タカムラ見聞記 新選組異聞

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 かつては京の都の中心を南北に貫いていた朱雀大路。その西にあった右京の衰退により、通りの名も立てられた卒塔婆の数に喩えたのか千本へと変わり、都の西の境界を仕切るかのような通りになっている。この通りの北辺には小高い岡のような山が望め、その西側に連なる台地には埋葬地となる蓮台野が広がっていた。  埋葬地の入り口辺りに、死者の引接を行うために建立された閻魔堂。西陣と呼ばれ機業で栄える地域の西北辺りにあり、千本通りに東面して山門を構え、ここから本堂へ石畳の参道が設けられている。本堂の右手には空地を挟んで板張りの堂宇があり、ここの二階は狂言の演舞場になっていた。都の木々に新緑の若葉が茂る季節になった日の夜明け前、暁暗の境内は深々とした静寂に包まれている。そのような時、参道の脇にある井戸を覆う掛板の隙間から、陽炎のような夜気を歪める揺らぎが立ち上がっていた。朦朧とした揺らぎは、いまだ輪郭を判然とさせていないが人形(ひとがた)のような姿を成し、遊泳するかの如く参道を進み、本堂へと姿を移した。堂内の本殿には右手に笏を持ち、七尺に届くかに見える閻魔大王像が座している。四角張った顔立ちに厳めしい眼差しで、口は人の罪業を叱りつけるかのように半ば開いている。その頭上に被る冠の前面には王の文字が描かれ、お参りをする人に威厳を示していた。そんな閻魔像の前に趺坐すると、やがて輪郭を顕わにした揺らぎに、閻魔大王から声が掛かった。 「タカムラか。有らぬ所に姿を現したな」 「おー、これは大王にございますか。大王こそ有らぬ所へお出ましになられ、如何なされましたか」 「そなたが一千年ぶりに冥界を離れ、現世の有様を見てみたいと申すため、我は密かに後を追って来たのじゃ」 「それは私奴の見張りにございますか」 「いや、そなたが望んだ現今の世は、江戸幕府の統治に綻びが見られるようになっている。そこで、そなたが義憤に駆られ大きな争乱を巻き起こさないかが気になったからじゃ。我らは冥界で死者に六道への差配をしなければならず、戦乱や飢饉、疫病のように、急な死者の増加は手に負えなくなるからのう」 「まことその通りで、私奴も大王の輔弼の任に当り、身に染みておりますれば、現世の成り行きに関わることは避けたく存じます」 「その気持ちを忘れることのないようにすることじゃ」  本殿の暗闇の中でもお互いの姿を認めることが出来るのか、冥界から来たと言う閻魔大王とタカムラとの会話が続いている。それは空気をほんの僅かに震わすだけであり、現世の人々の耳には恐らく届くことはない。 「ところで、ここは千本閻魔堂と呼ばれている所のようですが、かつて現世への道に使っていた嵯峨野で無く、久方ぶりで道を間違えたようにございます」 「そうかも知れぬが、当初、ここに祠を作り、刻んだ閻魔像を納めたのは、そなたではなかったのか」  暫し顔を伏せ沈思していたタカムラは、往古の記憶にたどり着いたのか、顔を上げ閻魔大王像を見上げた。 「左様にございました。確か、往時、この辺りは野ざらしの遺骸が累々と放置され、死者の鎮魂を込めて閻魔像を祀りましてございます」 「そうであろう。そんなことが、そなたの意識の片隅にあって、ここへの道を歩ませたのであろう」  「私奴はその頃、既に大王にお会いしておったことから、刻んだ閻魔像は瓜二つの顔貌に仕上げておりました。然りながら、ここの像は凜々しさに欠けております」 「それは、当初の像が焼けてしまったことでもあるが、現世のあちこちにある閻魔像は冥界を知らぬ者どもが、想像の下に刻んでおる。だが、我が現世を垣間見るには、ちょうどよい憑代ではある」 「憑代にございますか」 「そうじゃ、憑代じゃ。この本殿の脇に、そなたの像も見かけたが、そなたの憑代にしたらどうじゃ」  タカムラは、脇にあった己と思しき像に苦笑を交えながら大きく頷いていた。 「ところで現世に立ち返りたいと、この時世を望んだ訳は、やはり長く続いた武士の世の終息を思ってのことか」 「私奴が冥界に入って以来、様々に世が変転してまいりました。現今の世は一千年が過ぎ、鎌倉の世に起こった元寇を凌駕するほどに国の外からの力が及ぶとも考えられます。そこで、斯様な世に生きる民の処世を見届けたいと勘考してございます」 「それでよい。先にも聞いたが、冥界の者が現世の成り行きに関わることは避けるべきじゃ」  ここで閻魔大王が、安堵の吐息を漏らして言葉を繋いでいる。 「それと肝心なことは、かつて冥界と現世を行き来していた頃のそなたは、生であったが、今は死して後の冥界の住人じゃ。冥界の者は現世では、姿はあれど気のようなもので、これを見て現世の者は幽霊とか亡魂とか様々な形容を用いておる。要は、物体としての存在ではなく、また現世の物体も素通りしてしまう」 「正にその通りかと思います」 「このことを勘考すれば、現世と関われるのは見えることが出来る姿と声のみとなる。そこで現世の民の処世を見届けると申しても、何らかの関わりを持たねばなるまい。それに必要なものは金銭であり、もう一つは争いに処する武具であろう。そなたも聞いておろうが、現世は勤王や佐幕やら、はたまた攘夷や倒幕など、口々に騒ぎ立てている輩が世を乱し始めておる。このようなことが民の暮らしに、跳ね返って来よう」 「それは致し方ございませぬな」 「そこで金銭については、この場所で我の真言を三度唱えた後で、入り用の額を述べれば直ちに備わることになろう。それに武具については、頭上に腕を伸ばし、金銭と同様に我の真言を唱えよ。さすれば抜身の閻王の剣を手にするであろう。この剣は、人の罪業を正すための剣であって殺傷を負わすものではない。然りながら、一閃すれば現世の者なら立ち所に怯むことになろう」 「何かとお見通しで、金銭や武具のことまでお気遣い賜り、まことに忝くぞんじます」  タカムラは、閻魔像に向かって頭を下げている。 「ここまで一千年に及ぶ長い間、我を助けてくれていたことへの心配りじゃ。念のために話して置くが、金銭と剣を手にしている間は実の姿になっており、離せば元の気の姿に戻ることになる。ちなみに剣は、用が済めば真言に合わせて天空へ放ってもらおう」 「わかりましてございます」  全てのことを話し終えたのか、閻魔大王からふーっと吐息が聞こえて来た。 「これで我の言い残したことはないはずじゃ。そなたが冥界に入ったのは確か五十一歳であった。老齢の歳であり、現世であまり無茶をしないことじゃ」 「数々のご忠言やご配慮を賜り、まことに有り難うございました。現世の成り行きに埒が付けば、直ちに冥界へ戻りますので、しばしご放免のほどお願い申し上げます」  タカムラのこの言葉を聞いて閻魔大王が冥界へ戻ったのか、閻魔像から生気が抜け去っていた。
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