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白衣に身を包んだ六人の学生達が、意気揚々と病棟に現れた。
「失礼します。本日より此方で研修を受けることになりました。」
リーダー的存在の哲(てつ)がそういうと、一同は頭を下げた。
「やあ、待ってましたよ。若いというのは実にいい。前途洋々だねえ。」
そういうと、精神科の院長は一人ずつの名前を聞いては、にこやかに握手を交わした。
「さて、この病棟では、まず血を見るようなことは一切ありません。つまり、外科や内科的な治療は行わないということです。行うのは専ら、患者との対話と、それを通じた経過観察と、適時、薬剤を投与しつつ、経過を観察する。そういう所です。」
手慣れた様子で、院長は淡々と病棟での研修内容について語った。そして、その傍らには、青白い顔をした若い助手の医師が、メモの様なものを取っていた。
「さて、まずは患者に会いにいきますか。」
他の科では、まず会議室の様な所に通されるか、医局で簡単なレクチャーを受けた後、段取りをしっかりと覚えてから研修に入るのが通例だったが、此処ではいきなり患者との対面を行うことになっていた。そのことを知らなかった一同は顔を見合わせながら、少し動揺した様子だった。しかし、
「ま、習うより慣れろさ。」
と、哲がいつものように元気な笑顔を見せると、みんなも頷きながら同意した。病棟の黒い床を院長は革靴の靴音を響かせながらコツコツと歩いた。その後ろを草履履きの学生達がペタペタと、まるでペンギンの行進の様な音を響かせながら付き従った。一本の細い廊下はやけに長く、左右には他の患者達が入れられているであろう雰囲気が伺えた。中には、外から施錠されて、自らの意志では外出することさえままならない戸も幾つもあった。
「さ、着きました。」
突き当たりを右へ曲がったその先は、一際狭い通路になっていて、その奥には施錠されていない戸があった。
「コンコン。」
院長は戸をノックした。しかし、中から返事は無かった。
「失礼するよ。」
そういいながら、院長は戸を開けて、中へと入っていった。それに続いて、学生達も部屋の中へと入っていった。すると、其処には新聞紙を破いたものが、床の上に円形状に敷き詰められていた。そして、その中央には、一人の中年男性が寝間着を着た状態でしゃがんでいた。
「おい。何だ?、これ・・。」
学生の一人が長(おさむ)にそう呟いた。
「・・さあ。」
この病棟に来る以前から、長にも普通の所とは違うであろうという予想はあったが、直にその光景を見た途端、想像の浅はかさなんか消し飛んだ。
「紹介するよ。彼は此処へ来て、もう三年ほどになるかな。自己を喪失した状態です。」
驚く学生達を尻目に、院長は患者についての説明を淡々と始めた。三年前に彼が此処に運び込まれたときには、もう既に自己喪失の状態だったのが、長期間の療養を経て、現在の姿にまではなったとのことだった。見た目には、普通の中年男性だったが、その眼は全く動くこと無く、ただただ正面の一点を見つめていた。
「あ、会話は出来ますから、話をしても構いませんよ。」
院長は、少し微笑んだ風な顔で、学生達にそういった。
「話せって、何を・・。」
学生達は戸惑いながら、また互いの顔を見た。すると、
「何をごちゃごちゃいってるんだよ。何でもいいから聞きゃあいいんだよ。」
と、哲はそういいながら、一歩進んで患者の前に歩み寄ると、
「あの、お名前は?。」
と、にこやかにたずねた。
「ボクは鳥です。だから名前はありません。」
男性は表情一つ変えずに、一点を見つめながらそう答えた。
「じゃあ、何をしてるんですか?。」
「ボクは鳥だから、卵を温めているんです。」
男性はひたすら、自信が鳥であるという主張を変えなかった。いや、変えるとか、そういうのでは無い、寧ろそれこそが、彼にとっては必然的であるかのように言葉を発した。流石ににこやかにしていた哲も、次第に言葉を詰まらせた。異様だった。誰が見ても、そのやり取り、その光景は、異様そのものだった。長は哲の肩に手を置いて、
「おい。」
と声を掛けた。すると、いつもは元気な哲が、どうやら強張っているようだった。長は彼の横に回って哲の顔を見た。すると、額からは脂汗が滲んでいて、血の気が失せているようにさえ見えた。
「おい!。」
長が二度声を掛けたとき、
「あ、ああ。」
と、鉄は我に返ったようだった。
「大丈夫か?。」
「ああ。何でも無えよ。」
そういうと、鉄は何事も無かったかのように、みんなの元に戻った。その様子を、院長は黙って見つめながら、やはり微笑んでいるように見えた。
「何が可笑しいんだろう・・。」
長は院長の笑みが気になりつつも、何故か我の中央に座る男性に話しかけてみたくなった。そして、彼の元に歩み寄ると、
「あの・・、卵を温めていて、楽しいですか?。」
その言葉に、学生達は何て馬鹿な質問をするのだろうと、嘲笑さえした。すると、あれだけ表情を変えなかった男性は、ふと長の方に視線を向けると、
「そりゃ鳥ですから。」
そういいながら、にこりと微笑んだ。そして、再び何事も無かったかのように、一点を見つめた。
「有り難う。」
長は男性に礼をいうと、みんなの所に戻った。
その様子を、院長は不思議そうに見つめながら、
「あの患者が、あんな風に感情を表したのは初めてだよ!。キミは面白いことを聞くね。」
と、長の行動が突拍子も無いことだと、いたく褒めた。しかし、長の真意はそんな所には無かった。彼自身、目の前にいる人間ともつかない人間の存在と、同距離を置いて語らえばいいのか、全く解らずに戸惑っていた。ただ、この先も、自身が医師として職務を全うする際、このような事態に何時であっても不思議では無い、だからこそ、自身の中に少しでも何らかの関心事があれば、それを聞かずにはおれない、そういう気持ちから出た、咄嗟の質問だった。
「さて、では他の患者のところにもいきますか・・。」
そういうと、院長は学生達を戸口へと誘った。
「自分が鳥とは、参ったねえ・・。」
鉄はケロッとした様子でそういうと、真っ先に部屋を出ていった。そして、最後尾には長と院長が並び、退室の際、長は振り返りつつ、男性を見ながら会釈をした。すると、男性は視線を長の方に向けて、
「カー!。」
と、一鳴きして、再び一点を見つめた。
「彼との疎通は、もういいかな?。」
院長はそういいながら、長の肩に手を回すと、後ろでで戸を閉めた。そして、
「どうでした?。」
と、院長は長にたずねた。
「さっきの患者さんのことですか?。うーん、鳥には見えませんでしたね。」
長の素っ頓狂な答えに、院長は思わず吹き出しながら、
「ははは。そりゃそうだ!。彼は人間ですからね。」
と、大層愉快そうに、そういった。そして、
「でもね、此処で患者を人間として扱う学生を見たのは、久しぶりです・・。」
と、何やら意味ありげなことをいいながら、院長は以後、口を閉ざした。そして、その後も何人かの患者を紹介された後、学生達は小さな会議室のような所に誘われた。
「さて、今日は特に症状が鮮烈な患者ばかりに会ってもらいました。明日からは、それぞれの患者について、具体的にどのような治療を進めているのかについての研修が始まります。ですが、その前に、此処がどういう所かというのを、今日はしっかりと見てもらいました。どうでしたか?。」
院長は、学生達に今日の出来事について感想を求めた。いつもなら最新の医療現場に立てたことや、技術面の難しさ等の闊達な質問が飛び交うのが、今日はみんな、一様に口が重かった。それでも、院長は少しにこやかな顔をしながら、学生から言葉が出るのを待った。
「あの・・、」
一人の学生が口を開いた。
「原因は様々だとは思うんですが、どうして患者さん達は、あのように通常の人格が保てなくなるんですか?。」
余りにもストレートかつ勉強不足な質問に、一同は何て質問をするのだといわんばかりに、その学生を睨み付けた。しかし、
「はは。医学書には、脳内の連携が不具合を起こしているとか、伝達物質の異常分泌とか書かれてはいますが、実際に患者に触れてみると、恐らくは驚いたでしょう?。」
院長は学生達がどんなに平静を装っているようでも、人格が破綻したものを目の当たりにした者のみが知る恐怖を見逃さなかった。だから、愚問も出てしまうことも。
「人は生まれながらにして、属するコミュニティーの価値観の中で育つ。そして、その中で共有されている人格を、自身も備えつつ成長していく。それがやがては、アイデンティティーとなる訳です。ですが、それは常に絶対的に自信の内部に在って、決して揺るがないものと、そう思っていたのが、実はそうでは無い。むしろ、いつ何時、そのようなものが崩壊しても、全然不思議じゃ無い。現に今日会った患者達は、そうだったでしょ?。つまりは、そこからが、この病棟の始まりであり、そして仕事です。そのことを知ってもらうには、此処が、彼らが如何なるものなのかを体感するのが一番手っ取り早い。心の準備が間に合わず、少なからず動揺をした人もいるでしょう。ですが、それこそが、この病棟の日常であり、現実です。」
そういうと、院長は傍らにいる若い助手に何やら耳打ちをした。そして、
「さて、それでは、今から今日の事について、各自レポートを書くように。」
そういうと、院長は助手を部屋に残して、自身はそそくさと退室していった。空かさず、助手は手元にあったレポート用紙を数枚ずつ学生の机の前に置くと、ポケットから筆記用具を取りだして、一つずつ丁寧に並べて、一番後ろの席にすわって、何やら書類に目を通し始めた
「あの人は何でいるの?。」
一人の女子学生がたずねた。
「さあ。見張りじゃね?。」
そういいながら、暫くは語らっていた学生達も、早くレポートを終わらせようと、用紙と向き合った。会議室を覆う雰囲気は、ほぼ一貫していた。
「こんな悪夢のような研修から、早く抜け出したい・・。」
それは長も同じだった。自身は医師を志す者で、対峙するのは患者達。自分たちが毅然としていなければ、病める患者など救えるはずも無い。普段はそう思ってはいたが、此処ではそういう訳にはいかなかった。
「オレが医者なんだという確固たるポリシーなんて、自分が自分である、つまり、真面だから通用することだ。それが、脆くも崩れ去るような事があったら、元も子もないな・・。」
長は今日会った患者達と自身との間の、一体、どれ程の違いがあるのか、いや、違いがあると思っていた日常は、もうこの先は通用しないという、そういう不安と焦燥感に狩られ、高鳴る鼓動を抑えるのに随分と時間を要した。そのように感じているのは、どうやら長だけでは無さそうだった。しかし、仮にも自分たちは白衣を纏った医学を目指す者達、こんなことで動揺し、立ち止まっている訳にはいかないとばかりに、みんなは課題のレポートに淡々と打ち込んだ。課題だから、兎角書いてしまいさえすればいいと考える者、今日の出来事と真剣に向き合いつつ眉間に深い皺を刻んで用紙に向かう者と、その表情は様々だった。長は自身が観察したことを客観的に述べつつ、しかし、自身の立ち位置が如何に危ういものであるかについての記述を書かずにはおれなかった。
「よーし、出来た。飯いこうぜ。」
「オレもー。」
レポートを次々に仕上げた学生達は、用紙を片隅にいた助手に手渡すと、退室していった。そして、部屋にはとうとう長と助手、そして哲の三人だけが残された。
「あれ?、何で哲が・・。」
あれだけ強気で気丈な哲が、今回のレポートに手こずっているのを、長も不思議に思った。自分はメンタルが弱い上に文章の記述が下手という自覚のあった長は、自分が一番最後になるのは解る。しかし、何で彼がこんな課題で戸惑うことがあるのか。
「おい、どうした?。」
長は思わず哲に声をかけた。しかし、哲はレポート用紙を睨んだままで、返事は無かった。
「おい!。哲!。」
やや大きめな声で呼びかけて、
「・・あ、何?。」
と、哲はようやく返事をした。
「レポート、出来たの?。」
「ああ。ちょろいもんさ。」
そういうと、鉄はサッと席を立って助手にレポートを手渡すと、そのままスタスタと退室していった。その様子がいつもとは何か違うなと、長は気にはなった。しかし、自分もいつまでも此処でグズグズしていても仕方無い。形はどうあれ、長はようやくのことでレポートを書き終えると、それを助手に手渡した。
「すみません。遅くなりました。」
長時間、部屋の片隅で待ってくれていた助手にお詫びを告げると、彼は顔を上げて、
「書けましたか。それは良かった・・。」
そういいながら、少し笑顔を見せた。そして助手は、みんなから預かったレポートの端を丁寧に揃えると、小脇に抱えて戸口へ向かった。
「さ、どうぞ。」
助手は戸を開けると、長を外へ誘った。
「すみません。」
丁寧にお辞儀をしながら、長は先に退室した。そして、その後ろで、
「ガチャッ。」
と外から施錠しながら、助手も退室した。暗く寂しい病棟の廊下は、長の心を地の底から吸い込みそうな雰囲気だった。草履の音が奇妙に響いていた。長は学生達が集う控え室に戻ったが、先に課題を終えた連中は早々と食事に出かけていて、部屋には誰もいなかった。
「さて、オレも食い物買いにいくか・・。気分じゃ無いけど。」
そう呟きながら、長も白衣を脱いで出かけようとしたその時、
「ゴトッ。」
と、部屋の片隅で何やら物音がした。長はビクッとなった。誰もいないと思い込んでいたが、見ると、部屋の片隅に誰かが蹲っていた。恐る恐る近づいてみると、哲が白衣を着たまま、両腕を抱えて寒そうに震えていた。長は近付いて、哲の様子を窺った。
「哲、どうした?。」
肩に手を置きながら、長はたずねた。すると、哲は背中を震わせながら、
「寒いんだ!。何か無性に寒いんだ・・。」
見ると、哲の顔には全く血の気が無かった。それは青白い無機質の仮面そのものだった。長は直感した。彼は見た目こそリーダーのように振る舞っていたが、それは虚像でしか無い事を。しかし、程度の差こそあれ、それは自分も同じだった。日常を生きる自分たちの姿とは、所詮は自分たちがそう思い込んで生きているだけの仮の姿。真の自分とは、一体何処にいるのか。そのことに急に気付かされた二人は、ただ恐れ戦き、震えるしか無かった。同声をかけていいのか解らないまま言葉に詰まっていた長に、
「あれは何だったんだ・・?。」
と、哲は震える声で、そう話し始めた。
「人間なんて、自分が人間と思っていなけりゃ、人間じゃ無くなる。でも、彼は鳥でも無い。じゃあ、一体何なんだ?。あれは?。」
震えながらひたすらに訴え続ける哲に長も少なからず動揺したが、
「それが解らなくなってるから、治療に来たんじゃないのかな。そして、そのことを学ぶために、ボク達も此処へ来た。だろ?。」
と、まるで怯えた我が子を宥めるかのように、長はゆっくりとした口調で語りかけた。
哲の背中をさすりながら、長は続けた。
「兎に角、何か温かいものでも食べにいこうぜ。腹が満たされりゃ、気持ちも落ち着くかも知れないから・・。」
長は正直、自身の腹具合は全く空いてはいなかった。しかし、哲を安心させるには、そういうより他は無いと、そう感じた。
「・・ああ。解った。」
長に促されるかのように立ち上がると、哲は長と外へ出かけた。
「んー、みんなが何処へ食べにいったのか、解らないな・・。」
出来るだけみんなと合流して、哲の気を宥めようと長は考えたが、辺りには学生らしき人影は無かった。二人は仕方無く、病棟の出口から少し歩いた所にある小さな食堂を見つけると、縄のれんを潜って其処へ入った。
「いらっしゃい。」
カウンターから、無愛想な老婆の声が響いた。
「すみません。何か温かいものはありますか?。」
長はたずねた。
「ああ、うどんなら出来るよ。」
「じゃあ、それ二つ。」
「かけ・・かい?。」
「はい。」
まだ怯えた状態の哲を隣へ座らせると、長も席に着いた。そして、カウンターに置かれた湯吞みと土瓶を手に取ると、茶を注いで一つを哲に手渡した。
「飲めよ。温かいから。」
「・・ああ。」
哲は震えた手で湯吞みを受け取ると、ゆっくりとお茶を飲んだ。それを見て長も茶を飲んだ。喉元から胸にかけて温かい茶が流れていくと、二人は少しずつ落ち着きを取り戻していった。すると、
「すまなかったな。みっともないとこ見せちまって・・。」
哲はそういいながら、お茶を啜った。
「いや、ボクも同じようなものさ。キミがいってたことは、ボクも感じてたから・・。」
長も、まだ自身の中の動揺が完全に治まった訳では無かったが、哲が落ち着いたのを見て、何となく釣られて落ち着きが戻って来たように感じた。この話題には余り触れない方がいいかもと、長はそう思ったが、
「やっぱり、オレには無理かもな・・。」
と、哲はいつになく弱気なことをいい出した。
「無理って、研修か?。」
「いや、医者になることがさ・・。」
確かに彼の動揺は相当なものではあると長も感じてはいたが、たかが研修で医師への道を断念するなど、勿体なさ過ぎる。折角苦労して此処まで来たのにと、長は珍しく奮い立った。
「なあ、オレ達、医者になりたくてここまで来たんだろ?。これまでだって、決して平坦じゃ無く、大変だったじゃないか。今回も、そんな試練のうちの一つだよ。これが永遠に続く訳じゃ無い。だろ?。」
長は、半分、自分にもいい聞かせているかのように、哲に語った。
「・・うん。そうだな。」
長の言葉に、哲も少しずつ元気を取り戻しているかのように見えた。カウンター内では、手際の悪い老婆がモタモタしながら、ようやくのことでうどんを完成させた。
「はい、お待ち。」
湯気の上がったうどんは、疲れた二人に活気を取り戻させた。熱々の丼を受け取ると、二人は割り箸を割りながら、うどんを食べ始めようとした。と、その時、
「おや、キミ達も研修生ですか?。」
と、カウンターの一番奥から、誰かが声をかけてきた。見ると、白衣を着た初老の男性が涼しい目元で二人を眺めていた。
「あ、はい。」
「そうかね。此処の病棟は、なかなか大変だからねえ。」
そういうと、男性は一人で手酌酒を楽しんだ。長は、院長よりもさらに年配の医師がいたのだと、あらためて気付いた。
「あの、先生は此方の方ですか?。」
「ああ。もう随分になるなあ・・。それより、ほれ、うどんが伸びてしまうぞ。」
男性の言葉に促されて、二人は受け取ったうどんを食べ始めた。ズルズルと音を立てながら、二人は温かいものを腹に収めつつ、英気を養っていった。
「ところで、そっちの学生さんは、随分と思い詰めたような表情だったが・・?。」
男性は、先程から二人のやり取りを見ていたようだった。しかし、
「いえ、もう済んだ話ですから。」
と、長は男性の話を遮った。折角元気になってきた哲に、余計なことを思い出させないようにとの気遣いからだった。しかし、
「キミ達、研修生じゃろ?。さては、見たんじゃな?。あの鳥男を・・。」
男性は何の躊躇も無く、いきなり嫌な話題を放り込んできた。二人のうどんを啜る手が途端に止まった。
「此処に来る前は、彼も普通の人間として暮らしていた。それが、自身の存在への疑念が僅かに心の中で生じた。そんなもの、大したことでは無いと気にも留めていなかったのが、やがては自身の意志や感情ではどうにも振り払うことが出来ないほどにまで膨れあがった。そして何時しかそれは、自身の心の領域を大きく支配し、異物だったはずの疑念が、自身の心そのものへと変わっていった。それ以前は普通の人間だったのが、今はああして、自由に鳥として生きている。社会ではそれを異常と呼ぶが、そんなつまらぬ既成概念の縛りなどより、今の彼は大きく羽ばたいている。羽根こそ無いがな。ほほほ。」
男性はそういうと、何が可笑しいのか含み笑いを浮かべつつ、手酌酒を煽った。
長は気になって、哲の方を見た。
「マズい・・。」
哲は青ざめた顔で、脂汗を掻いていた。端を持つ手は小刻みに震えていた。長はポケットから小銭を取り出すと、
「すいません。お勘定お願いします。」
老婆にそういいながら、いち早く哲をこの場から連れ出そうとした。老婆は二人がまだ大して食べていないのを見て、もう帰るのかという顔をした。ところが、
「いや、待て。まだ話は途中だ。」
強張った顔をしながらも、哲は席を立つのを拒んだ。
「どうして?。こんな話聞いても、仕方無いだろ?。」
長は見るからに限界が近付いている哲の様子を心配しつつ、早く戻るように促したが、
「いや、いいんだ。先生、続きを聞かせてくれませんか?。」
と、鉄は男性に話を先に進めるよう求めた。それを聞いた男性はニコリと微笑んで、
「ああ、いいとも。」
といいつつ、少し身を乗り出して話を続けた。
「この病棟にいるのは、人間としての機能を失った者達ばかりだ。機能というのは即ち、常識的な行動規範や価値観、倫理、そういうもので自らを律しながら日常を過ごせる、そういうことだ。しかし彼らにはそれが出来ない。いや、出来ないと評価するのはあくまでも医師や周囲の基準に基づいた判断だ。しかし、彼らは淡々と自身の生を全うしようとしている。純粋にな。その意味において、正常なものも異常なものも、皆同じ。なのに、何故、正常だの異常だのと識別する必要がある?。それは、社会が人間をそういうものとして規定するように仕向けているからじゃ。」
男性はそういうと、再び手酌酒を煽った。
「ところでキミは、その社会が規定する、常識の申し子のような存在じゃな。」
そういいながら、男性は哲の方を見た。
「そして、今キミは、自身を正常なる人間の中に押しとどめようと、必死で抵抗している。じゃが、どうしても収まりきらない生の衝動が、それを邪魔しておる。現に、キミは今、苦しいじゃろ?。な。」
ほろ酔いの老人に見えた男性だったが、眼光は次第に鋭さを増していった。
「・・・はい。苦しいです。そして、恐ろしいです。」
鉄は、負担の強がっている言葉とは全く異なる、自身の心の声を男性に吐露した。
「さもありなん。キミが自身の心の声に耳を傾けず、世間体を気にした殻を纏おうとすればするほど、その膠着した状態がキミの心を締めつける。そして、その苦しみは、キミがキミ自身の心を解放しない限り、永遠に続く。さて、どうじゃな?。」
そういいながら、男性は哲に答えを求めた。何の答えかは解らなかったが、長はこれ以上、哲に男性の話を聞かせるのはマズいと、そう感じた。
「いこう!。もういいよ。こんな話。」
長は哲の左手首を掴んだ。しかし、彼の腕からは体温が全く感じられなかった。哲は長に促されるように席を立った。そして、
「・・・先生、ボクは、どうすればいいのですか?。」
と、まるで蝋人形のような表情で、哲は男性にたずねた。
「簡単なことじゃよ。終わりにしたくば、心の声に従いたまえ。そうすれば、真の姿に目覚めよう。ほほほ。」
男性はそういうと、杯を掲げながら哲を直視した。そして、
「誕生に。」
そういいながら、男性は杯を仰いだ。
「あの、失礼ですが、先生は人を救うために医師をしておられるのでは無いんですか?。」
打拉がれた哲の心を弄ぶかのような男性の言動に、長は思わず声を荒げた。
「救う・・?。それは、彼らのような者を正常な姿にということか?。」
男性は首を傾げながら、長にたずねた。
「ええ、そうです。」
「それは浅薄な、救いとも呼べぬ行為じゃ。そんなもの、脆くも崩れ去る。時間の問題じゃ。現に、キミの傍らにいる友人が、正にそうじゃろ?。」
男性の言葉に、長は何かをいい返さねばと、違和感に満ちた心から雄叫びを上げようとした。しかし、それは自身の問題だった。今、哲の精神は、男性に完全に支配されていた。長の常識も価値観も、全く差し挟む余地は無かった。そして、まるで役目を終えたマネキンを運び出すかのように、長は身動きの取れなくなった哲を抱えながら、店を後にした。歩くことさえ覚束無い哲を、長は抱えつつ引きずるようにして、何とか寝室まで連れ帰った。
「さ、此処まで来たらもう安心だ。今日の事は忘れて、寝るといい。いいか?、余計なことは考えるな。しっかり寝て、疲れを取るんだ。いいな?。」
そういうと、長は甲斐甲斐しく哲を寝間着に着替えさせて、床に寝かせた。そして、長が部屋を去ろうとしたその時、
「・・・すまんな。」
と、寝床から力なく哲が言葉を発した。掠れ越えのその言葉に、生気は全く感じられなかった。長は、これ以上哲の顔を見ることが出来なかった。もし、死人のような顔をしていたら、次は自分の番だろう。そう感じたからだった。長は振り向かずに右手を挙げると、そっと戸を閉めた。
翌朝、浅い眠りのまま長は辛うじて目を覚ました。哲のことも気にはなっていたが、何より自身の精神が崩壊寸前にまで追い詰められているような、そんな恐怖心から明け方近くまで寝付けなかった。こんなこともあろうかと、お守り代わりに持って来た安定剤を握り締めたまま、結局は飲まずに夜を明かしたのだった。疲れが取れないまま、長は顔を洗って歯を磨くと、着替えを済ませて白衣を纏った。
「酷い顔だな・・。」
小さな手鏡は、疲れ切った長の顔を映し出した。宿舎を出ると、長は研修生達が集う小会議室へと向かった。長は少し早い目に部屋を訪れたつもりだったが、今日は既に学生達が集まっているようだった。長は戸を開けようとしたが、隙間が開いていた。そして、戸口付近で話している学生の会話が漏れ伝わってきた。
「知ってるか?。哲がいなくなったんだって。」
「え?、何で?。」
「さあな。でも、確かに張り切ってはいたが、昨日は何か、空元気って感じだったしなあ。」
「ああ。確かに。でも、こんな大事な研修をすっぽかして、ふけるってこと、あるかな?。」
「うーん、でも、オマエも感じるだろ?。此処の病棟。おかしく者の集まりじゃないか?。オレだって、最初あの鳥人間見た時は、言葉を失ったもんなあ・・。」
「ああ、ありゃ、強烈だったな。初めはどう見ても、あっちの方が可笑しいはずなのに、何かこう、次第にどっちが可笑しいのか、訳が分からなくなっていく感じがしてさ・・。」
立ち聞きは趣味が悪いとは思いつつも、長は戸を開ける機会を逸していた。しかし、
「ギーッ。」
長は軋む戸を開けた。突然のことに、戸口で話していた二人は目をまん丸に見開いて、長の方を見た。
「おはよう。」
長は何事も無かったかのように挨拶をしたが、二人は硬直していた。そして、
「・・・何だ、長かよ!。驚かすなよ!。」
ようやくホットしたのか、固まっていた二人は動き出した。そして、長の肩に手を置いて、彼を中へ迎え入れた。しかしそれ以降、二人は哲についてのことは口にはしなかった。長にとっても、その方が助かったような気分だった。哲に何が起きたのかを最期の最期まで知っているのは、恐らく自分一人であろうと、彼は思った。開いている席に着くと、長は何気に辺りを見回した。いつもなら学生達は例えくだらない会話であっても楽しんでいたのが、今日は全くそんな雰囲気では無かった。
「みんなも寝付けなかったのか・・。」
長は何となく直感した。そうこうしていると、院長が助手を従えて入室してきた。
「さて、みなさん。おはよう。」
「おはようございます。」
院長の挨拶に合わせて学生達も普通に挨拶をしたつもりだったようだが、そのトーンは明らかに低かった。院長は助手に指示をし、今日の工程表をみんなに配るように小声で伝えた。と、その時、
「あの、院長先生。」
一人の学生が挙手をして発言の機会を求めた。
「ん?、何かね?。」
「哲君が、今日は見当たらないんですが・・。」
さっき戸口で話していた二人とは別の学生が、哲がいなくなった件についてたずねた。しかし、
「ああ。彼は今回の研修から外れました。」
と、院長はいとも容易く、事実のみを伝えた。
「え。それは一体・・、」
学生はさらに続けようとした。しかし、
「それは個人のプライバシーに関わることなので。」
と、院長は学生の質問を遮った。そして、助手がみんなの手元に用紙を配ると、院長は今日の段取りを淡々と説明し始めた。
「え、では、今日の予定を説明します。」
内容は、やはり各部屋を回って、入院患者と接し、そのことについての所見をレポートに書いて提出する、そういうものだった。
「では早速。」
院長はそういうと、学生達を引きつれて、黒い床を革靴の音を響かせながら進んでいった。そして、外から施錠している部屋を解錠すると、学生と共に入出した。すると其処には、ベッドの上に拘束帯で縛られた患者が呻き声を上げながら体を揺すっていた。
「この患者は、意思疎通ももはや難しい状態です。」
院長はそういいながら、現在その患者にどのような治療を施しているのかについて、淡々と説明を始めた。症状や状況は、明らかに昨日会った件の患者、鳥人間よりは重篤に見えた。しかし、学生達は特段、驚きや戸惑いの様子は見せなかった。
「壊れてしまってる方が、分かり易いってことか・・。」
長は声にならない声で、小さく呟いた。奇妙なことではあったが、言葉を交わさないものの、長もみんなと同じ感慨だと直感した。そのうち、学生達はそれぞれメモを取るなど、普段通りの研修生の姿に自然と戻っていった。長は黙って院長の説明を聞きながら、時折唸っている患者を見た。何か意思疎通のようなことが出来ないかと、患者の瞳を見ようとしたが、焦点は愚か、視覚を維持しているのかどうかさえ解らない様子だった。
「さて、何か質問は?。」
院長は学生達にたずねたが、誰一人として、言葉を発する者は無かった。
それ以降も、同様に入院患者の部屋を訪れては、院長の説明を聞く研修が続けられた。そして終盤、長は昨日とは違って、院長の表情が機械的すぎることに気付いた。
「何だろう。この無機的な感じは・・。」
最期の患者の部屋を訪れた際、
「では、何か質問は?。」
院長の言葉に、やはり学生達は何も発言をしなかった。その様子を見届けると、院長は表情を変えずに部屋を出ようとした。
「あ。」
長は小さく言葉を発した。
「笑っていない。」
昨日とは違い、明らかに院長の口角が上がる瞬間が、今日は全く見られなかった。闊達に発言しようとしない学生達に幾分の落胆を示しているのだろうか。いや、違う。長はそんな気がした。
「楽しくないんだ。院長は。」
研修は大切なプロセスではある。しかし、仕事の時間を割いて学生達に付き添う院長にしても、早く研修を終えて国家試験をパスしたい学生にしても、この時間は、ほんの通過点にしか過ぎない。ならば、共に少しでも無駄な時間を省こうとするのが信条だろう。それは長にも解ってはいた。しかし、それだけでは、まことにもって機械的なだけである。血の通った人間ならば、其処に何か、感情の込められる、そういう瞬間が欲しくもなるだろう。そして、院長にとっては、学生がこの病棟で困惑を極めることが、自身の快楽を満たす、そういう遊戯では無いのかと、長はそんな気がした。
「もしそうなら、悪趣味極まりないなあ・・。」
仮に長の推測が当たっていたとしても、そのことを確かめる術は無い。院長に直接質問したとしても、いや、院長がそんな心づもりであったとしても、真面に答えるはずが無い。結局の所、理不尽であれ、狂気であれ、自身の中の疑念を、この病棟では表現すること自体、無意味なものになっていた。それぐらいに、此処は社会とはかけ離れた、そういう世界であることを、長は次第に認識していった。
各患者への訪問を終え、会議室に集められた学生達は、昨日と同じようにレポートを書き始めた。助手から用紙を受け取った学生達は、昨日とは打って変わって、全く無駄話をせず、レポートに淡々と向き合った。早くこの作業を終えて、解放されたい。そして、心の疲れを取り除くべく、いち早く休みたい。そういう願いが、例え言葉を交わさなくとも、部屋中に満ちていた。コツコツと鉛筆が紙を通して机を叩き続ける騒音が、何よりもそのことを表していた。
「さて、終わり終わり。」
真っ先にレポートを仕上げた学生がサッと立ち上がると、用紙を助手に手渡して、早々退室していった。それに次いで、他の学生達もレポートを提出すると、そそくさと部屋を後にした。そして、今日も最期に残ったのは長だった。彼も昨日よりは淡々とした内容のレポートを書いてはいたが、時折、患者達の様子を思い浮かべながら、意思疎通が出来ないまでも、彼らの心理がどのようなものだろうかと、無駄とは解っていても、つい推察していた。そして、その様子を不審に思ったのか、長の元に助手がそっと近づいて来て、机の前で立ち止まった。そのことに気付かないまま、長はレポートを書いていたが、
「何も出やしませんよ。壊れきった心からは・・。」
助手は冷ややかなトーンで、長にそう語った。それはまるで、彼が長が抱いている感情を見透かしているような、そんな物いいだった。
「解っています。でも、ひょっとしたら、ボク達が気付いていないだけで、ひょっとしたら・・、」
長は彼の異常にさえ聞こえる発言を、自然かつ冷静に受け止め、そう返した。そして、
「出来ました。」
と、自分なりに今日の締めくくりを覆えたと感じると、長はレポートを助手に手渡して、彼を見つめた。彼は明らかに動揺して、長から視線を外した。そして、受け取った全てのレポートの端を揃えると、それを小脇に抱えて退室していった。去り際、
「消灯、お願いします。」
そういいながら、彼は出ていった。
「さて、いくか・・。」
心か体か、それともその両方か。疲れ切った思いものを揺り動かすように立ち上がると、長は電気のスイッチを切って、部屋を出た。このまま夕食を取ろうかとも考えたが、やはりこの病棟では食欲は湧かなかった。
「少し温かいものでも入れるか。」
そう呟くと、長は長い廊下の向こうにある喫煙室の所まで歩いていった。前にその上がりを通った時、コーヒーの匂いがしたのを彼は覚えていた。そして、戸の硝子越しに向こうを見ると、やはりコーヒーメーカーと紙コップが備え付けられていた。
「あったあった。」
長はそういいながら、戸を開けようとしたその時、何やら中に人の気配を感じた。
「ほっほっほっ。では、キミの見立てでは、今日見た患者達は、完全に人間性を喪失していると、そう思っておるんじゃな?。」
聞き覚えのある声が中から微かに漏れてきた。
「・・ええ。だって、全く言葉も解さないし、呻いてるだけですから。」
後に続く声にも、聞き覚えがあった。間違い無い。昨日食堂で出会ったあの男性と、仲間の研修生の声だった。
長は部屋に入ろうかと一瞬悩んだ。しかし、ある疑問がそれを阻んだ。長はノブに掛けた手を下ろした。
「では、こうしよう。キミは森の中へ散策に出かけたとする。と其処に、一匹の小狐が蹲っていた。見るからに瀕死だ。恐らく、何か大きな獣に襲われて逃げ遅れたんだろう。小狐の呼吸は次第に浅くなり、やがてキミの目の前で息絶える。最早救えるでも無かった故、そうなったのは必然。そしてその後、小狐の骸(むくろ)は森に巣くう小さな虫たちによって食(は)まれていく。その後は朽ち果て、骨の欠片へと姿を変えていく。さて、そんな様子を、キミはずっと傍らで見ていたとしよう。一体、何処までが小狐で、どこからが小狐では無くなったのかな?。」
男性の表情こそ見えなかったが、長はきっと彼の口角が若干上がっているのを確信した。
「え?、それは・・。」
当然のように、学生は言葉に詰まった。
「それ。どうした?。キミは医師を目指すのだろう?。しっかりと診断を下さねばならぬ。違うか?。何処までが小狐じゃった?。息絶える寸前までか?。それとも、原形を留めなくなる直前までか?。」
「それは、ボクが、いや、人がそれを小狐と認めなくなる瞬間までです。」
学生は自信の答えが非論理的であるとも気付かずに、そう答えた。
「答えになっとらんな。その境目が何処かを、ワシは聞いておるんじゃがな。」
「まあ、いい。これでキミは、小狐が小狐として存在することの有無を解していないことがハッキリした。それが答え。つまりは、その生き物が生き物として存在するかどうかの認識など、所詮は曖昧模糊たるもの、人間が勝手に規定している、そういう脆いものということだ。そして、此処に集う患者達もみな、そのように医師や社会によって、勝手な規定に則して識別されているに過ぎない。常軌を逸したからといって、意思疎通が不能になったからといって、その前と後で何ら存在に変わりは無いのに、世でいう正常というものにそぐわないという、ただそれだけで振り分けられてしまう。しかし、その振り分けている側の判断基準は、確かなものだったか?。小狐の概念すら規定出来ない、キミのような者が、後々に白衣を纏って、医師よろしく人間を識別していく。それが果たして、正常な判断といえるかな?。」
きっと、学生の顔からは血の気が失せているだろう。長は確信した。哲の時と同じように。
「何か発しろ!。このままでは飲まれてしまうぞ!。」
長は戸の外で必死に叫んだ。しかしそれは声では無く、心の中でだった。いつのまにか、部屋の外にいる長さえも、男性が醸し出す雰囲気に飲まれていた。
「あ、あの・・、気分が悪いので、退室してもいいですか?。」
学生は絞り出すような声で、男性に懇願した。すると、
「構わんよ。此処は誰もが寛げる喫煙室だ。そんな所でさへ気分を害するようでは、他に何処へ、いき様があるかは極めて難しいじゃろうがな。ほっほっほっ。」
男性の呪縛から解放された学生は慌てて部屋を飛び出した。すんでの所で長は戸の脇に身を躱した。すると、真っ白な顔をした学生がなんとか呼吸を確保しようと喉元に手を当てながら、ヨロヨロと走り去った。一度ならず二度までも、生きながらにして魂を奪われたような人間を目の当たりにして、長の心持ちも全く以て穏やかでは無くなっていた。
「はあ、はあ、はあ・・。落ち着け、落ち着くんだ・・。」
呼吸を整えつつ、長は今、戸の外で二人の会話を聞いていた自分を思い出そうとしていた。こういう状況というものは、連鎖する。彼は此処へ研修に来る前に、精神医学に関する下調べはしていた。集団心理の波及効果。それは、どんなに小さな規模でも、隣接する他者に伝播する。長は次第に思考が出来ることを確認すると、
「よし。」
と小さく呟いて、喫煙室へ入っていった。
「おや?、キミは・・、」
「こんにちわ。」
長は男性に会釈すると、コーヒーメーカーの所まで歩み寄り、紙コップにコーヒーを注いだ。紙を通じて、温もりが手に伝わり、そして耽美な香りが部屋に広がった。長は傍らにある砂糖とミルクを入れると、備え付けのスプーンでかき混ぜて、口に含んだ。
「ほーっ。」
苦みと甘さを堪能しながら、長は窓の外に目を遣った。
「昨日も会った・・かな?。」
挨拶以降、男性に声を掛けなかった長に、男性の方から声を掛けてきた。
「ええ。」
長は無下に返事をした。
「話を聞いておったのか?。」
「いいえ。」
長は男性に取り合うこと無く、コーヒーを飲んだ。
「そうか・・。」
男性は、長が自身に関心が無いと見ると。胸ポケットからタバコを取り出して火を着けた。そして、煙を燻らせながら、徐に立ち上がった。
「さて、巡回にでもいくかな・・。」
男性が奇妙なことを発したのを、長は聞き逃さなかった。
「こんな時間にですか?。」
「ああ、そうじゃよ。患者の心の叫びは、何時生じるか解らんからな。ほっほっ。」
そういいながら、男性は長の肩をポンと叩いて、部屋を後にした。
灰皿には、まだ吸いかけのタバコが煙を立ち上らせていた。長は部屋に誰もいないのを確認すると、長椅子に腰掛け、そのタバコに手を伸ばした。そして、それをくわえると、肺の奥深くまで煙を吸い込んだ。
「ケホッ、ケホッ!。」
喫煙癖の全く無い長には、フィルターの無いタバコは相当キツかった。途端に目眩がした。と同時に、今まで感じたことの無い奇妙な落ち着きが脳内に訪れた。長は天井を見つめながら、時折コーヒーを口に含みつつ、ゆっくりと考え始めた。
「あの男性の分析は極めて鋭い。しかしそれは全て、聞く者の、医師としての姿勢を試さんがための、そういう試練のようなものだった・・。そして何より、彼は此処に集う患者達が何者かという問いを、ひたすら投げかけてきた。単に識別しつつ、機械的に取り合うのでは無く、自身と患者との関係性、いや、それ以前の存在性、そのようなものを深く問いかけながら・・。」
実は、その点については、長自身もあの男性に対して、少なからず賛同する部分があった。自身とは異なる、異質なる者への恐怖。そして、其処から来る、自身の精神性を保とうとする隔絶。そういうものが、患者に対する真の理解の妨げになっているのでは無いか。しかし、その壁を越えて、敢えて向こう側にいく覚悟が、まだ自分の中にも出来ていない。そして、そういう絶妙なる部分を、あの男性は常に突いてくる。熟練医師のなせる技とは、かくなるものかと、長は関心を示しつつも、
「ん?、待てよ・・。」
と、一つ、どうしても拭えない矛盾点があった。一見、穏やかな初老の男性にして、卓越した精神科医。それにしては、研修生達への詰問に、全く建設的な部分を感じない。寧ろ、彼らの精神に対する破壊工作を楽しんですらいるようにも、長には見えた。果たしてそれは、医師の資質を試すべくして行われる試練と呼べるのか。コーヒーを口に含みながら、長はまた深く煙を吸い込んだ。
「ケホッ、ケホッ!。やっぱり、ボクには煙草は無理だな・・。」
そういうと、彼は灰皿で煙草の火をもみ消して、飲み干した紙コップを塵箱に捨てると、喫煙室を後にした。
翌朝も、長は酷い顔のまま小会議室に向かった。今日は戸口の辺りで誰かが喋っている様子は無かった。戸を開けて中に入ると、数名の学生が先に来て座っていた。
「おはよう。」
「ああ、おはよう。」
長と同じく、先に来ていた学生達も、冴えない顔をしていた。連日の研修が、余程堪えているのだろう。そして、もうすぐ研修の開始時刻だというのに、空いている席が目立つのに気付いた長は、
「あれ?、他の連中は?。」
と、先に来ていた学生にたずねた。しかし、
「さあな。また減るんじゃないか・・。」
と、まるで他人事といった感じの返事を返してきた。と、其処へ、
「さて、みなさん、おはよう。」
「おはようございます。」
いつものように院長が助手を従えて部屋に現れた。そして、助手は何事も無かったかのように、淡々と今日の工程表を出席している学生の前に配って歩いた。しかし、欠席者が目立つのが、長はどうしても気になった。そして、挙手してそのことを院長にたずねようとしたその時、
「えー、今日は欠席者が多いですが、研修はこれまで通り続けます。」
院長はこの状況に答えるつもりは無いといわんばかりに、淡々と話を進めた。そして、午前中はこれまで通り、各患者の部屋への訪問。そして午後からは他の医師達が代わる代わる小会議室にやって来ては、彼らに短時間のレクチャーを施すと、慌ただしく部屋を去っていった。本業の合間を縫ってのこと故、そうなるのは当然のことだった。疲れ切った表情の学生達は、必死にノートを取りながら、最後に提出するレポートに備えた。しかし、長はあることに気付いた。一通りやって来た医師達の中に、例の年配の医師がいなかった。恐らくは最古参が故に、研修からは外れているのだろうとも考えたが、やはり腑に落ちなかった。そして、一日の最後に書くレポートの時間を控え、少し休憩の時間があった際、
「なあ、今日、年配の先生、来なかったな。」
と、長は近くにいる学生に、何気にたずねた。
「年配?、院長よりか?。そんなの見たこと無いぜ。」
学生は長の質問に対して、不思議そうに答えた。
「え?、だって、優しそうだけど、弁の立つ初老の先生がいるだろ?。」
「いや、オレ、見たこと無いなあ。」
その学生と長との会話は全く噛み合わなかった。と、その傍らで、机の上に両手を置きながら、強ばった表情で一点を見つめている学生がいた。ひょっとしたらと思い、長は彼にたずねた。
「ねえ、キミ、知ってる?。その初老の先生を?。」
長はそうたずねたが、彼は何も答えようとはしなかった。恐らくは何かを知っているのかと勘繰った長は、さらに彼に問いかけようとした。すると、
「すまないが、放っておいてくれ!。」
と、強い語気で、彼は長を遮った。
長は机の上に置かれた彼の手を見た。小刻みに震えていた。彼を落ち着かせようと、長は囁くような声で、
「キミも見たんだな?。ボクもだよ。」
そういうと、彼の向かいにそっと腰掛けた。すると彼は少しずつ話し始めた。
「・・・何か聞かれたか?。」
彼は視線を上げて長を見ながらたずねた。
「いや、ボクは何も。哲と、他の学生が一人、その男性に語りかけられてた。」
「オレもさ。夕飯食って、喫煙室で友人と寛いでたんだ。そしたらその老人が現れて、友人にあれこれ聞いてきたんだ。初めは研修に関する、他愛も無い話だとオレも思った。しかし、話が進むにつれて・・・、」
そういうと、彼は再び顔を強張らせた。長は彼の手の上に自身の手を重ねながら、
「無理に思い出さなくてもいい。その男性は確実にいた。そして、キミに話しかけた。だね?。」
「・・・ああ。」
「有り難う。」
長は優しく礼をいうと、彼の手の甲をポンポンと軽く叩いた。しかし、
「オレ、解らねえよっ!。オレはオレなんだ!。でも、アイツはオレが思ってるオレは、本当のオレじゃ無いとか、訳の分からないことをいうんだ!。オレはオレじゃねえか!。なのに、何で、何で・・・。」
そういうと、彼は机に突っ伏して、額を机に打ち付けた。慌てて長が宥めようとしたが、そこに院長と助手が入ってきた。
「さて、今日の研修のレポートを・・、」
そういいかけた院長だったが、長達の異変に気付くと、助手に目配せをして、突っ伏している学生を外へと運ばせた。
「さ、いこう。」
助手はそういうと、学生の両肩に手を回して、彼に付き添いながら部屋を出て行った。そして、何事も無かったかのように、院長は助手に替わってレポート用紙を学生達の前に配って歩いた。部屋の雰囲気は、殺伐と疲弊に満ちていた。それでも研修を続けようというのかと、長は憤りのようなものを感じた。しかし、いくら院長にたずねた所で、彼は何ら答えることは無いだろうことも、長にはもう解っていた。そして、いつものように促されるがままに、みんなと同様、彼も黙って用紙と向き合いつつ、レポートを完成させていった。暫くして助手が戻ってくると、院長が退室していった。もう手慣れた学生達はレポートを型どおりに書き上げると、逃げ出さんばかりにそれを助手に投げるように手渡すと、次々に部屋を出ていった。しかし、長は普段通り、今日会ったことを一つ一つ思い返しながら、丁寧にレポートを書き上げた。すると、今日も助手が彼の元に近づいて来て、
「ん?、まだですか?。」
と、怪訝そうにたずねた。
「はい。噛みしめながら書いてますので。」
長はそう答えると、速度を上げること無く、レポートを続けた。何かいいたげな助手を尻目に、長は自身のペースでレポートを書き終えると、それを丁寧に助手に手渡した。そして、部屋を出ようとしたその時、
「キミは大丈夫なのですか?。」
と、意味ありげな質問を、助手はしてきた。
「さあ。解りません。失礼します。」
助手も何かを知っていることは間違い無さそうだったが、誰が味方で誰が敵かさえ解らないこの場所で、これ以上本音を答える必要は無いと、長はそう思った。そして、静かに退室していった。
「ボクもそろそろ・・かなあ。」
そう呟きながら、長は足早に帰宅しようとしたが、喫煙室付近に差し掛かったとき、微かにする煙の匂いに気付いた。もしやと思い、彼は戸を開けて部屋にに入った。
「やあ。こんにちわ。」
例の男性が紙コップ片手に、長椅子に座りながら挨拶をしてきた。
「こんにちわ。」
長は彼を真っ直ぐ見ながら挨拶を交わすと、彼の側に腰掛けた。
「コーヒーは?。」
「いえ、結構です。」
長はそういうと、神妙な顔で座り続けた。彼からの言葉を待っていた。男性はコーヒーを啜りながら、
「今年の学生は予想以上に脆かったなあ。」
そういいつつ、口角を上げた。そして、
「しかし、キミはどうして、なかなか大したものだよ。目の前で仲間が次々に精神を病んでいく中にあって、こうして気丈に振る舞っている。うんうん。」
男性は一人合点しながら、さらにコーヒーを啜った。
「気丈なんかではありません。ボクは恐ろしいです。」
長は真っ直ぐに前を見ながら、はっきりとそう答えた。
「ほう。それは一体、何故かな?。」
「自分が自分で無くなるかも知れない。それは誰にとっても恐怖です。ですが、アナタのいわれるように、そんな自分という像も、所詮は思い込みであるならば、壊れるのも不思議じゃ無い。自我なんて、高度に精神性を持つ生物にしか備わっていない概念ですからね。」
「うむ。その通りじゃな。」
「ボク達は、人間である以前に、生物です。生きることが必然です。でも、いつの間にか、精神世界や社会といったものを築き上げて、その繋がりが強固なものになっていった。そして、それに即しながら生きることを、暗に求められる存在になっていった。それが人類の進化だと、ボクはそう理解しています。」
「ふむふむ。なるほど。」
「ですが、そう理屈通りにはいかない。何故なら、ボク達は機械じゃ無く、生き物だからです。生き物に則した理というのがあるならば、ボク達の生命はその理に則している。自分たちが思い描く精神性は、恐らくずっと後に出来上がったものでしょう。故に、基礎が脆弱であっても、それは仕方の無いことです。ですが・・、」
そういうと、長は話を頷いて聞いていた男性をキッと睨んだ。
「それでも人間は、健気に心の領域を構築しようとする生き物です。そんな存在や営みを、アナタは何故邪魔しようとするのですか?。」
長は志半ばで研修から去らなければならなかった仲間の無念を思ってか、急に胸が熱くなった。そして、男性に詰め寄った。
「アナタはみんなに詰問しつつ、相手の精神が崩壊するのを、まるで弄ぶかのように楽しんでいる。アナタの望みは、一体、何です?。」
長の言葉に、男性は少し面食らったような顔をしたが、
「ワシは別に何も望んでは・・、」
男性がそういいかけたとき、
「それは嘘です。アナタは相手を論破して突き崩すことでしか、自身の確からしさを確認出来ない。そして、そうし続けることが、アナタにとっての唯一の存在理由。違いますか?。アナタは他者を壊すことでしか、自身の生産性を築き上げることが出来ない。一生、誰とも交わることも、共に喜びを味わうことも、悲しみを分かち合うことも出来ない、そんな孤高にして絶望的にな存在。それがアナタだ!。」
長の言葉に、これまで穏やかだった初老の老人はすっくと立ち上がると、
「貴様に何が解るっ!。」
そういいながら、コーヒーの入った紙コップを長の顔目掛けて思いっきり投げつけた。長はされるがままに黙って耐えた。と、其処へ、
「先生、いました!。」
と、助手が急に喫煙室に飛び込んできた。そして、その後に院長が慌てて駆けつけた。
「嗚呼、こんな所にいましたか・・。」
そういうと、二人は初老の男性の両脇を抱えた。
「さ、病棟に戻るぞ。」
「嫌じゃ!。ワシは先生じゃぞ!。」
「はいはい。解りましたから。」
助手は荒ぶる男性を宥めながら、二人して男性を室外へ運ぼうとした。呆気に取られた長は、その様子を座ったまま眺めていた。すると、
「ああ、長君、大丈夫だったかね?。」
院長がコーヒーまみれの長を心配してたずねた。全く事情の掴めなかった長だったが、ようやく状況が飲み込めたらしく、
「あの、その人は・・?。」
と、立ち上がりながらたずねた。
「ああ。彼は此処の最古参の患者だよ。ワタシが此処へ赴任するより以前から入院している。で、時折、白衣を盗んでは、医師のように振る舞う。そういう症状だ。さ、いくぞ。」
そういうと、院長は長の方を見て頷くと、にっこりと微笑んだ。
「嫌じゃ嫌じゃ!。ワシはれっきとした医師じゃぞ!。こやつに、こやつにワシの正義の診断をさせてくれい!。」
男性は二人に抱えられつつそう叫んだが、求めも虚しく、早々に退室させられていった。静けさの戻った部屋に佇んでいた長は、足元に落ちていた紙コップを拾うと、それをゴミ箱に捨てた。そして、コーヒーで濡れた顔を白衣の裾で拭いながら、部屋を出ようとした。
「うー。」
「あー。」
廊下のあちこちから、人間の声ともつかない呻き声が響いた。その真ん中を、長は両の手の平を広げながら、まるでその振動を吸収するかのように、一歩ずつ確かめながら歩いていった。そして、院長が見せた笑みを思い浮かべつつ、心の中で呟いた。
「なれるかどうかは、解らない。でも、いつかきっと、和らげます。」
研修を終える頃には、過半数の学生が次の研修場所に趣くこと無く、この病棟で治療を受けることになったという。そして長は、コーヒーの染みついた白衣を丁寧に畳んで仕舞うと、次の研修場所に向かった。
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