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2-1 新しい生活の中で
12月2日、火曜日。午前7時半。
今日は2日遅れの結婚記念日を祝う日だ。銀杏ホテルのレストランでビュッフェを楽しみ、マンションの前の遊歩道を散歩するデートコースになる。俺としては照れくさいのだが。早瀬は嬉しそうにしている。
スマホのアプリを見ると、72候のページには、金盞香・きんせんかさくと書かれていた。目の前には水仙が咲いている。
ここはマンションの車寄せスペースだ。早瀬は通勤タクシーが到着するのを待ち、俺の方はIKUの送迎車を待っている。大学に行く前に、黒崎家と佐伯家の両方に寄っていく。
送迎車を待っていると、自分がプロのミュージシャンになったことを実感する。ステージは夢の世界であり、非日常の場所だった。家に帰れば久田悠人だ。大学でも同じだ。そこにギタリストユートという男が現れた。不思議だ。
もうすぐで、初めてのテレビ収録日を迎える。スタジオというステージで演奏を披露する。ありがたいことに、各方面にファンから問い合わせが入っているという。出演番組の時間は?どこに出ますか?公式サイトに載っていなくて……などだ。
嬉しくてたまらない。可愛い子だわ。その言葉だけでも嬉しい。しかし、そう思っていたのは先週までだ。男という生き物は常にリスペクト対象を求めるのか、大学内で、なんと俺と夏樹が憧れの人になってしまった。可愛いと連呼されて恥ずかしくなっている。
早瀬も喜んでくれた。友達が増えていいじゃないかと言われた。確かにそうとは言える。差し入れの食べ物が増えたし、夏樹の人見知りがマシになった。しかし、夏樹はステージでは別人だ。落差が大きくてズッコケることがある。
大学に遊びにきたファンの女性たちが、夏樹を見て、”あれ?”という反応をしていた。想像と違うからだと思う。好物のプリンアラモードを見てホクホク顔になり、黒崎さんからのラインを読んでニヤけている。それを目撃すれば、キャーーッという悲鳴をあげたくない。夏樹は平然としている。人形のようにきれいだ、生きているのかしら?と囁かれた時代を思い返せば、幸せなことだと言っている。
「裕理さーん。商売繁盛って言い出したんだよ。夏樹がだよ?」
「圭一さんが複雑な心境になっていた。昨日話していたよ。ここまで育ってよかったって。俺は君のことで寂しいんだぞ?」
「そうー?身長が伸びればいいって言うくせに」
「ははは。171センチある。ごく普通だ。1センチ伸びたな」
「佐久弥と並ぶと低いんだよーー。あんなに高かったんだね」
佐久弥との身長差を感じていなかった。憧れのミュージシャンだから、話している間、100%現実感がなかったのが本音だ。今は向き合っているから分かることが増えた。早瀬と同じ身長の持ち主だ。
「蔵之介が大男だ。並ぶと低く見える」
「夏樹も背が伸びたんだよ。野菜メインの食事がいいね!」
「ははは。魚を食べなさい。圭一さんも子供時代は魚メインだったそうだぞ。……水仙が咲いているぞ。華やかだ」
「ふむふむ。大人だね。72候によるとね。”きんせんか”とは、春に咲くキク科でなく、水仙のことだって」
「ああ。綺麗に咲いている。見ごろだね」
「……ふむふむ。毒草なんだってー」
「ニラと間違えるケースがあるそうだ。気をつけようね」
向こうからタクシーが入って来た。その後ろから送迎車も来ているから、2人同時に出発できるだろう。こんなささやかなことが楽しい。そんな俺を見た早瀬が頬にキスをしてきた。
するとその時だ。フロントガラス越しに、長谷部さんが手を振ってきた。今のを見られただろうから恥ずかしい。俺は早瀬にブルーキックをおみまいしたが、あっさりと避けられてしまい、きいいいっと、朝一発目の声をあげた。気合い十分だ。さっさと車に乗り込んだ。
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