少女人魚ブリュンヒルデよ、海上で平和の歌をうたえ 

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少女人魚ブリュンヒルデよ、海上で平和の歌をうたえ 

 その日の夜は、これから生命が活発にはばたきだす予感を感じさせる初夏だというのに、いやに月が()えていて肌寒かったと、ジークフリート・アドルフはあれから2年経った今でもあざやかに思い出すことができる。  2年前、彼は25歳だった。若くもなく、老いてもいない透明で平行な年齢。  窓から差す月あかりが、船の中の灯りよりもぼんやりと真白く、粉雪のようなかすかなきらめきが、夜色に染められた船内を照らしている。  鈍い赤と橙が入り混じったひかりをもたらしていた船灯を消してしまっても、首から下げたペンダントの中にある、ちいさな写真の中の少女が見えるのではないかと思うほどであった。  くすんだ古いペンダントは、円の中央にアイスバーグの薔薇の紋章が彫られている。紋章のすきまに、焦げた銅のさびが、かすかについている。紺色の地に、草花を(かたど)った金の刺繍のほどこされた軍服の中に隠されたそれを首から出し、手のひらに乗せると親指でぱちりと弾いて中を開く。  金色のまつげに(ふち)どられた、夜のとばりが完全に訪れる前の、空のように澄んだ青の(ひとみ)で、写真を見つめる。  写真の中の少女は、月光に照らし出され、少し()せた色でうつしだされている。  少女が座っているのは、普通の椅子ではなく、車椅子の背もたれであった。ワインレッドのベルベッドが使用された、やわらかそうな背もたれに、少女はしっかりと腰掛け、かすかに寂しそうな表情で微笑み、こちらを優しく見守っている。  歳は15歳。ウェーブがかった、白い光沢をすじに保つ長い金髪を、しずく型のちいさなルビーのピアスをつけた、ふくらみを持つ両の白いみみたぶの下で、たわみを持ったふたつのみつあみにしている。たらりと淡いふくらみを持つ胸の上に垂らしたそれは、凪いだ夜の海色のワンピースの上で、月のまばゆい黄色い道のようにしっとりと輝いていた。髪と同じ金の長いまつげに(ふち)どられた、大きなアーモンド型のサファイア色の瞳が、わずかに寂しさをはらんだ湖のような微笑みをたたえている。  うつされていた写真の色はモノクロであったが、少女の色彩をよく覚えているジークフリートは、あいらしいその姿を、瞳を(すが)めて護るように見つめていた。 「まーたリリューシュカの写真見てんのかよ。司令官殿」  背後に衝撃がしたと思ったときには、肩に腕を回されて、手の中のペンダントを奪われていた。  先ほど写真の少女・リリューシュカに愛情のこもったまなざしを送っていた男と同一人物とは思えないほどつめたい瞳で、横に立つ男を睨む。アイスブルーの冴えたひかりが滲むように。 「返せ」  ごつごつとした岩のような手から引っぺがすようにペンダントを引き取る。流星のような金の糸が、彼らの手の間に流れる。  隣の男は、さらに不機嫌さを増した視線を送る。 「へいへい。あんたは本当に妹至上主義なんだからよ。リリューシュカが嫁に行ったらどうするつもりだ」  アルべリヒ・ベルツ。  ジークフリートと同じ25歳。  赤茶色の髪に、そばかすの浮いた小麦色の顔をしている。鼻はまるく、一見童顔を思わせるが、目つきが悪いので、万人受けのしない雰囲気を漂わせていた。 「俺の家族について、貴様にとやかく言われる筋合いはない」 「ちぇっ」  ジークフリートはふたたび親指を弾いて、ペンダントをぱちりと閉じると、うすい白の手袋越しにアルべリヒの手脂を拭い取るように、親指の腹ですっと撫でた。そして、すばやく鎖骨の下に戻した。  まるであいらしい少女の写真の入ったペンダントなどしていないかの如く、冷静で精悍(せいかん)な軍人の顔に、薄氷を貼るように戻していた。 「……まあ戦いも一応終わって目途(めど)がついたし、あんたのいとしい妹と再会できる日も、もうそんなには遠くねえよな」  ジークフリートは黙った。  彼らは、ぺデルガンツというヨーロッパの小国の海軍に属している。  ジークフリートは、艦隊(かんたい)「キール号」の司令官。アルべリヒはその下につく一等兵だ。  隣国、アーガナイトとの海での攻防戦になんとか勝利し、生き残った海軍兵を引き連れ、キール号からこの民間の船に乗り換えさせ、ヨーロッパを流れるライン川を渡り、母国への帰路についていた。  夜色に染まった水面は、月のひかりで(さざなみ)がきらきらとひかっている。てのひらで、はらりとこまやかな星の花弁を散らしたように。  本来ならば上官であるジークフリートに対し、部下であるアルべリヒが軽口を叩くことは許されないのだが、彼らは同い年で、共にペデルガンツの中の田舎村・ルーピウスの出身である幼馴染であった。オリーブの小さな丘が、海に面して集まったような、太陽の穏やかさを持つ故郷。白い黄色のひかりが、粒となって、まだらに空気の中を漂っていた。  ただ、決して仲が良かった訳ではなく、腐れ縁と言える。  軍に入隊してから軍人としての才能を開花させたジークフリートは、アルべリヒを置いていくように出世してしまい、その若さでは異例の、「司令官」の地位を手にしてしまった。  そんな幼馴染に対し、心の底で嫉妬の感情を抱いていることを、アルべリヒは隠そうともせず、時折ふたりきりになると、嫌味をあらわにする。  鼻筋が通り、うなじを刈り上げ、ブロンドの長い前髪をオールバックにし、切れ長の瞳で整った顔立ちのジークフリートに対し、アルべリヒはそばかすの浮いた童顔で、鼻も丸く、垂れ目で、癖の強い茶髪に悩んでおり、そういった見た目の点でもジークフリートのことが気に入らない。  妙齢で小物を発揮するアルべリヒに対し、ジークフリートは気にも留めないし、どうでもいいとさえ思っているが、この世で一番大切に思っている体の弱い妹のリリューシュカのことを引き合いに出されると、反応してしまう。  アルべリヒのせいで母国で自分を待つリリューシュカへ想いを()せるひとりの時間を奪われてしまったと、不機嫌になった。  わずかに昂った気持ちを沈めるため、つめたく穏やかな海の潮風で頬を冷やそうと、甲板へ向かう。  すると何故かアルべリヒも後をついてくる。  ジークフリートは真横に並び、こちらを見上げてくる彼を無視して、すたすたと歩く。  ふたつの軍靴が縦に並ぶ。  背の高い男が、ふたり並び、言葉もなく足音を響かせて廊下を歩いていくのを、モップを持った清掃員は、不思議そうに見ていた。  甲板に出ると、かすかに船内で感じていた潮の香りが一気に増した。前髪がゆるりと湿ったのを感じたので、ジークフリートは細く長い指の先で、つまんで確かめる。 (このライン川は、北海と繋がっているので、海の香りがするのだ)  3度まばたきをし、外の風のつめたさに肌を慣らさせると、ゆっくり縁へと歩み出し、より川に近付いていく。  波が船を打つ音。静かなさざなみの白くまだらな輝き。曇った月あかり。果ての無い黒い川。  海とは違うが、広大なこの川は、海と変わらないように見える。海は、自分達の戦場だ。人の命を殺め、また殺められる戦地。海は人の血をさらい、白い飛沫(しぶき)を上げ、沈黙しながら飲み込んでいく。  だが、ジークフリートは、そんな狂った面を持つ海のことを、心から愛していた。  ルーピウスにいた少年の頃のことである。羊や牛の世話を一日中した後に、タオルで汗を拭いながら、浜辺にひとり降り立つのが好きだった。  金色のさざなみを起こし、赤い夕陽を飲み込んで、自らも赤く染まる海を眺めていた。  本当は漁師になりたいと思っていた。  だが、身体能力の高さを見込まれ、より収入の高い海軍兵になったのは、父母を病で亡くし、たったひとりの家族となった、生まれつき足の不自由な妹のリリューシュカを、ずっと守っていく為であった。  海軍なんて危ないところに行かないでほしい。ずっと自分の(そば)にいてほしいと、車椅子に座ったまま、自分の腰に泣きながら抱き着く、やわらかくちいさな妹の背中を抱きしめ返しながら、これも運命のひとつであり、自分の人生なのだ、とどこか諦観(ていかん)を持ち、またいつの間にか、海に想いを()せていた。  海に呼ばれ、海で死ぬことが、自分の運命(さだめ)なのかもしれない。  自分が死んでも、妹には多額の保険金が行く。それでもういいと思った。  だが戦場で死を予期させるようなピンチに陥ると、脳裏にはリリューシュカの泣き顔が浮かび、迫る敵を、すばやく銃で撃ち殺していた。熱く渦巻く生命の強い本能に、この身を任せるままに。  自分は生きなければならない。生きて妹の元へ帰らねばならない。  先の戦いで焼け付くように願っていた想いが、ようやく叶うのだ。 (本当に帰れるのだな……)  夢にまで見たことは、叶わないと思っていたが、本当に現実になるということの実感が(いま)だなかった。  一度故郷へ戻っても、ふたたび戦いが始まれば、いずれ戦地へ(おもむ)くことにはなるのは当然だが、それでも、いとしい妹のやわらかなブロンドを、骨がわずかに浮いているちいさな体を、この手で抱きしめられる日が、この川をずっと泳いでいけば違えようもなく訪れる。 (リリューシュカ……。待っていろ)  胸に手を当て、まぶたを閉じる。厚い軍服越しに、中に仕舞ったペンダントを親指で撫でた。  きっと、家に帰ればリリューシュカは、編み物をしていた手元から顔を上げ、嬉しそうな笑顔で、車椅子ごと自分に近付き、戦争の訓練で硬くひきしまった腰を、やわらかに抱きしめてくれるだろう。自分は暖炉の灯りに、淡い白金の光沢を打つ彼女の髪を優しく撫でているだろう。そしてその後に、彼女が作ってくれた、夕日色に染まったトマトスープをふたりで飲んで、はりつめていたこの身をあたため、旅の思い出を語っているだろう。  妹の高い笑い声が、潮騒(しおさい)と共に、耳にやさしく触れて聞こえるようだった。 「アドルフ司令官、知ってます? ローレライ伝説のこと」  故郷に想いを馳せていたジークフリートの想像を打ち破るように、アルべリヒの鼻につくだみ声が、潮風に乗って響いた。  舌打ちをするように目を開け、隣に立つアルべリヒを睨む。  アルべリヒがにやつきながら、ジークフリートに話しかけていた。そのうすく開いたくちもとは、前歯が一本欠けている。 「……聞いたことはある。信じてはいないがな」  溜息をつくように言葉を返す。 「怖くないですか? ちょうどその伝説と(ゆかり)のあるライン川まで来てしまいましたし……。ライン川のローレライ岩って言やあ、この川で一番狭いところにあることもあって、かつては航行中の多くの船が事故を起こしたって話じゃないですか。ハインリヒハイネの(うた)にもあったでしょ? 何がそうさせるのか、わからないがって……」 「何を言わせたい。貴様、本当に人魚など信じているのか……その歳で。ライン川下りは、ドイツの観光として有名ではないか。変なことは考えず楽しめ」  人魚などという絵本の挿絵でしか幼い頃に見たことが無い想像上の生き物のことなど、ジークフリートは興味も無かった。  確かにライン川のローレライ伝説は有名ではあったが、そんなことで自分を怖がらせようとしているこの男の幼さが逆に可愛らしく思えてきてしまい、ジークフリートは右拳を握ると、口の下に当て、()え切れず、(のど)を鳴らすように笑った。 「くくっ……」 「な、なに笑ってやがんですか」  この割れない氷のような(おもて)を持つ美青年が、笑うことなどめったにない。  彼を少し怖がらせて動揺させてやろうと目論んでいたアルべリヒは、逆にこちらが笑われてしまったことに動揺していた。  ジークフリートはひとしきり静かに笑いを(こぼ)すと、アルべリヒの背を励ますように、てのひらでばん、と強く叩いた。しかし、この男は並の人よりも腕力が高いことに、自身で気づいておらず、アルベリヒの背に、ぱきっとした痛みが走る。  思わず背を()()らせ、瞠目(どうもく)し、歯を食いしばる。 「いってえ!」 「……すまない。強く叩きすぎたか」 「……べ、別にいいっすよ。俺も軍人なんで。こんくらい()でもねえや」  それにしては痛そうにしている。アルべリヒは痺れたような表情で、背を撫でながら体勢を(ととの)えると、打って変わって余裕の笑みを作り、ジークフリートを見た。不揃(ふぞろ)いな前歯がくちびるの間から覗く。 「へへ、でもそんなに人を惑わすほどきれいな歌声だってんなら、聴いてみたいもんですね」 「ライン川を通行する船に歌いかけるうつくしい人魚たちか……」  ジークフリートの脳裏に、目にもあざやかな色とりどりの鱗に灯した人魚たちの絵が浮かんだが、すぐに現実に思考を戻した。  彼に空想癖はない。 「彼女たちの歌声を聴いた者は、その美声に聞き惚れて、船の舵を取る手が、凍ったように止まってしまうという……」  考え深けに前方を見つめると、いつの間にか周囲の風景が広い川から徐々に狭まり、灰色の岩肌に囲まれていた。 「噂をすりゃあ、もうローレライ岩だ」  アルべリヒは楽し気にきょろきょろと辺りを見回す。  天を突くような、ごつごつとしていつつも、なめらかそうにも見える高い岩肌。  水面にも、孤島のようにぽつぽつと大小の岩が突き出ている。どれもましろく、月光の影響だろうか、わずかに青のきらめきがある。  その天然の白を目にしたとき、自然に対する畏怖のようなものを感じた。  ジークフリートは、自分が不覚にも少し動揺していることに気づき、驚いた。 (ふっ、まさかな……)  くだらない御伽噺(おとぎばなし)など誰が信じるというのだ。ましてやこの俺が? (家に帰ったらリリューシュカへの話のネタにでもして喜ばせてやろう。ローレライの人魚なんて、少女がよろこびそうな題材ではないか)  月光色に染まったまるいまぶたを閉じ、皮肉な笑みを浮かべ、甲板から船内へ引き返そうした時であった。    ルー レイ リア レイ メイ ネイ    かーんと鐘が、耳朶(じだ)を打つように、高く低く歌声が響いた。今まで聞いたことのないほど、玲瓏(れいろう)で、あまい声。透き通っていて、清廉潔白(せいれんけっぱく)でありながら、色香をふくみ、惑わすような――。 「これは……」  喉の奥から枯れた声を出す。気付けば足元がふらつき、倒れそうになっていた。縁に手をかけ、腹にぐっと力を込め、体制を整える。 (なんだ……!? この歌声は……?)  全身の毛穴から冷や汗が噴き出していた。  ジークフリートは歌声を聴きながら、自分の体の衝動に覚えがあることに気付く。  これは――。  女を抱いた後に起こる、気怠(けだる)さと似ている――。 「人魚だ!! 人魚の歌だ!!!」  アルべリヒの割れるような叫び声で、はっと我に返った。 (人魚……!?)  先ほど耳半分で聞き流していたアルべリヒの声が脳裏に甦る。 (人魚が……、歌っている……)  ゆっくりと瞳だけを動かし、先ほど無人であった水面の岩を見やる。  そこにはいつの間にか、赤毛や黒髪、亜麻色のウェーブを打つ長髪を背に垂らし、乳房を露わにした裸の上半身、魚の尾を持つ下半身――人魚たちが座っていた。  鱗が月の光にさらりとなめられて、オパールのように色彩豊かに(きら)めいている。そのくちもとは艶やかな笑みを刻んでいた。 「人魚……!!」  幻想が現実となった。  船内にいた船員たちも、人魚の歌声に気づいたのか、ぞろぞろと甲板に躍り出てくる。  しかし、船員たち一人ひとりの表情を見たジークフリートは、彼らがただ人魚の歌に驚いて現れたのではないと悟った。  こめかみを汗が流れる。潮を帯びて、ひやりとして冷たい汗が。 (全員、恍惚(こうこつ)とした表情(かお)をしている……)   船員たちは全員が男である。  彼らは海軍兵として厳しい訓練を受け、先の戦で激しい銃撃戦と肉弾戦を切り抜けてきた、たくましい戦士たちだ。  その彼らの眉間(みけん)はほぐれ、くちもとは(よだれ)が垂れそうなほどだらけて、笑みを浮かべている。  歯を食いしばりながら、岩の上の人魚に目を向ける。  先ほどよりも人魚の数が増え、全員が楽し気に口を開けて歌をうたっている。  歌声は高く、低く、ビブラートをはらみながら、ぽつぽつと輪郭をともなわず、浮かんでは儚く消える砂糖玉の木霊(こだま)のように響き渡る。  再び船員たちに目を向ける。  船員たちは、(ほう)けた表情(かお)で、手を前方へ伸ばしながら、手すりへ一歩一歩近寄っていった。 (まさか……)  ジークフリートが、これから起きるであろうことを予測し、手すりから重い体を離し、船員たちの方へ走り出した。  しかし時すでに遅く、先頭を歩いていた船員が、手すりから身を乗り出すと、そのまま頭から海へ落ちてゆく――。  大きな水音と共に、白い飛沫(しぶき)が上がる。  ああ、と口を開け、手すりから身を乗り出し、船員が落ちた個所を見たジークフリートは大きく目を見開いた。  落ちた船員の男は、恍惚とした笑顔を浮かべたまま、片足を人魚に抱き着かれ、一瞬にして暗い水底(みなそこ)へと引きずられていった。  言葉が出ない。  船員の男が消えていった水面には、こぽこぽと小さな気泡が浮かんでいたが、やがて凪になる。  後にはただ黒い水が残るばかりである。  ジークフリートは、思いきり手すりを殴った。 「……ちくしょうっ!!」  腹に溜まった息をすべて吐き出し、素早く踵を返すと、残った船員たちも手すりから身を乗り出そうとしている。  駆け出し、前に立ち、両手を広げ、全員を抱き抱えるように止めようと試みる。  人魚の歌声に負けじと、口から大きく息を吸い込むと、腹に空気を溜め、喉が切れる極限まで出すかの如き大声を上げた。 「全員、耳を塞げ!!!」  喉が切れて血を出したのではないかと疑われるほどの怒声である。  船員たちと同様に、(ほう)けた表情をしていたアルべリヒは、弾けたシャボン玉のように、はっと目を覚ますと、自分の顔を両手で交互に打ち、耳を(ふさ)いだ。  船員たちも、ジークフリートの指令に気づいた者はことごとく目を覚まし、耳を塞いでゆく。  しかし、ジークフリートの両手から逃れた者、甲板の後ろの手すりにいた船員は、次々と笑顔で青黒い海に飛び込み、人魚と共に水底へと沈んでゆこうとする。  人魚たちは歌い続ける。高く、低く、玲瓏に、艶やかに。  ルーレイ リア レイ メイ ネイ  ルーレイ リア レイ メイ ネイ    耳から頬、唇、首、肩、胸、腹、脚と、体の感覚が徐々にあまく痺れ、薄らいでゆく。 (このままではまずい……!)  目の端で、人魚のひとりが空へ手をひらりと仰ぐのが見えた。ゆびさきを広げ、そっと舞い降りる何かを受け止めるかのように。  雲の切れ目から割れた卵から薄透明の白身がゆったりと落ちてくるような陽光(ひかり)が差し、人魚たちの肌の輪郭を、白く輝かせる。  切なく(すが)める人魚のひとみは、薄明りに照らされた宝石のように(きら)めいていた。  その姿はまるで、神々しいシスターが、教会で神に祈りを捧げているように見えた。  その刹那、時が止まったようにジークフリートは見惚れていた。  人殺しの妖怪とは思えないほどに、ひどくうつくしかった。  その人魚たちの下に、水面から顔を出しているひとりの少女がいることに気づいた。 (少女……?)  白くやわらかな肩を水面から出し、月の暈のようにぼんやりと淡くひかる波打つブロンドの長髪をゆらゆらと漂わせて、不思議そうにあたりをきょろきょろと見回している。  水面から、水色と桃色にきらめく鱗をまとった、ピンクサファイア色の尾だけを出していた。  人魚だった。  ジークフリートの方角、正面を向いたその少女人魚の顔を見た時、今の状況がすべて吹き飛ぶほどに驚いた。 「リリューシュカ……!?」  他の人魚よりもひと回りちいさな体をした、そのあいらしい少女人魚は、故郷の最愛の妹・リリューシュカそっくりの顔をしていたのだった。   「だめだ……もうこいつら殺すしかねえ。おい! お前ら! 銃を構えろ!  殺せ! 人魚共を殺せ!!」  アルべリヒは両手で耳を塞いだまま、閉じたまぶたを勢いよく開いた。赤髪と呼応するような、エメラルドの(ひとみ)が宵闇に一度、冴えてひかる。彼の焦りが声に(にじ)む。興奮と恐怖で、瞳孔が少し開き、白い(まなこ)に、細い枝のような赤が血走る。  ジークフリートは、意識をアルべリヒの方へ向ける。はっと開いた瞳孔は、海に夕日がさっと走って照り映えるような金色に輝いている。恐怖が彼の生命力を倍増しにしている。 「待て!  アルべリヒ!!」  船員たちはアルべリヒの怒声に肩を叩かれたように反応すると、よろめきながら軍服から銃を取り出した。船員たちの取り出した銃が、月光で青白いひかりを黒い身の上に走らせる。  ジークフリートはこれから何が起きるのかを予期し、瞠目すると無理やり重い体を動かして、船員たちの方へ腕を伸ばした。 「やめろ貴様ら! まだ――」  制止の声が、大量の銃声と重なり、かき消える。  白い火花を吹き、次々と引き金を引かれ、銃弾が発射されてゆく。  人魚のなめらかな額や胸、首に玉が当たり、次々と血を吹き出しながら黒い海面へと落ち、白い飛沫(しぶき)に、彼女たちの血が混じって赤く染まった。  飛沫が落ち着くと、夜の闇の海だというのに、絵具を水瓶の中に落としたかのように、徐々に赤黒く染まっていくのが分かった。  目を見開き、軍帽を深くかぶるとジークフリートの表情は見えなくなった。  前歯でくちびるを噛み、船員たちから一線を引くようにうつむき、顔を逸らす。  軍帽の下で苦悩を浮かべている彼と対象に、アルべリヒは両こぶしを握りしめる。体が小刻みに震えている。そのふるえは、先ほどの恐怖によるものではなく、甘美な興奮であった。 「やったぜ……! 俺の指示でローレライ伝説に打ち勝ってやったぜ!」  震え声で喜びの雄たけびを上げると、気分が一度に沸騰(ふっとう)する。  今まで人より(すぐ)れたところもなく、軍人としてもジークフリートに負け続けだった人生であったが、自分の指令で初めて海軍兵が動き、敵を殲滅(せんめつ)させることに成功した。そのよろこびが電流のように全身を駆け巡っていく。夜の潮風で冷やされていたはずの体が、熱く火照(ほて)っていった。  船員たちは人魚を撃ち殺したことに、はあはあと肩で息をして茫然(ぼうぜん)としているだけであった。だが両手を(かか)げて、腹から(しぼ)るような声で雄たけびを上げ続けるアルべリヒに感染するように次々とこぶしを天へ掲げ、野太い勝利のよろこびの声を上げていった。  人魚の死体が魚のように浮き上がり、背や腹を見せていたが、誰もその様子に気付かなかった。いや、興味もなかった。  自分たちが軍人としての力を使い、得体の知れない化け物を倒したという快感に酔いしれていた。  その中でジークフリート唯一人(ただひとり)が、心に浮かび上がってくる(むな)しさで、立ち尽くしていた。  星は、黒い画用紙に白い砂を散らしたように天にひかりを宿し、月光は、煌煌(こうこう)と船の上の彼らと、海に浮かぶ人魚の腹を、平等に照らし続けている。  船内の食堂はセピア色のあかりが(とも)り、茶色くうす汚れた壁を、さらにノスタルジックに照らしている。  食堂内ではお互いの戦いを船員同士が肩を抱き合い、叩き合いながら笑顔でたたえあっていた。  皆、酒で赤く頬を染め、歯を見せながら大声でげらげらと笑っている。  丸太を縦に割ったような木製の長机の上には、裂けめから肉汁のこぼれる、ぷりっとした薄紅色の大きなソーセージや、濃厚なタルタルソースが乗せられたふかしたジャガイモやニンジンなど、簡単な料理ではあるが、荒くれものの男たちの好物が置かれ、さらに勝利のよろこびを上げ増ししている。  アルべリヒは祝いに特別に出された茶色のガラス瓶に入れられたドイツビールを片手に持ち、酔いで頬と鼻の頭を赤く染め、恍惚(こうこつ)とした表情(かお)をしていた。  彼の隣に立っている船員の男と肩を組み、つばが飛ぶほどに声を荒げている。  もう片方の手に持った、泡の(あふ)れる陶製のジョッキを高く(かか)げ、満面の笑みを浮かべる。 「Sieg heil(勝利万歳)!」  よろこびの大声と共に(かか)げられたジョッキが揺れ、泡が少しこぼれた。  彼はまさにこの世の春といった気分を味わっていた。  食堂で、ジークフリート以外のほぼ全船員が集合し、勝利の余韻を美味な料理と共に味わっているというのに、当のジークフリートは、一人孤独に甲板に残り、縁に背をもたせ、片足を立てて座っていた。彼の少し尖った膝頭に、月の鈍いひかりが、冴えてなめるようにあたっている。  軍帽を頭から外し、片手に持った彼は、流れてくる潮風に身を任せていた。  潮風は、くちびるに触れると塩辛さをはらんでいるというのに、故郷でときおり吹いていたそよ風のように、やさしく頬を撫でる。  (あお)()(すが)め、ただじっと海面を見つめる。エメラルドをより深く闇に染めたようなその色は、彼の瞳の色と呼応し、溶けてゆく。  ジークフリートの金のまつげが少し揺れ、月光色にきらりとひかる。 「人魚は皆、死んでしまったのか……」  海面にうつ伏せや仰向けになって、先ほど自分の仲間に撃ち殺された人魚たちの死体が浮き上がっている。  元々白かった体は、よりしろく月光に照らし出され、肌の輪郭が海の波に時折飲まれ、また浮き上がる。  金色の眉をしかめ、視線を海面から岩に移すと、岩の上にも人魚の死体が数体、やわらかくくずおれたブルーチーズのように、倒れている。  うつ伏せになり、だらんとのびた白い腕と、長いみどりの髪を岩にたらし、岩肌を血に染めている人魚。  仰向けになり、白い乳房を天にあらわに向け、腹や首に銃弾の跡を残し、血を流している人魚。  人魚のくちはぽかんと開き、(よだれ)のように血を流している。そして長い金色の睫毛に覆われた瞳は瞳孔を開き、虚ろに夜の闇を見つめている。  その瞳は切なくもエメラルドのように碧く輝き、悲しいほどのうつくしさを放っている。  甲板の縁に視点を戻す前に、手前の海面に仰向けになって浮いている人魚の姿が目にうつる。  白い乳房と顔を水面に出し、冷たい両腕は腹の上で祈るように組み合わされている。淡い桃色であったであろう乳首とくちびるは、紫に染まっていた。  翡翠色の長い髪は、風で揺れる海の動きに合わせて揺蕩っており、うすく開いた藍色のひとみは、天の夜空をさえざえと映している。  まるで一幅(いっぷく)の絵画のようだ。そう、ジョン・エヴァレット・ミレーのオフィーリアような。 (いや、オフィーリアというよりも、この様は、ポール・ドラローシュの「殉教した娘」の方が合っているか)  マニアほどではないが、ときおり気が向いた時にだけ、美術館に足を運び、絵画鑑賞することが趣味の一つであった。  ポール・ドラローシュの「殉教した娘」とは、デヴェレ河に投げ込まれ、殉教したという無名の聖女を描いた絵画のことである。  絵画の上半分は漆黒のくらやみで覆われており、ぼやけた視界をこらすと、船や岩が描かれていることがわかる。その下半分には白を基調としたブロンドの聖女が上半分とは対照的に照り輝いて描かれている。  黒い水面の中で、彼女の周囲だけが青く透きとおっており、両手は豊かな胸の下でゆるやかに交差され、縄が巻かれている。  眠るように死んでいる彼女の頭上には、細い線で光輪が描かれており、頬やまぶた、額を白く照らしだしている。暗闇の中、聖女を光輪で照らすことで、物語性ではなく彼女の清廉(せいれん)な殉教性にのみ焦点を当てているとされていた。  あまりにもうつくしい人魚たちの死体を目にして、忘却していた絵画の事を思い出してしまう皮肉に、一瞬酷薄(こくはく)な笑みを浮かべる。そして、潮が訪れるように、静かに空虚が押し寄せてくるのだった。  眉間に皺を寄せ、かたく目を閉じると、人魚たちから視線を逸らすようにうつむいた。  人魚といえば、真っ先に思い起こされるのはジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの「人魚」の絵画であった。  ウォーターハウスとは英国の画家で、神話を題材にした絵画を多く残した人物であり、ジークフリートが一番好きな画家であった。1871年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学し、1874年、「眠りと異母兄弟の死」を夏の展覧会で発表。この作品が好評を博し、以後1916年までほぼ毎年定例の展覧会に出品していた。女性を単独で描いた絵が多いが、1880年代からはそれと同様に、複数の人物が登場する複雑な構図の作品をロンドンのロイヤル・アカデミーとニュー・ギャラリーの双方で発表していた。 「人魚」はロイヤル・アカデミーの会員に選ばれた後に発表された作品である。アルフレッド・テニスンの詩「人魚」に着想を得た可能性があるとされている。  ウォーターハウスは代表作「シャロットの女」をはじめとして、テニスンの詩を基にした作品を複数描いている。  この絵の人魚は、周りに船がないことから、セイレーンとしてではなく、うつくしく、また孤独な存在として描かれている。雰囲気は穏やかで、物悲しさも感じられる。  人気のない入江に独り座り、夢見心地で暗色の赤髪をとかしている。口はわずかに開き、歌をくちずさんでいるようだと感じたことがあった。人魚の前には、真珠のネックレスが載った貝の器が置かれている。真珠は、海で命を落とした船乗りの涙でできているとも言われている。誰かが、そんなことをどこかへ書いていた。  展覧会でこの絵を目にした時は、あまりのうつくしさに、(ひとみ)に涙の膜が張ったことを覚えている。だが、それは現実で決して相まみえないであろう世界が、絵画によって海の潮の匂いやなめらかな白い肌、ブルーグレイに艶めく鱗、黄みがかった光沢を放つ赤く長い髪を持った幻想の女が目の前に表されたことによる感動であった。心のどこか奥底にひそめられた童心に、真水を落とされたのだ。  まさか己が現実で人魚と出会い、被害に遭い、生身の血を持った彼女たちを殺すとは予想もしていなかった。 (俺は司令官として、船員の命を守ることが役目だった。あの時アルべリヒではなく俺が人魚を撃ち殺せと命ずるべきだった……。だが俺はためらった。何故ためらったか、それは撃ち殺すことに躊躇したからだ……。俺は弱い。俺は……この先司令官で居続けるべき人間ではない。辞職するべきだ……)  呻くような苦悩の闇が、体を纏う(とばり)となって重く覆う。  うなじを片手で抑えると、刈り上げたブロンドが、月光に照らされ、淡く揺らめいた。  ジークフリートの脳裏には、成人の女の姿をした人魚だけではなく、その中にいた少女の姿をした、先ほどの小柄な人魚の姿が焼き付いていた。海から生まれでたばかりの、あまやかな真珠色の肌をした。  彼が人魚を殺すことを躊躇した最大の理由に、彼女の存在があったことに彼は気づいていた。  妹・リリューシュカにそっくりな、あいらしい波打つブロンドの少女人魚。  胸はウェーブがかった髪に隠されていたが、他の人魚と違い、谷間に見えた成長途中の淡いふくらみが、彼女の幼さを象徴していた。 (あの人魚の少女も、先の銃撃の犠牲になったのであろうか……)  頭に映像として焼き付いて離れない、少女人魚の姿を(ぼう)と思い浮かべながら、ゆっくりと立ち上がり、甲板の際まで歩いていく。  こつこつと鳴る軍靴を止め、縁に手を突き海を見下ろすと、ある一点に目を奪われ、瞠目した。  闇にまなこを慣らさなければ気付かないほどの場所にある岩の上に、その少女人魚がうつ伏せになって横たわっていた。  背は長いブロンドに覆われ見えなくなっているが、むき出しになった肩から血を流しているのがわかる。  やわらかそうな頬を岩につけるようにして横を向いており、こちらから見えるその顔は青白く、瞳を閉じて死人のように見えるが、海軍一視力の良いジークフリートは、彼女の金の睫毛が小刻みに震えているのを見逃さなかった。  思考を捨て、本能の赴くままに上着を脱ぎ棄てる。  甲板の縁に捨て置かれた太い命綱を腰に結ぶと、縁にその長い片足をかけ、黒い水へ、頭から泳ぎの体制で飛び込んだ。  泳ぐことには慣れている。海で戦う男である彼らは、先ほど人魚に誘われ、飲まれていった船員と違い、不意打ちさえなければ泳ぎは呼吸をするように体に身についているものであった。  両手を交互に回し、少女人魚のいる岩へ辿り着くと、岩のでっぱりを利用し、己の半身を上げる。濡れて筋肉をまとった、(たくま)しい体の線が浮き彫りになり、月光で白いシャツから透けて見えてしまう。一見細く見えるジークフリートも、軍人の男であることがわかる肉体であった。  岩の上の少女人魚をやさしく抱き上げ、腕に抱えると、彼女の呼吸を確認するように、その愛らしい顔に自分の顔を近づけた。  鼻と紫色に変化したくちびるはちいさいが、閉じられた瞳は大きく、睫毛も長い。今は青白い顔をしているが、先ほど一瞬見た彼女の頬とくちびるは、桜色であった。  少女の顔が遠くで見た時よりも、驚くほど妹のリリューシュカに似ていることに息を飲む。  ジークフリートの熱い息が鼻先に触れるのを感じたのか、少女人魚はふっと息をこぼし、眉をかすかに寄せた。 「生きている……」  揺れる瞳で、少女人魚の顔を見つめた。何故か、らしくもなく泣きそうになった。  月光は海面に黄色の道を作り、ゆったりと白い波紋を作って泳ぐふたりこの世の命の、船への帰路を照らしていた。  船内の食堂は、先ほどの陽気な雰囲気が終焉を迎えていた。  倉庫にあったヴァイオリンやチェロ、トロンボーンやトランペット等、各々の得意楽器で演奏会まで開かれていたというのに、今ではひとり、またひとり、と疲労から自室へ戻り、人がまばらになっている。  その中でまだ残っている者は、どのような男たちかというと、壁にもたれて酔いつぶれ、ごにょごにょと意味不明な言葉を発し、微笑みながら寝ている者や、未だ狂ったように瓶のまま酒をごくごくと(あお)り続ける酒豪ばかりである。  その中に、この戦いの指揮者・アルべリヒもいた。  彼は酒の瓶を持ったまま笑顔で意味深なことを周囲に向かって口走ると、ふらふらと後ずさりし、扉の近くの壁に背をぶつけた。そのままつーっとしゃがみこむと「ひくっ」としゃっくりをする。  すでに顔は真っ赤で、にやけた口からは酒臭い涎を垂らしている。  アルべリヒが手にしていた酒瓶を高く掲げ、床に置いた瞬間、隣の扉が開いた。  茫としたまなざしで視線を上に向ける。  入ってきたのはジークフリートであった。  彼は静かに扉を閉めた。軍帽と前髪で隠され、灰色のうすい影で覆われ、表情がよくわからなくなっていた。  アルべリヒは膝に手をついて立ち上がると、満面の笑顔をジークフリートに向けて、急に背筋を伸ばした。足を(そろ)え、片手を額にかざす。 「あ、アドルフ司令官殿。お疲れさまでぇーす」  わざとらしい敬礼を送る。もはやこのタイミングでは嫌味にしかならない。  ジークフリートは敬礼に反応せず、凪いだ(おもて)で、アルべリヒを片手で押しのけた。颯爽とした足取りでなめられた飴色の床を歩き、コツコツと軍靴を鳴らす。そして、テーブルの上に残されていた黒パンをひとつ手に取った。  踵を返し、誰とも目を合わせず扉へ引き返す。ノブに手をかけた時、自分を見続けているアルベリヒに小声で話しかけた。 「絶対にオレの部屋の周りに近づくな」  その低い声音はちいさくも鋭く、司令官の威厳を感じさせ、酔っぱらっていたアルべリヒの背をひやりとしたものが撫でる。  冷たい平手で頬をはられたような衝撃があった。  扉を開け、ジークフリートは振り返らずに出て行く。  手にはひとつの黒パンだけを持って。 「あ? 何だぁ、あのひと……」  唐突に酔いが覚めた顔で、アルべリヒは閉じられた扉を見つめ続けた。  そしてはっとあることに気付いた。  ジークフリートは自室で飯を喰らうタイプの人間ではないことに。  明かりがふたつみっつ灯されただけの仄暗い廊下をひとり進み、自室に戻ったジークフリートは、部屋の重い扉を音を立てないように閉めた。  星空を観察することが好きなジークフリートは、普段、窓のカーテンを夜も開けたままにしている。だが今回は閉め切っている。  理由は窓際に置かれたピスタチオ色のバケツの中にあった。  バケツに視線を移すと、透き通るような金髪がゆるりと波打っている少女の後ろ姿が目に入る。  バケツから上半身を出している体は、人間の少女のものであるが、バケツの中に入っている下半身は、ピンクサファイア色の鱗を輝かせる魚のもの。  長髪が体全体を覆い、彼女の肌色の背を隠していることで、艶のある色気を一瞬感じさせる。  だがカーテンの隙間から外の景色が見えないかとしきりに背伸びしようとしている姿が、あどけなさを残していた。  カーテンの隙間から漏れ出る月光が髪にかかり、返事をするかのごとく、さみどりの光沢を放つ。  (やはり似ている……)  ぼんやりとその横顔を見つめる。  やわらかそうな頬は、先ほど血の気を無くしていたが、今では桜色に戻りつつある。  この少女人魚が徐々に生気を取り戻していく毎に、自分の最愛の妹・リリューシュカに瓜ふたつのおもざしをしていることの皮肉に気付かされていく。  ジークフリートが足を一歩前に進めた。  その濡れた足音で、少女人魚ははっと目を見開き、怯えた顔で後ろを振り返る。  だが、入室してきた人間が誰かを理解すると、胸に手をあて瞳を閉じ、あからさまに安堵したという吐息をこぼす。その様も子供っぽかった。  彼女が胸に手を当てたことで、必然的に視線が胸に行ってしまい、あることに気付いた。 「それ、オレの腹巻……」  小声で少し驚き、彼女の鎖骨の下、淡いふくらみを持った胸元を指さした。  彼女の胸にはジークフリートが眠るときに愛用しているオリーブ色の腹巻が巻かれていた。故郷の羊毛で出来ており、やわらかい。足は不自由だが、手先が器用なリリューシュカが遠く離れる自分の為に手製で編んでくれた腹巻だった。  冷たい海風に日中当たっていても、この腹巻さえあれば、夜は妹の愛情に包まれるように、深い眠りに落ちることが出来た。  ブリュンヒルデは指摘されると、ぱっと両手を広げ、顔を真っ赤にして自分の胸を見下ろす。  そして自分の体を隠すように抱きしめると、恥ずかしそうに瞳を揺らしてジークフリートを見上げた。  こめかみに汗をかいている。 「あ、ごめん! あなたのベッドに置いてあったの勝手に取っちゃった」  ぱちぱちとまばたきを繰り返し、焦りながら顔を赤らめ、腹巻が巻かれている胸を両手で隠す少女人魚が可愛らしく、ジークフリートは優しく瞳を眇めて微笑んだ。顎に手を当てて頷く。 「なるほど……良いアイデアだな」  その顔を、少女人魚はぽかんと口を開けて、茫然と見つめた。自分を拾い助けたこの人間は、常に冷静で口数が少なく、今の今まで恐怖もあったため、ほとんどしゃべったことが無かった。ましてや笑顔を見たのもこれが初めてだった。  悪い人じゃないのかもしれない。少女の胸に、そういった想いが去来した。 「人間たちの間で、人魚の肉は不老不死になるという変な妄想話があるから気を付けろ。絶対に人間に関わってはならない」  マーマン(男の人魚)を珍しがって人間に捕らえられて、地上の生活に体が馴染まず、衰弱して死んでしまった兄がよく口にしていた。兄の遺体が無造作に海に投げ捨てられ、真珠のなみだをぽろぽろ流しながら抱きとめにいったあの夕暮れが、いまだに冷めて思い出される。  うすれていた意識が戻り、先ほど義姉(あね)様人魚たちを撃ち殺していった人間の男の船に乗せられ、部屋に連れ込まれていると理解した時、あまりの恐怖にせっかく取り戻していた気を失ってしまった。  気を失う一瞬前にうっすらと開けた瞳に映った彼の顔は、精悍でうつくしかったが、つめたい氷岩のようで、何を考えているのかわからなかった。  だが目覚めた時には負傷していた肩や腕、頬や頭に清潔な包帯や湿布が貼られ、手当てされていた。  そして彼は忽然(こつぜん)と姿を消していた。 「あたし、ブリュンヒルデ。お兄さんは?」  気付けば無意識にみずから自己紹介をしてしまう。  少女人魚・ブリュンヒルデのくちもとには笑みが浮かび、ジークフリートに対して心を開いていることがわかった。  ブリュンヒルデの笑顔を目にすると、ますますリリューシュカに似ており、ジークフリートも茫然として無意識に彼女の目の前に足を進ませる。 「……オレはジークフリート。なぁ、人魚って黒パン食えるのか?」  軍服の懐に隠した黒パンを片手に持ち、腰を屈めてブリュンヒルデの目の前に差し出した。 「ジークフリート……。『ジーク』……」  彼の名前を鈴の音のような声で反芻し、こくんと頷く。拍子に前髪の(ふさ)が、水底の海藻のように揺れた。  ブリュンヒルデはぱっと花が咲いたような笑顔になると、彼の手から黒パンを両手で受け取った。  ブリュンヒルデはバケツの縁に両腕を重ね、顔を置きすやすやと眠っている。  先ほどジークフリートから与えられた黒パンをぱくぱくとむせそうな勢いで平らげていった。  久々の満腹感からくる眠気に襲われたのか、すべてを食べ終わると、くちびるの端にパン屑をつけたままうとうとと(まぶた)を落としたり開いたりを繰り返し、すっと寝入ってしまった。  ジークフリートはリリューシュカと同じ顔のブリュンヒルデが、決してリリューシュカがしないような食いつき方で黒パンを食べていく必死な顔を見つめ続けていた。幼子のようだった。その光景は、故郷を離れてからしばらく味わうことのなかった温かな多幸感を彼にもたらした。  自分も窓際に背をもたせ、彼女の傍らに座ると瞳を眇めて優しいまなざしで、まるくしろく、愛らしい寝顔を見守る。  血色を取り戻したやわらかい頬に、彼女の閉じた目から涙がひとすじ流れた。  口をうっすらと開けて少し驚くと、頬に触れるか触れないかの微妙な距離で、ひとさし指で涙を拭ってやった。  反動でか、顔をちいさく震えさせる。ブリュンヒルデの髪がひとふさ降りてきてジークフリートの手にかかった。  手をずらすとひとふさの髪は虚空を描き流れる。彼女の頭にその手を置くと、髪を撫でる。呼応するかのようにさみどりの光沢を放ってブロンドは夜の船室に(きら)めく。  ジークフリートは切ない表情になって眉を寄せると、眠っているブリュンヒルデの心に語り掛けるように優しく話しかけた。 「身体が回復すれば船員に気づかれぬように海へ帰してやる。それまで我慢してくれ。必ずお前の仲間の人魚がこの先の海のどこかにいるはずだ。絶対に見つけてやる」  頭からゆっくり手を離し、立ち上がると扉へ向かう。もう食堂の連中も寝静まった頃だろう。  明日の為に、他にもブリュンヒルデが食べられそうなものがないか探しに行くつもりで扉を開けると、はっと目を見開いた。  アルべリヒが目の前に立っていた。  軍服を脱ぎ、私服で飲み会に参加していたは、茶色のサスペンダーに白いシャツといったラフな格好をしていた。身長の低い彼は、腕を組み、ジークフリートを睨み上げている。  服のところどころにビールを飲みこぼして落とした染みが出来ており、足は廊下を叩くようにリズムを刻んでいる。そのリズムには彼の苛つきが感じられた。  不意打ちの動揺を隠し、努めて冷静にジークフリートはアルベリヒに声をかける。 「貴様……、何の用だ」  冷めた目でアルべリヒを見下ろす。  まるでいつも通りのふたりの関係で、そこには異質なものは何もないと感じさせるかのように。 「司令官様よ。何を隠してやがる?」  アルべリヒは薄ら笑いを浮かべて茶化すように声を出した。  声音に一縷(いちる)(あざけ)りが含まれている。 「何のことだ」 「嘘つくんじゃねえ。あんたの部屋から海水と魚臭え匂いがすんだよ!!」  語尾を荒げ、ジークフリートの胸板を強く押した。  咄嗟の行為に護身が出来なくなり、ジークフリートは後ろへよろめく。普段の彼ならばあり得ないことだったが、ブリュンヒルデのことを突かれた動揺で負けてしまう。  ジークフリートがよろめいたことで出来た、脇の隙間を掻い(くぐ)り、アルべリヒは部屋へ躊躇(ちゅうちょ)なく侵入した。  開いた目の端に捉え、瞠目し、怒声を上げる。 「やめろ!!」  ずかずかと窓際のバケツの前まで近づくと、ブリュンヒルデが驚きと恐怖をはらんだ顔で、アルべリヒを見上げている。  眠っていたブリュンヒルデは、ジークフリートとアルべリヒの押し問答の声と音で目が覚めてしまっていた。  アルべリヒはブリュンヒルデを感情の無い瞳でじっと見つめると、ふいに口の端を歪め、邪悪な笑みを浮かべた。  ブロンドの髪が恐怖で小刻みに揺れている。まるで月光に照らされた水面の(さざなみ)のようだ。皮肉にもそんな詩人のような感想を抱いてしまった自分に呆れて笑える。 「よお、フロイライン(お嬢さん)?」  声を掛けられ、はっと体を硬直させたブリュンヒルデに向けて、サスペンダーのポケットに入れていた黒い小銃を素早く取り出し、その顔に向けた。 「やめろアルべリヒ!!」  吠えるようにジークフリートが制止の声を上げる。  しかしその声が聞こえても尚、アルべリヒはブリュンヒルデを暗い眸で睨んだまま、彼女の額に狙いを定め、小銃を突きつける腕を下ろそうとはしなかった。 「へえぇ。そういうことかよ。司令官様よぉ。俺達の仲間が海底でつめたくなってるときに、アンタ、自分の部屋に人魚の生き残りのガキを連れ込んで、乳繰(ちちく)り合ってたって訳だ? 御大層な身分だねえ。こいつら人魚に、俺達の仲間何人殺されたかわかってんのかよ!!」  ブリュンヒルデは瞳を閉じると、両腕を胸の前で交差させ体を折り曲げた。  怯えから、かたかたと震え続け、顔中汗をかいている。  その姿は見えない神に祈りを捧げる敬虔(けいけん)な信者のようであった。 「人魚にも信仰心はあるのか。人間と等しく……」  アルベリヒは、軽く瞠目した。ブリュンヒルデの神聖な姿に動揺しているように見えた。  ジークフリートは怒りに燃える瞳をアルべリヒのうなじに向けると、懐から黒い小銃を取り出し、すっと腕を上げ、彼に向けた。  眼の怒りの炎は一瞬で冷たい氷へと変わる。  その冷徹なまなざしをアルべリヒは本能で感じ、ぎょっとした視線をジークフリートに向けた。  ジークフリートの表情は凪のように静かだった。  ただ固く寄せられた眉の下にある瞳だけが、業火のように燃えている。 「貴様がブリュンヒルデを撃つというのならば、俺が貴様を撃つ」  低音が地を這い、自分の足元を床に縫い付ける。  アルべリヒは狼に狙われた兎のように固まった。  こめかみから流れた汗が顎を伝い落ちる。ふたりとも銃の引き金にかけた指が、汗で濡れている。  この世の音のすべてが停止してしまったかの如く、長い沈黙が続いた。  緊迫の糸を切ったのは、ブリュンヒルデの深く短い呼吸だった。  ――東の空に月が落ち、西の空に太陽が落ちる  私はその空の中心を 金の草原の中で見つめていよう  蒼と赤 夜と暁 氷と炎 大地と海  すべての事象は交わり 愛を奏でるの  この世界が終わるまで――  澄んだ水滴が、ふたりの男の耳朶を打つ。  美雨が心の黒い澱を洗い流すかのような歌声がしずかに、しずかに水量を重ねて、満ちて広がる。  高音と低音の調べを揺蕩う波が、行ったりきたりする。潮が浜辺に訪れ、また引いてゆく。 「これは……」  ジークフリートは瞠目し、小声を震わせた。 「民謡だ……。俺の……俺たちの村の歌だ……。母ちゃん……。父ちゃん……」  アルべリヒの頬を両目から落ちた涙が伝う。銃を構えた腕を下ろすと、膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らして泣き続けた。  ジークフリートも糸が切れたようにふっと元の表情に戻り、小銃を構えた腕を下ろし、茫然とブリュンヒルデを見つめ続けた。  リリューシュカが好きだった歌。暖炉の傍で編み物をしながらよく口ずさんでいた歌。  ブリュンヒルデは祈りを捧げるように、その歌を歌い続けている。彼女のひとみから涙があふれ、頬に流れると、バケツの海水に落ちてゆく。  ブリュンヒルデの体が、淡い灯台の光をまとったかのように見えた。  ジークフリートも、その神々しさに琴線が震え、(まなじり)からひとつ、涙を零した。  一行が辿り着いたのは、故郷の帰路へと繋がる国、クルワズリの白い浜辺である。固い鋼で覆われた船は、朝日を受け、銀色に煌めいている。  穏やかな波を起こしながら、徐々に速度を落とし、重い(いかり)(しず)めると、クルワズリの港に停泊した。  地上へと伸ばされた階段を、船員たちは続々とくだってゆく。  水上での長旅からやっと解放され、馴染んだ地上へ降り立つと、一気に解放感が体を駆け巡っていくのか、腕を高々と上げて伸びをする者や足を延ばしたり縮めたりする者などで港は溢れた。  船員の男のひとりが、(かたわら)にいたもう一人の男と目が合い、話しかける。 「よう、やっとクルワズリへ到着したな」 「ああ、長かった」 「ここからは各々の帰路で故郷へ向かってよいと、アドルフ司令官からのお達しがあったな」 「そうだな……、あぁ、やっと家に帰れるのかぁ。早く我が家で嫁を抱きしめてキスしたい」 「はは、お前は新婚だったからな。今まで家を空けてた分、存分に新妻(にいづま)を抱いてやれ。子供の顔が見られるのも、そう遠くないかもな」  ふざけるような笑いを浮かべながら言う男に、顔を赤くしながらもう一人の男は笑みを返す。 「ああそうさせてもらうぜ。……それにしてもさ」  男は不思議そうな顔で、背後に(そび)える船を見上げる。  乗っていた時は感じなかったが、降りてから客観的に見ると、その人工的で硬質な船の肌に何だか畏怖のようなものを感じた。  男の前髪を柔らかな風が撫で、朝日が鼻筋を白くひからせた。くちもとに優しい微笑みを浮かべる。 「普通なら、アドルフ司令官が真っ先に港に降り立つはずなのに、俺達船員を先に行かせて、自分は最後に降りるなんて、やっぱり仲間想いの優しい人だよな」  それを聞き、もう一人の男は満面の笑顔になった。 「だな。あの人の元で共に戦えたのは、俺の生涯の勲章だ」  ジークフリートは自室の小窓から半分顔を覗かせ、外の様子を伺っていた。  きらきらと輝く漣と、灰色から途中で街へと続く道となる赤茶色へと変化している港に目を細める。  談笑していた船員たちが、互いに手を振り合いながら家路へと向かい、散っていくのを注意して見届けた後、さっとカーテンを下ろし、立ち上がって後ろを振り向いた。 「港に残っていた船員たちは全員いなくなった」  ジークフリートの視界には、胡坐をかいて彼のベッドに座り、壁に背をついて両腕を枕のように頭の後ろに置いているアルべリヒと、バケツの縁に腕を重ねて半身をもたれさせているブリュンヒルデ、その隣に座るブレンが映る。  ブリュンヒルデは長い間海から離されていたせいであろうか、一度血色の良くなった肌の色が、また青白くなっているように感じる。 早くこの娘を自然の水に触れさせなければと考え、眉を寄せた。  アルべリヒは壁から背を離す。 「そうかい。それじゃあそろそろブリュンヒルデを連れて、俺達も港へ降り立つとしましょうや」  こきこきと音を鳴らしながら腕を回すアルべリヒを余所に、不安げな顔をしながらブレンはジークフリートの方へ身を乗り出す。 「だ、大丈夫でしょうか……。彼女を人目に(さら)さず港へ降ろすことなど、出来ますでしょうか」  ジークフリートはブレンを見つめると、ふっと鼻で息をこぼし、微笑みを浮かべた。 「大丈夫だ。俺達を誰だと思っている。軍人だぞ。海での戦いの専門家(エキスパート)、海軍兵を舐めるな。誇りに思え」  アルべリヒは人の悪そうな笑みを浮かべてブレンを見た。 「だってよ。お坊ちゃん。まぁ、お前は初陣にも出れてなかったし、俺らの凄さはわかんねえかもしれねえけどよ」  ブレンはふたりの上官を交互に見やる。  逆光となった男達の暗い顔の影に、(つば)をこくりと飲み込んだ。  ブリュンヒルデはぽかんとした顔で、瞳をぱちくりとさせる。カーテンから漏れた光が、木漏れ日のようにうすく重なって色を深ませて、彼女の額や頬に当たり、透明な水の膜を張った眸を宝石の如く煌めかせた。  ジークフリートは一度港に降り立つと、シャワー室から持ってきた新しいバケツですばやく港に接している海水を掬った。  そしてその水入りバケツを持って、再び自室へ戻っていく。その顔に迷いはなかった。  自室に戻ると、アルべリヒがどこから持ってきたのかと思うほど、大きな背負い鞄を(かつ)いでいた。ジークフリートの怜悧(れいり)な視線と目が合うと、にやりと屈託のない笑みを返す。  バケツを床に置くと、ジークフリートはブリュンヒルデの前へしゃがんだ。 「ジーク……何をするの?」  不安げな(おもて)で目の前の精悍な男を見上げるブリュンヒルデの頬を、固い手で優しく撫でる。  穏やかな碧い(ひとみ)で、ブリュンヒルデを見つめた。 「心配するな。お前に嫌な想いはさせない。……ただ少し窮屈になるかもしれないが、我慢してくれ」   ブレンは薄く口を開け、唖然としながら流れるように物事を進めていく男達の様子を、ただ黙って見つめていた。    カーキ色の厚い布の鞄の中で、ブリュンヒルデはバケツに入れられていた。彼女を背負っているジークフリートが船体から港への階段を降りる度に、ゆらゆらと揺れる衝撃があったが、バケツをしっかりと太い紐で固定されているため、安定しており、不安感は無かった。むしろ初めての体験で、心地よいくらいだ。 「……辛くは無いか」  ジークフリートが、ブリュンヒルデにだけ聞こえる小声で彼女に問うた。ブリュンヒルデは、ジークフリートにだけ見えるように開けられた縦に長い穴の前で、大きな瞳をぱちくりとさせて応える。そうするとジークフリートは安心したようなやわらかな笑顔を浮かべた。  ジークフリートの足音で階段を降りきったことを悟ったブリュンヒルデは、魚の尾である膝を両腕に抱いて身を丸くした。船から降りれば、港である。周囲に少ないとはいえ人がいるかもしれない。緊張から真白き二の腕に震えが走った。ジークフリートたちが港を歩いていく、重量のある確かな足音だけが、彼女の耳に聞こえていた。 「ーーおい」  ジークフリートの足が止まった。港の男に話しかけられているらしい。  ブリュンヒルデは心臓がばくばくと高鳴るのを感じた。思わず片手で息を止める。指の間から漏れる吐息が、自分で考えていた以上に熱かった。ジークフリートたちがふたこと、みこと、男と会話する。男は訝し気に咥えていたパイプを吸ったが、やがて興味がない素振りで顔を海に向け、白い息を吐いた。  ジークフリートたちはなるべく早足で港を去って行った。  ブリュンヒルデは片手をあまりにも強く口に押しつけていたため、苦しくなってしまい、顔を赤くしてぜいぜいと呼吸をした。だが周囲に仲間以外の人がいなかった為、彼女の呼吸音で存在がばれることは無かった。彼女の折り曲げた尾が、バケツに入れられた海水の中で跳ね、ぱちゃぱちゃと鳴る。 「あっ」  ブレンは早足で走る一行の中で、一人立ち止まった。 「おい、どうした」   アルべリヒが若干イライラとしながら隣を振り向き、ブレンに話しかける。  ブレンはくちびるを噛み、元々白かった顔をさらにしろくしている。鼻に浮いたそばかすの朱色が、さらに濃くなっているように見えた。腹を押さえ、(うずくま)る。 「おい、腹がいてえのか。気持ち悪いのか。大丈夫か?」  さすがにアルべリヒも心配になり、小柄なブレンの顔に近付くように腰を屈める。 「まさか船酔いか……? 胃薬でもあっただろうか」  ジークフリートはズボンのポケットをまさぐる。それを制するかのように、ブレンはさっと手を上げ、ジークフリートの手にそっと重ねた。 「おい、ブレン・フィッシャー……」 「お腹が……」 「あ?」アルべリヒが眉を上げる。 「お腹が……、すいて……」  そう言うや、ブレンは顔を真っ赤にした。そして彼のベージュのジャケット越しに、「ぐー」という腹の音が鳴る。  一同は溜息をついた。 「ここがクルワズリ……」  ブレンは空腹で痛む腹を押さえながら、ぼうっと天を仰いでいた。彼の頭上には赤や橙、黄色などの暖色系の布で作られた傘が幾重も重なっている。明るい陽光が差し、ブレンの白い肌を重なったとりどりの傘の色とひとしく、淡く染めていた。 「クルワズリってこおんなとこだったのか」  アルべリヒは周囲を見渡す。両手をサスペンダーのポケットの中にしまい込み、口を開けていた。そよ風が吹き、アルべリヒの赤茶色の前髪を揺らす。久しぶりの穏やかさだと感じた。  耳をすますと、そよ風と共に玲瓏な音楽が流れてきた。 「何だ、これ……。ヴァイオリンかぁ?」  弓で何かを弾く音。  聞き慣れた弦楽器の音ではない。 「琴だ」  ジークフリートは何食わぬ顔で応える。 「は? コト?」  アルべリヒは眉を寄せてジークフリートの方を見た。  ジークフリートは一瞬アルべリヒを横目で見たが、すぐに視線を前に戻した。 「飯にしよう。ブレンの腹も限界だろうしな」  返事の代わりにブレンの腹から盛大な音が鳴り、顔を真っ赤にして背を曲げたブレンを大人たちは見下ろした。  傘の下には横一列に並ぶ商店街が広がっていた。とりどりの瑞々しい野菜や果物が並ぶ中、ジークフリートたちはその一角にある小さな飯屋に席をついた。天蓋には白い布が客席を覆うように張られている。  ブレンが腹を(こす)っていると、奥から店長らしき太った男が現れた。 「お客さん、ここは初めてかい」  黒髪に黄色い肌の店主は、腰に手をあて、満面の笑顔で座っているジークフリートたちを見下ろしていたが、彼らの顔を見ると、残念そうな顔になった。 「なんだ……あんたら皆西洋人だね。じゃあここの店の丼は口に合わんかもしれんな……」  脂肪のついたやわらかな顎に指をあて、視線を斜めにそらして考え込む素振りをする。  そんな店主を見て、アルべリヒはイライラしてきた。眉を上げて店主を睨み上げる。 「なんだぁ? 俺達には食いもんは出せねえって言うのかよ。俺は好き嫌いはねえんだ。何でも持ってきやがれ!」 「そうかい? そんじゃあ持ってくるけど……一人ロッピャクハチジュウエンだよ」 「エン?」 「ーーああ、気にするな。持ってる」  そう言うとジークフリートは懐から、てのひらサイズの飴色の革の財布を取り出し、ぱちりと大きな金のボタンを指で弾くと、中から丸い金貨を何枚か取り出した。そして、店主が取りやすいようにテーブルの上に乗せた。 「ありがとよ、ほんじゃ、待っといでな」  店主は満足そうな笑顔を見せ、店の奥へと消えていく。  アルべリヒは訝しむように店主の背を見つめていたが、ジークフリートに顔を近付けると、何かを問おうとして口を開き、結局やめて片手で顎を支えた。  店主は器用に両手で三杯の丼を持ってくると、ジークフリートたちの目の前に置く。丼は藍色で細かな筆致で何かの模様が描かれており、アルべリヒが興味を持って顔を近付ける。 「……(ドラゴン)か?」  丼に描かれていた髭の長い一見蛇のような怪物は、昔アルべリヒが幼い頃、父母から見せてもらった東洋の絵本の中で見た事がある龍であった。西洋のドラゴンとは違い、翼のついた巨体ではない。それが奇妙で不思議で、逆に惹きつけられたのだ。  そんな遠い記憶を思い返していたが、意識を丼の上に乗せられたものにうつす。  赤いマグロの切り身と、白身魚の切り身、そしてサーモン、イカの切り身が端だけが重なるように乗せられ、その横に黄緑色のものが、ちょこんと置かれている。 「生魚のオンパレード……」  アルべリヒは口を大きく開けた。 「なんだ、生魚は嫌いなのか」  隣でジークフリートは何食わぬ顔で箸を持ち、マグロの切り身に手をつけようとする。 「いや、別に嫌いってわけじゃねえけど……」   アルべリヒはぶつくさ言いながら箸を持ち、丼を片手で持ち上げると、そのまま丼の縁にくちびるをつけ、スープを(すす)るかのように、かっくらおうとする。  だが、違和感を感じ、丼から顔を離す。 「ん? なんだ、この魚の下に敷かれてるの……」 「米だろ」  ジークフリートが淡々と応えた。 「コメ?」  アルベリヒはジークフリートの方を見やる。 「美味いぞ。いいから魚と一緒に食ってみろ。ああ、そうだ、そのテーブルの上に置かれている醤油を適当にかけてな」 「ショウユ?」  黒パンとビール、ハムで生活しているアルべリヒに、先ほどから聞き慣れない言葉がぽんぽんと飛んでくる。  目の前を見れば、テーブルの(くぼ)みに硝子(がらす)で出来た瓶が置かれている。吸口がついているようだ。その中に半分ほどの量でほのかに透明な黒い汁が入っていた。 (なんだこれ、黒ビールか?)  アルべリヒは眉をひそめながらそっと手を伸ばし、瓶を取り上げた。そして丼の上から距離を離し、指で蓋を押さえながら魚の上に垂らしてゆく。  硝子の口から漏れる醤油は、陽の光に当たると少し赤茶色であることがわかった。マグロの脂に弾かれ、切り身の上をすべり、米に染みていく。食べたことが無いので味がわからなかったが、見た目は美味そうに感じる。ソースとは少し違う味なのだろうか。  己のくちびるを舐めると、乾いていることがわかった。  丼を再び持ち上げ、箸で刺身と米を同時にかきこむ。 「んっ、ほっ。こりゃうめえ……」  口いっぱいに広がる米の甘みと、魚の新鮮な脂、そして醤油の甘くもあり辛くもある絶妙な調味料の味が合わさり、幸福感を得る。 「ほい、ほりゃ、ふめえな」  笑顔で隣のジークフリートを見ると、淡々と箸を口に運び、半目を閉じて味わっている。まるで懐かしい食べ物を味わっているかのようだ。ジークフリートの喉が嚥下する。形の良いしろい喉ぼとけの動きを、意識せずとも見つめてしまう。 「だろうな」 「……なんだそのわかりきった態度……」  ジークフリートはアルべリヒを無視して、店主がこちらに来ないこと、また通りから人が来ないことを首を回して確認し、刺身を箸で挟んだ。そして、背負った鞄の薄く開いた口から箸を入れ、ブリュンヒルデに食べさせようとする。  ブリュンヒルデはそれに気付き、ジークフリートの手に顔を近付けると口を大きく開けて、ぱくりと刺身を食べる。彼女の舌先に、ひやりとした魚の風味が広がり、嬉しさでほのかに頬が薄紅に染まる。  ジークフリートはそれを手の振動で確認すると、すっと箸を離し、ふたたび何食わぬ顔で元に戻した。  アルべリヒはふとジークフリートの手を見て、自分が箸の持ち方を間違えていることに気付いた。愕然とし、慌てて見よう見まねで箸の持ち方を変える。  アルべリヒの隣に座るブレンも、箸の持ち方がわかっておらず、困り顔で、まだ食事にありつけていないことに気付いた。  教えてやろうかと口を動かそうとすると、ジークフリートが前屈みになり、アルべリヒの前からブレンに手を伸ばし、箸の持ち方を無言で教えてやっている。ブレンはジークフリートからの指示で頭のねじがひとつ抜け、すっきりしたかのように箸の持ち方を変え、笑顔で丼にぱくつく。   またジークフリートは何食わぬ顔で自身の丼に手を付ける。  さきほどからアルべリヒはジークフリートのクルワズリへの適合の仕方に驚いていた。 (こいつのこの落ち着きようはなんなんだ……。地元住民か……? この街に元から住んでたんじゃねえの……?)  アルべリヒのこめかみを汗がひとつ、たらりと流れた。丼の刺身と米を一口ずつ丁寧に食べるジークフリートにアルべリヒは肩を寄せ、口に手を添えて声をかける。 「ジークフリートさんよぉ。お前さん、なんでクルワズリの楽器やら飯やらに詳しいんですかい」  ジークフリートは口の前で箸を止めると、瞳をちらりとアルべリヒに向ける。 「……実は俺は、日本趣味(ジャポニズム)なんだ」 「は?」  ジークフリートは、箸を丼の上に乗せると、その指先でこめかみを掻いた。半分まぶたをおろし、視線を逸らす。 「……俺の部屋は、和風の骨董や絵画で溢れている。子供の頃からそういうものに惹かれるところがあった。リリューシュカには俺のそれをまだ理解してもらえていなくて、いつも新しい物を手に入れると、またかという感じで、ちょっと怒っているように見えたがな」  アルべリヒは唖然とした顔でその話を聞いていたが、やがて耐えきれず噴き出した。彼の口から米がジークフリートの白い頬へ飛んだので、ジークフリートは嫌そうにそれを拭う。その様子は照れているようにも見えた。 「はは……、まさかお前にこぉんな趣味があったなんてなぁ。想像もしてなかったぜ」 「ほっとけ」 「付き合いなげぇのに。隠してたな。なぁにを恥ずかしがってたんだか」 「うるさい、お前だって親しい者に知られたくない趣味のひとつやふたつ、あるだろうが」  ジークフリートは長い睫毛を伏せ、嫌そうに顔を横に向けた。  アルべリヒが箸の先をジークフリートに向け、さらに彼をなじってやろうとした刹那であった。  通りから、一人の女がこちらに歩いて来る。女の肩にかけていた紫色のショールが風に流れ、アルべリヒの目の端に映った。アルべリヒの後ろを通り過ぎたその女の着ている黒のディアンドルからのぞく、健康的な小麦色をした大きな胸元が、アルべリヒのまなこに映る。彼女の背に流したうつくしい黒髪が、アルべリヒの頬に触れそうな距離感になったとき、アルべリヒは息を止めた。  がたりと音を立てて椅子を蹴倒し、アルべリヒが立ち上がった時には、女は通りから姿を消していた。 「おい、どうした」  ジークフリートは眉を寄せ、アルべリヒに問いかける。ブレンも彼の隣で驚いた顔をし、持っていた箸を地に落としてしまう。からんと朱色の箸が跳ねる。  アルべリヒは応えず、サスペンダーに両手を突っ込むと、彼らに背を向けて歩き出そうとする。 「アルべリヒ!」  ジークフリートは強く声をかける。 「俺達は船ん中で、女抱かないで何カ月過ごした?」  アルベリヒは背を向けたまま応えた。 「は?」  ジークフリートは軽く目を瞠る。 「娼館くらい行かせろよ」  そういうや、アルべリヒは片手を上げて去って行った。  残されたジークフリート達は、暫し茫然としていたが、ジークフリートが背負っていた鞄の中で、ブリュンヒルデが彼らにだけ聞こえる声の大きさで「ショウカンって何?」とつぶやく。  ジークフリートは一度地を見た後、溜息をついて鞄の方へ視線を向けると、「お前は知らなくて良い」と言って優しく叩いた。     残されたジークフリート達は、海鮮丼をたいらげると店を後にした。 「美味しかったですね」  ブレンがジークフリートに笑顔を向ける。 「ああ、久しぶりに食べたな」 「前も食べたことがあったんですか?」  ジークフリートは眉を上げる。 「ここは俺の故郷に通じている街だからな。以前も通ったことがある」 「へえ。なるほど」  ジークフリートは鞄を揺らし、体勢を整えた。 「腹ごしらえも済んだことだし、今後のことをどうするか考えねばな。まずは俺の家に帰って、ブリュンヒルデを仲間の人魚にどうやって帰すか、作戦会議を立てようかと思っている」 「そうですね……。司令官のご自宅って、クルワズリを徒歩で抜けて行けば、辿り着けるところにあるんでしょうか」 「ああ、港と陸は繋がっているからな」  そう言うと、ジークフリートは遠い眼をして海の方角を見た。半分まぶたを伏せ、切ないまなざしをみせる。 (司令官、海で起きた悲劇を思い返しているのだろうか)  ブレンは上目遣いでジークフリートを心配した。 「……どうしましょう。ベルツさんが帰ってくるまで、ここらをぶらぶらして待ってます? それとも先に進みましょうか。伝書鳩を飛ばせるところがあればいいんだけどな。そうすれば、ベルツさんに僕達の居場所を教えられるから」  ブレンは通りをきょろきょろと見渡した。口では真面目に言っているが、内心では初めて見るクルワズリの街の商店街を探検したくてたまらなかった。縦に長い、弦の張られているつやを持った蘇芳色の楽器を演奏する女性達の演奏も聞いてみたかったし、もっとこの街を堪能したかった。  うずうずとした気持ちが体にも伝わり、握ったこぶしが震えていた。 「……どうした。体調でも悪いのか」 「い、いいえ。そんなことはないです」  震えたこぶしを見られていたらしい。  心配して自分を見るジークフリートの様子に恥ずかしくなってしまい、顔を赤くして胸の前でてのひらを広げ、ぶんぶんと首を左右に振る。 「そうか、ならいいが」  ジークフリートはうすく口角を上げると、興味を失ったように再び遠い目をした。そして数秒黙っていると、鞄を背負い直して背筋を伸ばし、淡々と通りを歩こうとする。 「えっ、司令官」  ベルツさんは待たなくていいんですか、と問おうとして口の形が開いたまま止まる。 「本来の目的を忘れ、性欲に溺れた者のことなどほっておこう。先に進むぞ」 「え、は、はい!」  歩幅が広く、ブレンが早足で歩かないと追いつけない速度でジークフリートは歩いていく。咄嗟のことだったので、先ほど食べた海鮮丼がまだ腹の中で消化されきっていなかったのか、えずきそうになる。それを頬を膨らませて必死に押さえた。  あたたかなそよ風が、ジークフリートの金の前髪を揺らす。やわらかく目を眇めると、ふと商店街の呉服屋に目を留める。  腰の曲がった白髪の老婆が、長い髪をつむじでひとつに纏め、横に真っ直ぐになるように赤い珊瑚の玉のついた櫛を差している。老婆の着ている着物は、薄紫の地に黄色い牡丹の花模様で、凛とした佇まいを現わしているが、それを纏う彼女の顔は丸く穏やかなので、愛らしい印象だった。  ジークフリートは老婆の前に置かれた色鮮やかな着物に視線を落とした。独自の折り畳み方で丁寧に置かれたそれらにそっと指先を置き、すうっと横に撫でる。普段己が着ている革のジャケットや、固い軍服とは比べ物にならないほどやわらかな手触りがし、蒼い瞳を揺らした。 「手に取ってみてもいいんですよ」  老婆は微笑んでそう言った。  ジークフリートは着物に手を置いたまま、老婆に微笑みかえすと、さっと両のてのひらに、一番上に置かれた濃い紫色の着物を載せた。横に長いその着物は、ジークフリートが少し斜めに傾けると、陽の光を受けた繊維が薄い桃色に煌めく。それを見て、ジークフリートは目を瞠り、ひとみの水面を水色に鈍くひからせる。 「菖蒲(しょうぶ)のような色でしょう。この店自慢の一品ですよ」老婆は言った。  ジークフリートはゆっくりと顔を上げて老婆に微笑む。 「菖蒲。琳派の絵画の中でしか目にしたことはありませんが、好きな花です」 「あんた、西洋人なのに珍しいね。好感がもてるよ」  老婆はにやりと歯を見せる。前歯が一本金色だった。  ジークフリートは眉を上げ、手にした紫の着物を丁寧に整えてから置かれていた着物の上に再び置き直した。そして、二歩後ずさり、両手の指を四角の形にして顔の前に(かざ)す。写真を撮るポーズだ。四角く囲った指の間を、紫の着物に焦点を当て、じっと見つめる。そうして再び二歩進み、店の前で足を止めると、紫の着物を片手で抱くように取り、老婆に微笑む。 「ばあさん。これをくれ」 「あら、誰か良い人にでもあげるのかい」 「ああ、この世で一番愛している女へな」 「ふふふ、お熱いったら」  ジークフリートの脳裏には、この紫の着物を着たリリューシュカの姿が浮かんでいた。彼女の淡い色の金髪には、こういった濃い紫も似合うだろう。  長い髪を結い上げ、溶けたバター色の光沢を放ちながら、着物を着て車椅子をくるりと一回転させてあかるく微笑むリリューシュカの姿が、目に浮かぶようだった。  老婆はジークフリートから着物を受け取ると、ゆっくりと後ろを向く。そして白い和紙でかさかさと音を鳴らしながら着物を折り畳むように包み、赤い紐で縦横十字の形で結んだ。両手にそれを載せると、ジークフリートの胸の辺りに差し出す。  中央で結ばれた紐が蝶のようで愛らしいとジークフリートは思った。  老婆のしわがれた手から、そっと受け取る。 「ありがとう」  ジークフリートは礼を言った。  老婆は微笑み、軽く会釈をする。研いだヤ刃のような色をした、彼女の見事なシルバーヘアを見て、死んだ母を思った。 母はジークフリートが十一の歳に亡くなった。その頃はまだ四十代であったが、故郷で流行った突然の感染症で、命を落とした。医師達から遺体から感染することを懸念され、死に顔を見ることは無かった。なので、記憶に強く残っているのは、木漏れ日の下で洗濯物を干そうとする、穏やかな笑顔を浮かべた母の姿しかない。己とリリューシュカのブロンドは、母の死より前に戦死した父譲りなので、母の髪は磨いた銅のような赤毛であった。美人というより小柄で愛らしい人だった。母も生きていたら赤毛から老婆のような白銀の髪になっていただろうか。そんなことを無意識に考えた。  踵を返すと和紙で包まれた着物を片腕に挟み、通りへ戻ろうとする。  後ろにブレンが立っており、着物の店とジークフリートの腕に挟まれた和紙の包みを、興味深そうに交互に見やる。  ブレンの細い肩を叩き、先へ行くことを促そうとした刹那であった。 「この野郎! 待て、この盗人共が!! おうい、誰かこいつらを捕まえてくれぇ!!」  先ほどジークフリートたちが辿ってきた通りからばたばたと足音が聞こえてくる。  声のした方へ視線を向けると、ペールグリーンのハンチング帽を被った小柄な少年と見えるふたりが、ぱたぱたとこちらへ駆けてくる。ジークフリートは咄嗟に二匹の子犬を思い浮かべた。駆けることが仕事とでもいうかのような、その小さな身に力を有り余らせた。  ものすごい駆け足で、無茶苦茶に手を振り回して必死で駆ける先頭の少年の右手には、サンタクロースの持っているような大きなオフホワイトの布の袋が、左手には、もう一人の少年の小さな手が握られていた。  先頭の少年の必死さに比べ、手を引かれている少年は、帽子の縁から覗く琥珀色の瞳が虚ろな様子で、自分で走っているというより走らされているといった印象であった。  気にはなったが、今は面倒事に関わっている暇はないので、見なかった事にしようと彼らに背を向ける。  すると横から風が起きた。  はっと視線を向けると、少年たちがジークフリートと触れる寸前で駆けていくところであった。  少年が一瞬顔を上げ、ジークフリートの蒼い瞳と目が合った。少年の琥珀色のアーモンド形の瞳が、きらきらと輝き、生命力に溢れていた。先ほどは遠目から子犬のようだと感じていた少年の印象が変わり、触れれば噛まれる子猫のようだとその時感じた。  ジークフリートと目が合うと、少年はきっと鋭い目つきになった。そして当てつけのようにジークフリートの(すね)に、自分の腕を触れさせた。  その時、ジークフリートは咄嗟に少年の腕を強く掴み、後ろへ引きずり込むように引っ張った。  少年は驚き、目を丸くする。少年と手を繋いでいた後ろの少年も同時に引っ張られる。  ふわりとふたりの少年は地から宙へ浮き上がった。ジークフリートはその軽さに驚いた。何も食べていないかのような重力だった。  先頭の少年と再び目が合う。目の端の睫毛が吊り上がるように長く上を向いていて、桔梗の花弁の先のようだった。  ジークフリートは、先頭の少年がこちらを睨み上げ、何か言おうとする前に、ふわりと片手を彼の小さなくちびるに当て、口を塞いだ。少年たちを両腕で抱きしめ、かるく持ち上げる。耳元に口を近付けると「静かにしろ」と小声で囁いた。  少年は吊り上がった猫目をこちらに向けて、睨み上げてくる。近くで見ると深い泉の水面で輝きを放つような琥珀色の瞳の大きさが際立つ。遠目で見た時は気付かなかったが、あどけなくも凛としたよい顔をしている。着ている衣服も、他のクルワズリの住民たちといささか趣が違っていた。 (これは、もっとプロトタイプの着物なんじゃないか……?)  クルワズリの住民の着ている衣服は、上衣は先ほどジークフリートが店で購入した着物と同じような構造をしているのだが、下は西の国の住民が着ているのと同じ構造の、青や濃き紫色の麻のズボンやスラックスを履いている。  だが、この少年たちが着ているものは、上も下もひとつながりで、太い帯を細い帯紐で締めて留めているような、古代からの「キモノ」を纏っていた。  対してもうひとりの少年は常に顔を伏せており、顔色が伺えなかったが、帽子から覗く瞳は、猫目の少年に比べて垂れ目であるように見えた。小さな鼻が愛らしかった。少年たちはジークフリートに抱きかかえられても、繋いだ手を離さなかった。猫目の少年の方が強く垂れ目の少年の手を握って守っているように見え、猫目の少年が兄で、垂れ目の少年が弟なのかと思わせる兄弟愛を感じた。  吊り目の少年が夕焼けを彷彿とさせるような紅い色をした着物を、垂れ目の少年が、澄み渡る暁を思わせる薄い水色の着物を着ている。 「ちくしょう! あいつらどこ行きやがった……!! 待て、この野郎共! ぶっ殺してやる!!」  男の怒声が通りから聞こえてくる。  ジークフリートは視線をちらりと通りへ向けると、再び腕に抱いた少年たちに戻す。そして店を覆う白い布に、通りからこちらが見えなくなるまで体を沈めた。  男が遠ざかっていく気配と、腕に抱いた子猫のような兄弟の、ばくばくという大きな心臓音が聞こえる。数秒静かな空気を味わい、踵を揃えて前へ踏み出し、姿勢を元に戻すと、腕を再び見ると、ふたりのつむじが目に入った。気付かない内に少年たちを自分の固い胸に抱きつぶしてしまっていたようで、腕の力を緩めてやると、猫目の少年が目の端に涙を溜め、頬と鼻の頭を赤くしていた。 「何すんだよ!」  ジークフリートは迫力に飲まれて「すまない」と一言謝ってしまいそうになったが、くちびるを軽く湿らせ、その必要はないと自分に言い聞かせた。そして腕の力を完全に解き、少年たちをよろめきながらも地に足を立たせる。 「……お前らが追いかけられていたのを助けてやったんだろうが。あのままだと普通の話し合いも出来ないくらい取って食われそうな勢いだったからだ。礼くらい言え。それとも本当に盗人だと言うのならば憲兵に突き出してやるが。その袋の中身は何だ」  ジークフリートは猫目の少年の持っているサンタクロースの袋を指差した。猫目の少年は、はっと瞳を見開くと、その袋を背に隠す。 「……なんでもねえ」 「おい、中身を見せろ。場合によっては盗人に加担したことになりかねんからな」  ジークフリートは少年の背に回ると、彼が手にしている袋を掴んだ。 「あっ、やめろ!」  少年は手を伸ばして袋を掴もうとするが、ジークフリートが高く掲げた袋は、彼の小さな背では届かない。近くでよく見れば、袋は少し黄ばんでおり、古いことがわかった。  袋の口に結われていた朱色の糸を解き、中を見る。紐の手触りは先ほど触れた紫の着物と同じ種類だった。布の方は、薄い牛の革で出来ている。 (金貨でも盗んできたのか……)  そう思い、袋の中身を広げる。  眉を寄せて中を見て、ジークフリートは目を見開いた。 「なっ……」  そこにあったのは、女物の下着であった。E~Cカップくらいの大きさの黒いブラジャーが、細やかな黒のレースで縁どられてそこに数枚存在する。あとは米や鮭や鯖の燻製など、僅かな食料も入れられているが、下着があったことの衝撃が大きく、ジークフリートはそこにしか目がいかなかった。いつの間にか彼の口も開いていたらしく、舌先が少し冷えた空気に触れる。 「返せ!!」  唖然としていると、猫目の少年が顔を赤くしてジャンプし、ジークフリートの手から袋をもぎ取った。  ジークフリートは気が緩んでおり、猫目の少年の小さな手に、袋は取られてしまう。そのまま袋を両腕に抱きかかえ、垂れ目の弟を連れて逃げようとする少年を捕らえようと、ジークフリートは咄嗟に彼の被っていた丸いハンチング帽を掴む。柔らかな手触りのそれは、存外するりと彼の小さな頭から剥がれていく。 「あっ……」  少年は虚を突かれ、大きな瞳をさらに見開くと、両手で帽子を取られるのを防ごうとする。  ジークフリートは帽子を引っ張った時に違和感を覚えた。何か重力のあるものに引っ張られる感覚と、そこの突っかかりが取れる感覚が、彼の手先を襲う。そして、その突っかかりから帽子がふわりと浮き上がり、自分の手に取れたと思った瞬間、少年の体を覆うように、射干玉(ぬばたま)の長い黒髪が、繊細な糸の束となって舞い降りたのだった。 「は……?」 「ああ!!」  猫目の少年が、頭を抱えて蹲るのと、垂れ目の少年が歩みを止めて後ろを振り返るのが同時だった。  ジークフリートは予期せぬことに驚き、一歩足を踏み出して、地につっかえたように止めた。 「おい……」  ジークフリートが声を掛けようとした刹那、猫目の少年は振り返り顔を上げた。涙で目が潤んでいる。眉間に皺を寄せ、子猫が威嚇するようにこちらを睨んでいるが、ジークフリートは少年の長い黒髪が艶やかで、そのうつくしさに見惚れていた。黒髪と合わせて今一度少年を見やれば、その肌は雪のように白くなめらかで、爪の先と、頬、くちびるは桜色をしていることがわかった。 (少女か……)  やっと確信した。今一度よくよく見ればその黒髪は妹のリリューシュカやブリュンヒルデの波打つ髪質と違い、真っ直ぐでさらりとしている。 「帽子を返せ!!」  少女は背筋を伸ばし、ジークフリートの手から袋を奪おうとするが、膝を折り曲げて高く飛び上がっても、端に触れただけで取り返すことが出来なかった。ジークフリートはジークフリートで、猫目の少女のつむじから目を離せずにいた。右に渦を巻いた整ったつむじであった。しかも少女が飛び上がるたびに、その細い髪は揺れ、陽の光に白い光沢を放つのだ。  ジークフリートが気を抜いた隙に、少女は袋の端を掴むと勢いよく彼の手から袋を奪い取った。 「やった!!」 「あ、おい!」  少女はかるく飛び跳ね、笑顔になると袋を片手で天へ掲げ、垂れ目の少年の手を取る。 「行くぞ! アオイ」  アオイと呼ばれた少年は、こくんと頷き少女の手を取ると、引っ張られるように共に通りを駆けていく。  ジークフリートの前に彼女たちが駆け抜けて起きた風が舞う。彼が手を前に出し、彼らを捕らえようとするが、猫のような速度で去って行ってしまう。  ジークフリートはくちびるをうっすらと開け、茫然と彼らの背を見ていた。少女の黒髪が扇のように舞っているのが印象に残った。  いつか画集の中で見た、岸田劉生(きしだりゅうせい)という画家が描いた娘の絵を、去り行く少女の後ろ姿に重ねていた。 「行っちゃいましたね……」  呆然と坂の影に消えていく二つの小さな後ろ姿を見つめていると、背後にいたブレンがいつの間にかジークフリートと並ぶ形で横に立っていた。  ジークフリートは一瞬だけブレンにひとみを向けたが、さっと前に戻した。 「ああ……」  ブレンに聞こえているのかいないのか、わからないほど小さな声で囁く。  やがて空は暗い青から桜色の夕焼けへと染まり、青と薄紅が入り混じったようなグラデーションを描き、この浜の街をかすみがけて覆っていった。  ジークフリートとブレンは、己の体の表面が夕日に溶けていっても、去っていった姉弟(きょうだい)の影から、目を逸らすことはなかった。
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