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正体
何か食べるものを買ってくる、と財布と携帯を持ちジャレットが部屋を出たのが30分前。近くにはいくつもの食料品店が軒を連ねているので、車のキーは当然持っていかなかった。買い物に出て30分というのはまだ妥当とも言える時間だ。だが5分前に血相を変えてやってきたマットに不穏なものを感じたザック・ウォルツには、そこからの5分は耐えきれないほど長く苦痛な時間に変わった。
テッドのもとで何か非常事態が発生したらしきこと、すぐに安全な場所に逃げろとの指示を受けたことを話すと、「恐らくウインストンを捜しにいった何者かとアニストン氏が鉢合わせたのだ。」とザックが苦々しい顔で言った。
テッドの身を案じながら、マットの胸はザックへの謝意でいっぱいだった。途方もない自責の念が肩にのしかかる。こんな形で彼らを巻き込むというのは、起こりうるすべてのケースでもっとも最悪のパターンであるからだ。
単独では危険だから念のために、と言われたものの、やはりあのときロビーとの面会に無関係のジャレットを同席させたのは、大いなる過ちであった。そして彼らを今の今までこの街に滞留させたことも。すべては自分自身の認識の甘さのせいである。マットは後悔と自分への怒りで気が狂いそうになった。
「私が残って護衛などつけられていても仕方ない。全員で手分けして彼を見つけ出しましょう。」
ザックはこんなときでも狼狽などは決して見せなかった。険しい眼差しではあるものの、毅然とした様子で上着を羽織り、急きょ派遣されてきたハンターも交えた男7人でジャレットの捜索にあたることとなった。
ハンター達は一足先に周辺の捜索と聞き込みにあたっている。しかしザックが部屋を出ようとした瞬間、ジャッキーが「待った」と声をかけた。
「ミスター・ウォルツ。あなたのことは存じてます。世界的に有名な"ウソの研究家"だ。」
「……そうですが、いまサインに応じているヒマはない。ジャレットが見つかってからいくらでもしてさしあげます。」
「そりゃあ有難い。俺の恋人があなたの本を読んでいろいろと良からぬ研究をしています。なので浮気がバレない表情の作り方も、あとでついでに教えてください。」
「よかろう。ところでミスター・ブラウン……」
「博士、あなたには俺とマットと共にこの部屋にいてもらいますよ。」
「何ですって?」
「この街中に張り巡らされた監視カメラの1時間以内の映像を、マットのパソコンに送ってもらっています。」
「な……いつの間にそんなことを?」
マットが驚いてノートパソコンを開くと、確かに膨大な量のファイルが次から次へと送りつけられていた。ザックがすかさず覗き込む。
「平和ボケしてるせいか台数が少なすぎるがな。グレートランドから車を盗られたときだって、カメラの設置数が少なすぎて結局犯人は迷宮入りだそうじゃないですか。」
「ああそうです。黒人らしき男としかわからなかった。私の車を盗んだ奴は、今ごろどこで何をしているのやら……。」
「博士、今日のジャレットさんの服装は?」
「黒いパーカーにジーンズです。恐らくこの映像の中に100人は同じ服装の人間がいるだろうな。」
「100は言い過ぎだ。せいぜいその半分くらいでしょう。」
ジャッキーが紫煙を吐きながらわざとらしく神妙な顔をした。マットが操作して、すべてのカメラの30分前の映像が一覧となって画面いっぱいに広がる。黒いパーカー黒いパーカー……と指で指しながら探していく。
「いた……」
3人が息を飲む。ニーロ・ホテルから10メートル直進した交差点の横断歩道。買い物に出たばかりのジャレットが映り込んでいた。信号を渡り、雑踏の中、建ち並ぶ商店の店先をゆっくり眺めながら歩いている。ときおり映らなくなる部分があるが、そこから10分は何の異変も起こらなかった。しかし彼はその10分内ですでに買い物を済ませたらしく、早くも紙袋を片手にホテルへ向かって歩き出していた。すなわち何も起こらなければ、部屋を出てから15分ほどでこの部屋に戻っているはずである。3人はそこから慎重に映像を追った。
「おや……」
ホテルの手前の交差点に差し掛かる直前、ジャレットはある人物に話しかけられ立ち止まった。相手に合わせて背を屈め、会話を交わしている様子が映されている。
「このお嬢ちゃんは何だ?」
ジャッキーがつぶやく。マットがその映像を停止させると、ジャレットを呼び止めた「少女」の顔を拡大した。画質が荒いが、彼にはこれが誰だかすぐにわかった。
「ジェニー……」
マットが険しい顔で映像を再生する。
「ジェニー?知り合いか?」
「……孤児院の子だ。」
「何だって?」
ジャッキーとザックが怪訝な顔で同時にマットを見やった。
「間違いない、僕とテッドは孤児院でこの子に話しかけられたんだ。」
「なぜそのジェニーがここに?」
「……罠に使われているな。」
ザックの目は不鮮明な少女の表情に注がれていた。
「彼女は自分自身の意思で言葉を発していない。誰かに言われたことを伝えようとしている。」
「……ロビーか。」
「ジャレットはこのお嬢ちゃんのことを?」
「彼は知らない。孤児院の子供たちには会っていない。」
「迷子か何かを装わせているのだろう。……クソッ。」
ジェニーに手を引かれるようにして、ジャレットはカメラの映らぬ場所へと歩き去っていった。映像はすでにリアルタイムの時刻に重なり、それ以上の情報は何も得られなかった。
「至急孤児院へ向かってくれ。僕もいまから行く。」
映像が消えるなりマットがすぐにハンターに連絡を入れ、立ち上がった。
「待て、お前には"避難命令"が出ているのだろう。危険だからむやみに外に出るな。俺が行く。」
「僕がここにいたって同じことだ。それに君、この映像をいつの間にか僕のパソコンに送らせたってことは、君の仲間みたいなのを引き連れてるな?よく考えりゃ君みたいにいつ殺されてもおかしくない奴が、単独で外国に来るわけがない。だったら君と一緒にいた方がずっと安全じゃないか。」
「……なるほど、マット様の仰るとおりだ。」
ザックが訝しげな顔のまま、ジャッキー・ブラウンという素性のよくわからぬ男をじっと見つめる。その視線を受け止め、ジャッキーは「俺にはその表情の意味が読み取れる。俺が何者なのか怪しんでいるのでしょう。」と不敵に笑って見せた。
「博士、彼も僕と同じ、ただのろくでなしの元囚人です。あなたのドラマの参考にもなりゃしない、取るに足らない男です。さ、行きましょう。」
マットに促され、ザックは「そりゃ残念。」と肩をすくめ、ジャッキーは「ずいぶんな言い様だがそのとおりだ。」と言って、すっかり短くなったタバコを灰皿に押し付けた。
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