顔のない父

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 兄さまの自殺はごくあっさりと執り行われたようです。  ほら、自殺が流行になっていた頃がありましたでしょう。  兄も日光の華厳の滝に飛び込みたかったのかもしれません。そして永遠に中禅寺湖の水底に張り付いて消えていくのを待ちたかったのかもしれません。  でも、兄さまの自殺は惨めでした。  兄さまは晴れて東京帝国大学の学生になり、表向きは生真面目に講義に臨み、成績もそこそこではあったようなのです。そこまではまあ、良しとしましょう。  ところが、晴れて進級した辺りで、急に目に見えて兄さまの成績は落ち始めました。このままでは落第も必至だったかもしれません。  兄は自殺することによって落第せずに済みました。  後から聞いた話ですが、兄はこともあろうに友人の母親と良くない仲、あら、こういう場合は好い仲とでもいうんでしょうか、ふふ。そういう仲になり、それが友人にも、そしてその帝国軍人である父親にも露見しそうになったことに心が震えて、混乱のあまり自ら命を絶ってしまったらしいのです。もちろん、ここまで具体的な話は後に聞いた話。  でも、世間から身を隠すようにひっそりと遺族だけで行われた葬儀でも、「だから言わんこっちゃない」というようなしたり顔の叔父の言葉はこの耳にしっかりと焼き付けておきました。  そして、うちはこういう家系なのだろうか。光太郎だけは免れて欲しいものだが、と思ったのです。  言い忘れましたが、兄さまの遺骸はすでに荼毘に付されていて、死顔すら私は見てはいません。  よりによって不忍池に入水して本当に死んでしまうなんて、もしかしたら兄は本当に運のない人だったのかもしれません。
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