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子供は天真爛漫で可愛い。ずっと五歳年上の姉の娘を見てそう思ってた。
「そんなことないよ。子供は悪魔だから」
姉は実家に帰ってくると旦那の愚痴と一緒にそう零す。
「子供が悪魔?子供は天使でしょ?」
姉の娘、美咲は二歳。まだ薄い髪の毛を横縛りに跳ねて、ちゃんとお座りして丸いビスケットをハムスターみたいにかじっている。
姉の言葉を笑い飛ばした。あの時、私はまだ高校三年生だった。
二十歳になった時、両親が事故で他界。同タイミングで姉の夫が北海道の札幌に転勤になった。
東京と北海道は私と姉の距離。すごく寂しくて遠い。一人残された私に両親の残してくれた一戸建ては広すぎた。私は家を売却し、分譲マンション購入を選択。短期大学を卒業後、就職した広告代理店で知り合った同じ年の同期と三年間の交際を経て結婚した。
新居は私のマンション。表札には、市原秀樹。横に愛莉と並んだ。
一年後、私の妊娠が判明。とんでもない姿勢で股を開き、地獄のような痛みに耐えていきんで踏ん張り、私は自分から分離した赤子にやっと会えた。
産んだ瞬間に私が真っ先に助産医に確認したこと。それは「指は五本ありますか?」だった。
五体満足で元気な三千四百グラムの赤ちゃんが私の胸の上に降るように乗せられる。赤子は「おぎゃあーっ!」ではなく「あわわ、あわわ」と唇を震わせてか細く泣いていた。
お腹の中にいた時のダイズから芽生えていた気持ちが更に大きくなる。瞬間、私は怖くなった。だって自分の命を糸も簡単に捨ててしまえるほど大切な存在を手に入れてしまったのだから。
出産が終わると夫の涙が出迎えてくれた。
「よく頑張ったな!有り難う!」
義母も義父も歓喜してくれる。
「愛莉さん、おめでとう!」
私は皆の喜びに笑みを返し意識を手放した。泥のように眠ったのである。
入院中、私は良く寝た。食事と沐浴、母乳指導、赤ちゃんを愛でる以外、とにかく寝た。そして赤ちゃんと一緒に退院の日を迎える。新生児は儚くて壊れそう。首の後ろに手を回してそっと抱く。白いお包みの中の可愛い寝顔。まさに天使。
退院して夫と向かったのは彼の実家だった。私には両親がいないので義母が世話をする、と申し出てくれたのだ。
義母に甘える日々が続く。家事全般をこなし、泣いている赤ちゃんをあやしてくれる優しい義母。おかげで私の仕事は授乳のみとなる。
最初の一週間、私は母乳で頑張った。でも赤ちゃんには足りないようで三十分間隔で泣いてしまう。どうしても母乳で育てたかった私は乳房のマッサージに通った。でも効果はなく、義母に説得され仕方なく哺乳瓶からの育児用ミルクに変更。すると赤ちゃんは一時間は眠ってくれるようになった。
母乳が出ない母親って……。違和感を拭えぬまま月日が経ち私は自宅マンションに戻ることになる。
赤ちゃんの名前は【凛】に決定。夫と二人で字画と格闘し考えた名前。
凛は一度にミルクをたくさん飲めない娘で、授乳は一時間おき。彼女には昼も夜も関係ない。泣きたい時に泣く。ミルクは与えれば良い。オムツは交換すれば良い。だが私を悩ませたのは原因不明の泣きだった。
とにかく泣いたら抱き上げて横に揺れる。確かにこうすれば泣き止む。だが眠った頃を見計らってベビーベッドに寝かせた途端、火のついたように泣くのだ。
ベビーカーに乗せての買い物中にも泣きだす始末。泣き声が大きいので周囲の目を気にしてロクに食材も買えやしない。これじゃ家事に支障がでる。
夫に相談すると彼は笑ってこう言った。
「赤ちゃんは泣くのが仕事だからしょうがないよ。大丈夫、部屋が散らかってたって埃で死ぬ訳じゃなし、夕食は暫くホカ弁を買ってくるよ。後、食材はネット購入にしよう。だから育児を頑張って」
夫はとても優しい人。ネット購入は仕方ないとしても、その優しさに甘えてしまいそうな自分が私は許せなかった。
専業主婦なんだから、一日中家にいるんだから、部屋を綺麗にして夫の栄養管理をキチンとするデキた妻になりたいのだ。
翌日から私は娘をおんぶして家事をこなした。しかしだ、最初はおんぶで大人しくしていた娘だが、背中では気に入らないのか泣くようになった。
ためしに抱っこで横揺れしてみる。するとピタリと泣き止んだ。おんぶ紐を抱っこに変えて家事を進める。
正直、頭が邪魔だし疲れるし辛い。それでも娘との日々は刻々と過ぎる。三ヶ月が過ぎた。首も座り、うつ伏せにすると頭を起こそうとする仕草が見られる。検診の結果も問題なし。
検診の時、看護師に「ママさん」と呼ばれた。【ママ】何だかくすぐったい。そう、私は一児の母になったのだ。立派なママにならなければ。
すくすくと順調に育っていく娘を眺めて夫は喜んだ。
「なあ、同僚の子供の写真を見せて貰ったけど、ウチの凛の方が何倍も可愛いよ!もうね〜人間とは思えない。凛は天使だよ」
「天使……」
夫の言葉を聞いて、私はふと思った。赤ちゃんは果たして全てが天使なんだろうか?寝顔は確かに天使。だが泣くと悪魔に変わる気がする。【ギャン泣き】って名前の悪魔だ。
いえいえ、そんなことを思ったらダメダメ!私はママなんだから。
休日、夫は率先し育児を手伝ってくれる。しかし平日は甘えてはならない。夜は仕事に差し支えないよう夫とは別室で寝起きした。
「大丈夫なのに……」
夫は不貞腐れている。が、私は「あなたは睡眠を優先するべき!」
そう言って同じ部屋で眠ろうとする夫をUターンさせて背中を押した。
育児は基本的に女の仕事。私は家事も育児も完璧にこなす専業主婦!必死で自己暗示をかける。しっかりして!私はママなんだから!
まちかねた日曜日、夫は接待ゴルフに出かけた。仕事だししょうがないこと。側に居て欲しいなんてワガママにもほどがある。私は自分の頬に平手打ちして激を飛ばした。
ミルクを与えオムツを交換しても、ベッドに放置すると凛は泣き始める。
慌てて抱き上げて横に揺れたが、今日は泣き止まない。それどころか顔を真っ赤にして絶叫みたいに泣き喚く。
熱でもあるんだろうか?体温計で測ってみるが平熱。どこか痛いのかな?泣き方が普通ではない。私は休日当番の小児科クリニックを探して受診した。しかし病変はない。「もう少し様子をみましょう」そう言われただけだった。
帰宅後、ベッドに降ろすと凛は手足をバタバタさせて泣き始める。
あーっ、うるさい!赤ちゃんの泣き声って両耳を塞いでも鼓膜を破る勢いに突き刺さる。私はベビーベッドの柵を叩いた。
「何が気に入らないの!!どうしたら良いの!!」
分からない。どうして泣くのか、涙を止める蛇口がどこにあるのか分からないのだ。ママなのに……。ママなのに……。
夜になり夫がゴルフから帰宅した。
「ごめんね」と謝る夫に私は笑顔の仮面を被り首を振る。
「お仕事ですもの。お疲れ様。夕食できてるよ」
「あっ、ごめん。帰りに上司と食べてきちゃった」
ピキッとこめかみが跳ねた。それならLINEしろよ!凛を抱きながら手間かけて作った夕食が台無しだろうが!!クソがっ!!
その夜、「なあ、いいだろ?」夫から夜の誘い。凛を出産してから初めてのお誘い。応えなくてはならない。だって夫に食べさせて貰ってるんだから。専業主婦なんだから。
でも、ここで体力を使ったら長い夜を乗り切ることができない。これは戦いなのだ。私と凛の戦争。つまり凛は敵だ。
「疲れてるから、ごめんなさい」
私は夫に背を向けた。
誰もが寝静まる真夜中。凛は手足をバタつかせてひたすら泣く。もう抱き上げる気力が残っていない。
毎日、毎日、毎日、うるさい!うるさい!うるさい!!
私は壁に背をあててズルズル床に落ちると耳を塞いだ。ふいに扉が開き夫が姿を見せる。彼は急いで凛を抱き上げた。
「泣いてるだろ?なんで抱いてやらないの?」
は?言ってる意味が分からない。赤ちゃんって泣いたら抱かなきゃダメなの?泣いたら、泣き止ませないとダメなの?赤ちゃんって泣くから偉いの?私は凛の何?僕?召使い?
「愛莉?」
夫に抱かれて凛は眠っている。いい身分だな!泣きゃあ良いと思ってるクソ悪魔!!
「おい、愛莉!!」
夫が片手で私の肩を揺する。私はのっぺらぼうの仮面を装着した。
「ごめん、私が抱っこするからアナタは寝て」
「愛莉、大丈夫なのか?疲れてるんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。私……専業主婦だから」
仕事してる人は偉いの。だってお仕事してくれるから生活してゆけるんだから。私なんていなくてもどうでも良い存在。例えば、明日死んだとしても誰も困りはしない。
月曜日、睡眠不足な両目に朝日がしみて痛い。
「何かあったら電話して」
夫はそう言い残すと玄関扉を開く。閉まる音と同時に、奥の部屋から悪魔の泣き声が聞こえた。
私は悪魔にミルクを与えオムツを変えた。だが、悪魔は許してくれない。今日も泣くのだ。私は凛を抱き上げてリビングを見渡した。
ダイニングテーブルの上に朝食の残りがあった。白い平皿に乗ってる黄身だけの目玉焼き。確かベーコンは二枚、全部食べたのか。フォークが刺さらなかったレタスとプチトマトが寂し気だ。透明グラスに半分だけ残った牛乳。耳だけ残した食パン。ブルベリージャムのフタは開きっぱなし。
白いソファーには、いつ脱いだか不明なカーディガンとゴムの伸びたズボン。サイドボード上で傾いている写真立て。三人の家族写真が笑顔で可哀想。黒いテレビの上には白い埃が雪のように薄く積もっている。二箇所だけ外れたカーテンフック。
掃除いつからサボってた?綺麗にしなきゃ。
シンクに溜まった食器の汚さに溜め息を吐く。
寝室に素足を進めて姿見に自分を映せば、そこには薄汚れた灰色のスウェット上下を着た女らしき物体がいた。あれ?いつ風呂に入ったか思い出せない。
黒ゴムで後ろに結んでるけど、あちこち乱れたセミロングな黒髪。化粧なんて忘れた吹きでものだらけの素顔。醜い!醜すぎる!
この部屋は、社会に、世間に、取り残された隔離世界。私は一人、この狭い空間で悪魔と戦っているのだ。
誰だ?誰が私をこんな状態に追い込んだ?そう、奴はこの手の中にいる。産毛しか生えていない悪魔って名前の小さな宇宙人。
私は眠っている悪魔をベビーベッドに落とす。すると悪魔は「きっ!」と訳の分からない奇声を発して表情を歪めた。
その先は分かっている。どうせ泣くんだろ?
「うぎゃああああーーっ!!」
案の定、悪魔は泣き喚く。短い手足を必死に動かし私に訴えてくる。さあ早く抱け!抱いて揺れろ!!
「黙れ!」
私は悪魔を冷ややかに見下ろした。
「黙らねーと殺すぞ!」
悪魔は泣き止まない。更に激しく絶叫を繰り返すだけ。
「黙れーーっ!!」
私は悪魔の口を両手で塞いだ。
ダメだよ!そんなことしちゃダメ!アナタはママなんだから!
私の中のママが叫ぶ。そのママを私はぶっ飛ばした。
うるせーんだよ!ママは両手と両足、腰が痛てーんだよ!疲れるんだよ!寝たいんだよ!もう嫌なんだよ!!
その刹那、グイッと後方に身体が強く引かれた。悪魔から両手が離れる。背中に伝わる温もり。私は背後から誰かに抱きしめられていた。
「愛莉」
その声。
「お姉ちゃん?」
振り向いた先、そこには姉が立っていた。
「愛莉……」
姉は再び私を抱きしめると耳元で囁く。
「今は眠りなさい」
「あっ……」
鼻の奥が酷く痛んで視界が二重に見える。
「お姉ちゃん何で?北海道から……何で?」
「話は後、今は眠るのが先」
「私……悪魔の口を塞いで殺そうと……」
「いいから眠りなさい」
姉に促され、私は夫の寝ている部屋で布団に潜り込む。悪魔を抱いた姉は和かに私の頭を撫でてくれた。
もう何ヶ月もまともに眠れていない思考に白い靄がわいてくる。睫毛が徐々に光を狭くし横一線になると暗闇に変わった。
鼻が匂いを嗅ぎとる。瞼を上げた私の視界には白い天井があった。
「ここはどこ?」
一瞬の困惑。だが、すぐに鮮明になった。
眠った。久々に深く眠ったのだ。また良い匂いが鼻腔に充満し腹がグゥ〜と鈍い音で鳴る。匂いに誘われた私は布団から起き上がりリビングへと歩いた。
ダイニングテーブルに並ぶ数々の料理達。肉じゃが、ほうれん草のゴマ和え、唐揚げにマカロニサラダ。みんな、どれも私の好物ばかり。
「あっ、起きた?」
エプロン姿の姉がカウンターキッチンの向こうで笑っている。
「もう夜だよ。良く寝たね」
「夜?」
壁の丸時計を見上げる。20時過ぎ。眠ったのは午前中だからかなり長い時間、熟睡したことになる。
「あっ……」
私はダイニングテーブルに両手を突いた。
「凛……凛は?」
「今、ベビーベッドで眠ってるよ。もう三時間も寝てる」
「は?」
両目を見開く。
「嘘でしょ?凛は三時間も一気に眠らないよ!」
「あっ、寝かせる時に泣いたよ。でもすぐに泣き止んだ」
「抱っこせずに泣き止んだの?」
「うん、泣き止んだよ」
「どうやって泣き止ませたの?」
「それは、背中の洋服のシワを直したからだよ」
「え?シワ?」
「うん、赤ちゃんって色んな不快で泣くからね。ミルクもあげてオムツを取り替えても泣くようなら背中に不快感があるのかなって、直してあげたら寝たよ」
「シワって……」
力を無くした膝がくの字に曲がる。私はフローリングに膝を落として横に倒れるように座り両手を突き身体を支えた。
「大丈夫?」
甲高く響くスリッパ音。姉の両手が私の肩に置かれる。
「育児で困ったことや悩みがあるなら電話してって、私、何度も言ったよね?」
「うん、でも……」
姉だって三人の子供を育てていて忙しい。それが分かっているから迷惑をかけたくなかった。それを説明すると姉は「バカ!」と怒って私を抱きしめた。
「妹が悩んでいるのに相談もされない姉の気持ちが分かる?」
「お姉ちゃん」
「凄く寂しいんだぞ、バカ!」
「ごめっ……」
もう疲れて、心が使い古されたぞうきんみたいにボロボロで、私は姉の細く白い両手の中にみんな吐き出した。でも言葉にはならない。
「うわああああああーーっ!!!」
絶叫して泣き喚いただけ。まるで赤ちゃんだ。
姉の手が背中で強くなるのが分かった。姉はこんなダメなママを受け止めてくれる。丸ごと包んで力一杯に抱きしめてくれるのだ。
ひとしきり泣いた後、姉は私にこう言った。
「愛莉、ママってね、子供を産んだ瞬間になるモノじゃないの?ママは赤ちゃんと一緒に産まれて育つモノなんだよ。赤ちゃんは泣いて訴えるでしょ?だからママも泣かなきゃダメ。泣いて、助けてってS O Sを出さなきゃダメなんだよ」
「お姉ちゃん……」
私は涙で曇る視界を上げた。
「助けてって言ってもいいの?」
「いいんだよ。そうしなきゃダメなんだよ」
「お姉ちゃん」
「ん?なに?」
「お姉ちゃん!」
「だから、なに?」
「助け……て……」
姉はこれ以上ないってぐらいの優しい表情で微笑む。そして片手を上げて敬礼ポーズをとった。
「承知いたしました!」
その時、隣の和室から凛の泣き声が響く。
「そろそろミルクかな?」
ゆったりと立ち上がり和室に歩く姉。私は姉の後ろ姿を見た後、床に視線をはべらせた。
凛に会うのが怖い。だって自分は彼女を殺そうとしたのだから。
「ミルクを与えてオムツを替えて、背中のシワを直しても泣き止まないよ」姉は身体を反りながら泣き叫ぶ凛を抱っこしてリビングに姿を見せた。
凛は烈火の如く泣いている。それは何かを訴える泣きだった。
「お姉ちゃん、凛を私に抱かせて」
自然と両手が伸びる。姉の手から私の両手に乗せられる重量感。小さな小さな我が子。私が抱くと凛は何事もなかったように静かになる。
「あー、凛はママが恋しかったんだね」
瞳を細めて微笑む姉。
「凛には誰がママが分かるんだよ」
胸が震える。熱い水滴が下睫毛に溜まり頬に落下した。
「うるさいなんて思ってごめん。悪魔なんて憎んでごめん」
凛は訴えて私を求めているだけなのだ。私は凛が怖い。怖いのは、凛を失ったら簡単に自分が壊れてしまうと確信できるから。
「愛してる。……どうしようもなく愛してるんだよ」
私は濡れた頬を凛の桃色の頬っぺたに重ねた。ミルク臭くてマシュマロのように柔らかい。……温かい。
後から聞いた話だが、真夜中に夫が姉に S O Sの連絡をしたそうだ。姉は朝一番の飛行機に飛び乗って私の元に駆けつけてくれた。
翌日、凛を姉に預け、会社を休んでくれた夫と私は久々にデートした。
凛を出産してから初めて施した化粧と、お気に入りの小花を散りばめた白いワンピース。ワンピースにしたのは出産前に履いていたスカートのウェストがキツくなったから。つまり腹回りに贅肉が仲間入りしたってこと。
そんな私を夫は「可愛い」と褒めてくれる。例え本心じゃなくても嬉しい。
映画を観てショッピングを楽しんだ。でも、なぜか回った店屋は子供服と玩具屋。ベビー服と玩具を購入し、そそくさと家路に急ぐ私達。
「なあ、愛莉」
夫がふいに足を止める。
「ん?」
私は半歩進んで振り向いた。
「これからのことだけどさ、お前、主婦は休業しろよ」
「主婦を休業?専業主婦は仕事じゃないから休業なんて……」
「は?専業主婦は誰より大変な仕事だろうが!バカか、お前」
専業主婦が仕事……。そんなこと思ったことなかった。私は睫毛を瞬いて夫を見つめる。
「愛莉、分かってないようだから言うけどさ」
夫は手提げ袋を路上に置いて私の両手を包んだ。
「俺が毎日、仕事を頑張れるのは愛莉と凛がいるからなんだよ。つまりだ、俺は、お前と凛が笑ってくれてればいい。それだけでいいの、分かるか?」
あっ、ダメだ。涙が出そう。
「主婦って職業が負担なら、俺はお前に主婦をやめて欲しい。それからもう一つ、悩みがあるならちゃんと俺に伝えて欲しい。あー、後、我慢はなるべく控えてくれ。頼むから、もっとワガママな妻になってくれよ」
もう、限界。ボヤけて夫の顔が見えないよ。
最後に夫は「……を消せ」と言った。
私は夫の背中に両手を回し子供みたいに泣きじゃくった。
夫の胸は温かい。心は体温計で測れないほど熱い。
ならば甘えよう。その言葉に甘えてみよう。泣いた後、私は夫にこう言った。
「暫く休日のゴルフは断って欲しい。休日は、私と凛の側にいて」
すると夫がちゃかすように耳元で囁いた。
「了解です。奥様」
専業主婦はやめない。育児もやめない。私は明日からまた頑張り続けるだろう。だって二人を愛することをやめられないのだから……。こればかりはしょうがないのだ。
けれど、頑張る上で私には消したモノが一つだけある。何をするにもずっと頭に乗って自分を苦しめていた存在。
私は夫に抱きしめられながら茜に染まる夕雲を見上げた。
そして邪魔な存在を空高く放り投げる。
邪魔な存在の名前は【完璧】
私は完璧を消した。
◆
凛、一歳と二ヶ月。彼女は相変わらず泣き虫。歩いて尻もちをつき悔しくて泣く。
最初に覚えた言葉は【マンマ】
ご飯のことだろうか?それとも、まさか……ママ?どっちなの?
これが今の私の悩み事だ。
見回せば玩具で散らかった室内。夕食は時短が優先。気にしない気にしない。
これが私、夫の妻で凛のママなんだから。
表札は、市原秀樹
愛莉
凛
来年には、もう一人増える予定だ。
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