美しき世界

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「久しぶりだな。」 「お久しぶりです。……まさかお会いできるなんて……」 2人は握手を交わした。マットは困惑してどんな顔をしていいのかわからず、ぎこちなくあいまいな笑顔を浮かべた。だがローレンスは相変わらず余裕に満ちた微笑を浮かべている。 「は押収物の返還手続き中だ。まもなく出てくる。」 「そうですか。……あー、看守長は……その、お元気にされてましたか。」 「ああ、僕は何も変わってない。君こそどうだ。仕事は順調か?」 一連のことは、ザックもジャレットも一切の他言をしていないため、当然ローレンスの耳にも入っていない。むしろいちばん耳に入れたくない人物こそ、彼である。 だからマットは、いつかバレたらおっかないなと思いつつも、「順調どころか、忙しくて寝る暇がありません。」と答えるにとどめておいた。相手がザックなら、きっとこのひそやかな狼狽も見抜かれていたに違いない。 「そのようだな。顔色があまり良くない。」 「そりゃあ突然看守長にお会いしたんですから……」 「なるほど。」 「冗談ですよ。……ここには2度と戻りたくないけど、あなたに会うのはそう悪くない。」 読めない顔で、琥珀色の瞳がマットを見つめる。彼のことは嫌いではないが、この眼だけはやはり苦手だ。ヘビに睨まれたカエルの気分になる。 「見せたいものがある。」 「え?」 ローレンスの思わぬ言葉で、カエルになりかけていたマットは拍子抜けした。そして彼に言われるままあとをついていくと、なぜか駐車場の中央にある見張り台に登るように言われた。ハテナマークを浮かべたまま、カンカンと軋む階段を登っていく。ローレンスはその下で腕を組みながらマットを見上げていた。 「中庭の方を見てみろ。」 足元からの指示で、見張り台の西側を向く。 その瞬間、マットは思わず息を飲んだ。 「これは………」 フェンスの向こうに広がるのは、中庭を囲むように植えられた色とりどりの花々であった。 「君が出所してからも、別の人間に花壇係を任せているんだ。せっかくここまで綺麗に手入れをしてくれたのだから、絶やすわけにはいかない。」 灰色がかっていた景色が、その瞬間ようやく明るさを取り戻したように感じた。 「綺麗……」 景色を見て感動することはあっても、こんな風に涙がにじむことなど無かった。しかもそれは、うんざりしていたはずの中庭の光景だ。なのにこれほど美しいと感じたのは初めてであった。 フラッシュバックするかのように、花々の中にあの日々が浮かんだ。20代という、人生の中でもっとも楽しむべき貴重な期間。罪を犯した自分の青春の大半は、この狭く暗い閉ざされた空間にあった。だがその悲運を恨むことはなかった。罪を受け入れていたし、いつもテッドが支えてくれたし、「仲間」と呼べるものがようやく出来たのもこの箱の中であった。毎日たしかに窮屈だったが、決してひとりぼっちではなかったのだ。 咲き乱れてはやがて枯れ落ちるこの花々のように、人生も鮮やかな日々とくすんだ日々が交互に訪れる。人より長くくすぶっていたこの人生は、今は多忙に嘆きつつも、ようやくこの花々のような美しい時期を得られたのだろう。やがてまた枯れる時はやってくるのだろうが、かつての苦しみを上回るものは、もう自分には訪れないように思う。少年時代に味わったこと以上の悲運など、想像もつかないのだから、決して起こりえない。新たな人生が始まった日は、同時に地獄の淵から脱した日でもあるのだ。 綺麗という以外、もう言葉にはならない。胸に迫るものを言葉にすることはできない。涙がどんどん溢れて幾筋も頬を伝うが、なぜ泣いているのかも説明できない。ただ、この気持ちを決して忘れてはいけないと強く思った。 テッドの言うとおりだ。たしかに、1日でも長く共に生きられたらいい。彼が今より若くある必要はない。しわくちゃになるまでふたりで生きて、遺産目当てではない子供と孫に囲まれながら、できれば穏やかに死にたい。 階段をおりるなり、マットはローレンスのことを抱きしめた。彼は戸惑うかと思ったが、一貫して冷静な男だ。片手で背中をポンポンとはたかれ、その抱擁を受け入れてくれた。2人はとっくに、囚人と看守長の間柄ではないのだ。 晴れた土曜日の、午後1時。ようやく仮釈放を得たひとりの男が、副看守長のニコルソンに連れられ10年ぶりに門の外に出た。 「てめえ、すっかりシャバに馴染んだ顔しやがって。」 「外はめまぐるしいぞ。明日には嫌でも馴染むさ。」 「……、会いたかった。」 「僕もさ、ブラッド。」 かつてのA棟の仲間であり、共に世話係を任されていたブラッドリー・サンドラーと、固く手を握り合ってから強く抱き合った。彼の家族ではなく「マシュー」が迎えにきたのは、彼が獄中で妻に離婚を言い渡されたためだ。覚悟はしてしていたそうだが、子供と自由に会えなくなることが彼の今後に影響を及ぼさぬか、それがこれからの懸念でもある。 しかしブラッドリーの顔は、一点の曇りもなく晴れやかだった。ザックの面談もきちんとパスしている 「では僕のことをマットと呼んでくれ。みんなそう呼ぶし、それが気に入ってるんだ。"ダコタ"はこれからも絶対に禁止だぞ。」 かつて同じ棟には「先住のマシュー」がすでに2人もおり、いずれも「マット」と呼ばれていたため、3人目のマシューである彼はそのままの呼び方で通していた。ミドルネームだが、いつも女だと勘違いされる「ダコタ」とは絶対に呼ばれたくなかったのだ。 「そうかよ。じゃあ俺もトム・クルーズにでも改名するかな。」 「おいサンドラー、バカなことを言ってないでさっさと車に乗れ。」 ニコルソンは相変わらず仏頂面で、ローレンスの一歩後ろから、2人の再会に水をさすように吐き捨てた。そしてマシューに言った。 「キッドマン、彼のことは君に任せたぞ。自立できるまで手を貸してやってくれ。」 「はい。……ニコルソン副看守長も、お達者で。」 ニコルソンは腕を組んだままかすかにうなずいたあと、一足先にその場から立ち去った。 「最後までしびれる男だな。」 ブラッドリーは口笛を吹き、彼の背中を見届けてからローレンスに向き直ると、「今まで世話になった。」と手を差し出した。ローレンスは「体に気をつけてな。」とその手を握り返し、「気をつけて帰れよ。」と言ってニコルソンに続きその場を去っていった。
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