第1話「ロンドン」(その2)

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第1話「ロンドン」(その2)

「なんでそんなに怒るんですか、まるで……」  と、鈴木は唇を尖らし、言葉を濁した。  歳は藤原が二つ上で、鈴木も同じ外大で同じ英研に所属した。藤原は住吉の寺の長男で、鈴木は御影の葬儀屋の息子。家の稼業同様、二人は生まれ持っての腐れ縁であった。  子供の頃、遊びといえば当時流行の任侠もの。近所のガキを集めて藤原が次郎長で鈴木は石松、大人になってもそんな間柄だった。 「うちの寺の葬儀で大きくなったくせに」  と、藤原は次郎長らしからぬ餓鬼大将で、鈴木は萎縮するかと思えば決まって口答え。 「坊主が嫌いで、商社へ入ったくせに……」  と、負けてはいない。  そんな二人が藤原の金回りの良さもあって、学生時代にどんな悪さをしたか、知っているのは二人だけである。 「どやねん、それでロンドンの景気は……」  どちらかといえば坊ちゃん育ちの藤原は、取ってつけたように自分から折れていった。 「いや、なんべん辞めたろと思ったことか」 「なんでや、天下の一等書記官やろ」 「一等書記官いうても、要はツワーコンダクターですわ。代議士が来る度に、やれ買物や食事、最後は女ですわ。まるで女衒ですわ」 「話には聞いてたけど、そんなに酷いのか」 「いや、この前も土産を買いたいと言うから、ハロッズへ連れて行ったら、棚にあったブランド物のバックを全部買う言うて、たまりませんわ、あんなあほを相手にすると……」 「君――、昔から愚痴が多い警官やったけど、ヨーロッパへ来ても変わらんな」 「よう言いますわ、役人嫌いは先輩譲りでしょ。昔、新居雅絵に選挙権がないんや言うて、えらい剣幕で怒ったん忘れましたか」  鈴木の軽口に、またむっとした藤原は、 「あほくさ、古い話や。よう昔のことをよう覚えてるなあ。知ってるか、人間昔のこと言うようになると、お迎えが近いんやで」  そう言葉を返す藤原はどこか面映い。  話をしたかったのは、藤原だったかも知れない。 「そういえば五十過ぎたらいつ死んでもええように覚悟しろって、和尚が言うてはりました。私が死んだら先輩お経上げて下さいよ」 「あほくさ。君に上げるお経なんか、どこ探してもあらへんわ」 「なに言うてんですか、坊主が嫌いで商社へ入った言うても、れっきとした円正寺の跡取りでしょ。大事な子分にお経ぐらい……」 「しょうもないこと言うてんと、今晩どこで飯食うねん、予約入れたんか」 「はいはい、分かりました」 「事務所は明日や。このままホテルへ行こ」 「それは私が言うたんでしょ。昔と変わりませんなあ、気が短なった分始末が悪い……」  と、鈴木は言葉の語尾を濁しながら、運転席との仕切の小窓に顔を近づけた。 「Excuse me……」と、流暢な英語で行き先の変更を運転手に告げるのであった。 「それはそうと、9月22日のプラザ合意、日本もえらいことですね」 「まあ確かに200円は突破したけど、慌てることはないやろ」 「いや、お言葉を返すようですが、アメリカは本気やて、こっちの連中は言うてますよ」 「本気とは?」 「早晩、円は1ドル100円まで行くと……」 「そんなことになったら、アメリカ全土が日本のもんになるで。それはないやろ」  確かに日本企業が、ニューヨークの有名なビルを軒並み買い漁る時代であった。 「新日本さんは、輸出がメインですよねえ」 「メインもメイン、百パーセント輸出や」 「気をつけて下さいよ、来年は大変でっせ」 「そうか……」  と言う藤原も、それは初耳だった。  そこは警察官とはいえやはり外交官、金融のメッカにいれば、極東の中小企業など、甘く見えて仕方ないのかも知れない。  藤原は身の引締まる思いで視線を窓の外へ戻した。だがそこにはもうミレーの絵の面影はなく、寒々とした秋の装いが広がっていた。 (つづく)
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