家の家系図には御祖父様も父上も書かれて⋯⋯」 「いいえ、この系図には確かにそなたの御祖父様は書いていますが、父上ではありませぬ。これは、そなたの父上の兄⋯⋯伯父上です。伯父上は、息子が産まれず亡くなったため、次男であったそなたの父上の息子を家系図上息子としたのです」  そして、母は今日ここを去り夫の元へと帰る。このことを今、混乱している様子の息子に畳み掛けるように伝えるのは酷だろうと、言葉を飲み込む。  だが、仕方ないのだ。これは何百年と受け継がれた一族の伝統。  博徒を束ねるよう、非公式ではあるが朝廷から依頼された我が一族は、跡継ぎを正式な家系図からは消さねばならない。  私も夫に嫁入りする際に言われ、まだ見ぬ我が子を思って泣いたものだ。  けれど、心を鬼にしてこの子を一人にせねば神々の怒りを買う。何せ博徒を束ねるには、博奕ばかり上手くても良くない。神の加護を受け、忍びの者や巫女とも通じねばならぬ、他の金にだらしのない者とは一線を画す存在として君臨することを求められるのだ。  ひとまず、息子には以前より手紙を書いていた。これを明日目覚めた時に読むよう用意をし、何時でも離れられるように極わずかしかない荷物も手早くまとめよう。  そして近所の先祖代々の指南役と巫女に、正式な跡目となったことを告げよう。頭の中で、このように考えながら、この子の持つ家系図から自分の名を消すことを教え、何も心配することはないのだとまだ子供らしさの残る頬を撫で、われ知らず微笑んだ。 「ここまで大きくなって、母は嬉しい。どうか、母はそなたの持つ家系図からは消えるけれど、遠くからいつでもそなたの幸せを願っておることだけは忘れずに」 「それって、つまり母上もこの家系図に居ない女人たちのように消えてしまうのですか?」 「ええ、消えます。しかし、間違えてはなりません。母は死ぬのではありませぬ。そなたが先祖代々のお役目を引き受けるためには、家族と縁遠くならねばならぬ掟なのです」 「⋯⋯わかりました。本当はわかりたくありませんが、そう言わねばならぬのでしょう?母上、もし父上にお会いしましたら私は、恙無くお役目をまっとう致しますので、母上を幸せにしてください⋯⋯そう伝えてください」  とても寂しいですが。瞳に薄い水の膜が増えていく様子にまだもう少しだけここに居てもいいのでは、などと思ったが、嫡男が家系図の不思議に気付いたらそれは神々が呼んでいる証。  本来の我が家にはあなたはいなかったのだと、しなければならない合図。  そなたの持つ家系図は、先祖代々の女たちが息子や夫、父などが存在していたのだと跡目を継ぐ者にだけでも伝えたい、という願いの証だ。 「役目、ご苦労だった」 「いえ、あなたもあの子に赤子の頃以来会えずのままで辛いでしょう」  側室も居るとはいえ、やはり唯一の息子には夫も思い入れがあるらしい。私が屋敷に戻ってから、家系図にある息子の名を消そうとしてほんのひととき、眼に熱が籠るのを抑えるかのように、伏せている。  そうして私の見守る中、息子の名は永久に我が家の家系図から姿を消した。  どうか立派にお役目を果たし、あの子の未来に幸あれ、と夫婦揃って神仏へと願うのだった。
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