美しき世界

3/3
前へ
/52ページ
次へ
マットは、彼の振り返りざまの琥珀色の瞳を見逃さなかった。氷のような冷徹さと、底抜けの優しさを持ち合わせている。口と同様、瞳も多くを語らない。そこに佇むだけで人を黙らせる威厳がある。彼の姿が扉の向こうに消えるまで、マットはそこに立ち尽くした。 囚人としてではなく、いつかまたこの看守長に会える日はやって来るだろうか。施設では嫌われ者だが、身の回りの人間はいずれも彼のことを慕い、好いている。自分も例外ではない。年も変わらぬ彼のことを尊敬し、彼の下で罪を償ってきたのだ。 「長かったな。人には短いと言われるかもしれんが、長かった。」 ブラッドリーがぽつりと言った。 「ここでの10年より、これから先の何十年という人生の方があっという間だろう。風のような速さで去っていくぞ。」 マットが助手席のドアを開けると、ブラッドリーが大きな身体を丸めるようにして乗り込んだ。エンジンをかけ、飲みたいと言っていた冷えたコーラのペットボトルを渡してやる。ブラッドリーはそれを手にした瞬間、自分はようやく塀の外に出たのだと、冷たさを介して実感した。フタを開けると喉を鳴らして飲みくだし、満足げに声をあげてその旨さを堪能した。 「ここを出てから、どうだった。」 駐車場を出て、刑務所の街を脱け出した。空はようやくもとの青さを取り戻す。 「ただひたすらに忙しいだけさ。……話したいことはたくさんあるようで、実はそれほどない。僕だってまだ2年と少しだ。これからいろいろ、君とも、他のみんなとも、外の世界での思い出を作らないとな。」 「俺たちの仲良しクラブは娑婆でも継続中か。」 「誰かがまたさえしなけりゃ……。」 「平気さ。きっと俺で最後だ。それより帰ってからやることが多すぎて面倒だな。」 「子供には?」 「妻からの許可が下りれば会える。ああ、もう妻だ。娘たちと電話はしてたし、3ヶ月にいっぺんは面会に来てくれてたが、多感な年頃だからな。仲直りできるかは分からん。」 「できるさ。愛を示し続けていればできる。甘やかして小遣いを与えすぎないよう気をつけてりゃいい。」 「問題はそこだ。顔を見てねだられたら高いバッグくらいは買っちまいそうだ。」 「僕も出てすぐに、祝いと称して欲しかった限定のスニーカーを恋人に買ってもらった。」 「お前も甘やかされてるんだな。だが買うのは俺のほうだぜ。出所して祝われるなんてお前はいい身分だ。」 車はかつてビリーが任されていたレストランのある方面へと向かっている。 「それならささやかながら僕が祝ってやろう。こっからちょっと遠いが、美味い肉を出す店がある。」 「お、何だ、いいのか?別に祝えと言ったわけじゃないぜ。だが好意は素直に受け取ろう。」 美味い肉、という言葉で思わず顔をほころばせる。夜まで貸切にした店内には、かつての「仲良しクラブ」の面々が待ち構えている。 彼らと再会したブラッドリーがどんな顔をするのか考えるだけで笑みがこみ上げるが、なんとか噛み殺した。 いつも順調とは言えないし、大きな喜びもめったにはやってこないが、忙しく仕事をしながらも平穏を保ちつつ、たまに浮いたり沈んだりする「ふつうの暮らし」に、最近ようやく慣れてきた。 片付けることは山とある。だが山は消えないのだ。ひとつ片付ければまた別の山ができている。人生とはそういうものなのだということも、最近ようやく分かってきた。 幸せを欲しがるのではなく、手にしたものを離さぬように生きていく。あの日と同じ帰り道。ハンドルを握るテッドの横顔を見て、確かにそう誓ったのだ。 自分は少しは、上手くやれているだろうか。 帰ったらまたテッドに聞いてみようと思った。 少しだけ遠回りになるが、道を逸れて海側に寄った。遠くからでいいから、なんとなく海が見たくなったのだ。しばらく行くと、はるかかなたにきらきらと光る水平線があらわれる。マットが初めて目にした湾よりもずっと広大だ。助手席のブラッドリーも、黙ってそれを見つめていた。 片すべき山があってもなくても、今年の夏こそ、絶対にバカンスに出かけよう。人生は一度きりだ。そして娑婆の人生は、まばたきをするたびに削られていく。前を向いてばかりではいられないけれど、後ろを振り返ってばかりでは、ふと向き直ったときにいつの間にか終着点にたどり着いてしまうだろう。 空は晴れ渡り、どこまで走っても雲があらわれない。ブラッドリーと同じ海を見て、マットは心の中でもう1度、あの日と同じことをひそやかに誓った。
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加