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2-7
もっと歩いていたいのだが、この冷え込んだ中では避けた方がいいだろう。遊歩道を歩いて帰る約束をしたものの、風邪を引かせてしまうだろう。デビュー後の忙しさがひと段落ついて、やっと気が抜けている。そろそろ体調にリバウンドする頃だ。
「ゆうとくーん。今日は遊歩道を歩かずに帰ろう。記念日に約束を破ってごめん」
「破ったことにならないよ。裕理さんを風邪ひかせたくないもん。そんなに丁重に扱うなよ」
「荷物みたいに抱っこすると怒るくせにか?」
「なんだよーー、シュンってなっていたくせに。ポジティブマン、ユーリマン!」
「……そうか。笑わないようにする」
悠人が笑っている。月を眺めながら。考え事をしているのは伝わった。寂しそうにすらしない。それが自分にとっては寂しい。
(こういう光景があった。病室の窓から月を眺めたことがある。一緒にいたのはあの男性だ。何かを教えてもらった……)
子供の頃の記憶がよみがえった。実母が病室のベッドで休んでいる光景だ。急に入院をして、何日か留守番をすれば帰ってくると思っていたら、亡くなった。
毎日病室へ連れて行ってくれた人がいる。俺たちのマンションに訪ねてきていた男性だ。若い人ではなかった。おじいさんではないのに、眉間に深い皺が刻まれた人だった。怖くはなかった。その人からこう言われた。
(……おじさんの家に来ないか?お兄ちゃんたちがいる。きっと気が合う)
(……僕の家はあるもん)
そういう会話をした記憶がある。自分の父親は誰なのかは知らなくてもいい。海外にいる事は分かっている。実母の友人から聞いたからだ。あの会話の相手のことを知りたい。病室へ連れていく間柄なら、母が世話になった可能性が高いだろう。礼を言いたい。すでに高齢だろう。
「親父に電話をかける。このまま待ってくれ」
「向こうでかけてきていいよ。ここで待っているよー」
「ここで電話する。……こういう事情だ」
「ふむふむ……」
父と明日会う約束を取りつけたい。子供の頃の記憶の中にある、母と暮らしていたマンションに訪ねてきた男性のことを聞くために。父との電話が終わった後、悠人が真剣な顔で見上げてきた。
「明日は一緒に居た方がいい?待っていた方がいい?」
「待っていてくれ。明日は収録がある日だ。迎えに行く」
「うん。分かった。そうだ、タクシーまで競争しようよ!よーい、スタート」
「こら、そっちは木があるぞーー」
俺に気遣って遊んでいるのだろう。一番いい方法だ。今の自分にとっては。走り出した悠人のことを追いかけていくうちに、記憶の中にいる、あの日に泣いていた自分が笑った気がした。
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