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004 初夜
夕餉には様々、趣向を凝らした料理が並べられたが、第八王子が手を付けたのは、スープくらいなもので、他には小鳥が啄む程度にパンを千切って食べただけ。やはり一言も発しなかったため、アーセールは進んで道化になった。
一人で会話を繰り広げ、婚礼の日の晩餐が寂しくないようにと配慮したつもりだったが、おかげでぐったりと疲れ果てた。
一応、閨という形でルサルカが体裁を整えたという、第八王子との寝所にだけは挨拶にうかがう予定だったが、他はとっとと眠りたいという心境だ。湯浴みだけして、第八王子の待つ閨に赴いた頃、夜もとっぷりと更けていた。
邸の中は、昼のざわめいた様子はすっかり消えて、夜の鳥が、ほーほーと低く泣く声や、風が梢を揺らす、さらさらとした音がかすかに聞こえる。
(形ばかり、形ばかり……)
アーセールは、今まで、閨ごとを全くしてこなかったというわけではない。戦場で、契りを結んだ男性も居たし、何度か女性を抱いたこともある。人なみに性欲はあったはずだが、あの美しい第八王子に、それを向けたことはない。
(まあ、美しいだけなら、美しいが……一言も話して下さらなければ、こちらも、どうしようもないよな……)
重々しい溜息を扉の外で吐いてから、勤めてにこやかに、アーセールは閨へ入った。閨は、甘い薔薇の香りに満たされていた。あちこちに、純白の薔薇が飾られている。寝台には天蓋がついていて、羅の帳が垂れ込めている。その、寝台の端に、第八王子は腰を下ろして、じっと床を見つめていた。
(様子が、おかしいような……)
湯浴みを終えたしどけない夜着のままだ。それは、アーセールも似たような格好だから、お互い様なのだが、真っ青な顔をして、震えているようだった。
「殿下?」
声を掛けると、彼は、びくっと細い肩をふるわせて、アーセールを見上げる。ラベンダー色の瞳に、はっきりと映っていたのは、怯えだった。
「あの……、殿下、ご気分がお悪いのでしょうか……?」
ならば、医師を呼んだ方が良い。どうすべきか、よく解らない。閨ごとが初めてで緊張している―――ならば、おびえの他に、もう少し違う感情が交じるのを、アーセールは、経験上知っている。期待や、恥じらいという感情だ。けれど、第八王子の瞳に映っているのは、純粋な、恐怖、だった。
(この眼差しは知っている)
戦場で、何度も見た。今から、命を取ろうとするとき。相手が、見せる表情だ。
「……殿下、その、お気を確かに……」
すこし、アーセールは後ずさった。距離を取れば、恐怖心は和らぐかも知れないと思ったからだ。すくなくとも、こちらに、危害を加えるつもりはない、と示さなければならなかった。
第八王子は、呆然とアーセールを見やっていたが、やがて、意を決したようにたち上がって、夜着を脱ぎ捨てる。
見事なまでの裸体が、アーセールの目の前にさらけ出された―――が、その、白い身体を見て、アーセールは、息を飲んだ。身体に、深々とした傷が、幾条も走っている。ミミズ腫れになったそれは―――鋭い刃で切り裂かれた痕跡だ。アーセールにもあるから、解る。
(だが、殿下は、一度も戦場へ立ったことがないはず……)
どういうことだ、とアーセールが混乱する。
第八王子の、ラベンダー色の瞳から、涙がこぼれ落ちた。唇が、震えている。
「……殿下、どうぞ、お召し物を……」
「……醜い、からでしょうか?」
この縁談が成立して初めて、口を開いてくれた。声は、固く、震えていて、詰問に近い形だった。
「醜い……?」
「この、傷跡を……」
「俺にも、そのような痕跡はありますので……」
そうすべきか迷ったが、アーセールも夜着を脱ぐ。身体中に、傷を負っているのは、第八王子にも見えるだろう。今、部屋の灯りは落とされていない。
「あなたのそれは、名誉の傷だ。けれど、私の、これは……きたならしいものだ……あなたは、それをしって、私を……」
感極まったようで、泣き出してしまったが、近付いて、慰めて良いのか、迷った。触れて、いいのか。悪いのか、全く見当が付かない。傷の理由も、涙の理由も、なにも解らず、狼狽えていると、第八王子が小走りに近付いてきた。
おもむろに丸裸のアーセールに拝跪して、アーセールの中心に手を伸ばす。
「えっ! ……ちょっ……お待ちくださ……」
一瞬、白魚のような手で欲望を直接捕まれて、酷く興奮したアーセールだったが、慌てて身を引く。床に落ちた夜着を拾ってから、第八王子に掛けてやり、もう一度、離れた。
「私は、どのようにあなたにお仕えすれば良いのですか?」
震えながら、第八王子が言う。
「お仕え……? いったい、何のことですか?」
「……あなたは、私が、こういうことを……得意だと知って、望まれたのでしょう? 実際、汚れた私を見て、触れるのも嫌だというのなら、私は、どうやって、あなたにお仕えすれば良いのです」
第八王子の言葉の意味を、アーセールは正確には理解出来なかった―――が、おぼろげに推測してみた。
彼の言う『こういうこと』とは閨ごとのことだ。そして、おそらく、彼は、それを……誰かに強要されていた。望まない形で、受け入れて居たのだろう。そうでなければ『汚れた』という言葉は使わないだろうし、そして、彼の身体に刻みつけられた傷跡も、その過程で付けられた物なのだろう。
(誰が、こんな酷いことを……)
はらわたが煮えくり返りそうなほどの、強烈な怒りを覚えたが、同時に、この美しい人に傷を付けたがった人間の愉悦も、想像することが出来て、アーセールは嫌悪感を自分に抱いた。
(この方に、性的な奉仕をさせた輩がいると言うことだ……)
そして、第八王子は、今度は、アーセールがその役目を独占したと思っているのだろう。それで、一言も口を利かなかった。おそらく、それは、痛々しいほど、自身の心を守るための行動だ。胸が、軋むように痛くなった。
「……殿下」
第八王子は、静かに顔を上げた。
「私は、殿下を閨ごとの相手にするために、婚姻を結んだわけではありません」
「えっ?」
第八王子は、目を見開いて驚いていた。
「殿下のご事情も、なにも、存じ上げませんでした。ただ……かつて、薔薇園でお会いしたのです。その折りに、殿下に、勇気づけられました。謁見の間では、覚えていて下さっていたと……」
「すみません。覚えていません。『薔薇園で』というのは……私と、そういうことをしたい人が、誘うための、言葉だったので。わざわざ、あの謁見の場所で、あなたに聞いたのです。あなたも、てっきり、そうだと……ただ、武器商の所へ婿に入れば、あそこの家でもてあそばれた後、死んだと偽って、売られるのは知っていました。だから……あなたの、求婚に乗っただけで……」
目眩がした。
一人や二人でない男たちに、身体をもてあそばれ。今度は、婚姻という形で売られたあげくに、そこでも悲惨な末路を辿るのが解っていたとは。
「……ですから、どういう形でも、お仕えします……。こういうことは、得意です。将軍が、お疲れのようでしたら、私が全部することも出来ます」
縋り付くような眼差しだった。
「殿下、お止め下さい。私は、本当に、閨ごとのために、殿下をお迎えしたわけではないのですから」
「……私が、汚いから……ですか?」
何をどう言えば、伝わるのだろうか。誰かに、完全に支配されているような状態の、この第八王子に、なにをどうすれば、信じて貰えるだろうと、アーセールは天を仰ぐ。
「将軍……?」
「ああ、いや、……済みません。とりあえず、疲れました。……とりあえず、なにもしませんけど、一緒に寝ましょう。とりあえず」
しばらく、一緒に寝ていれば、心を開いて貰えるだろうか? そんな単純な思いつきだったが、一瞬、怯えだか、期待だか、微妙な表情が第八王子の美しい顔をよぎっていったのを、アーセールは見逃さなかった。
「なにも、なさらないのですか?」
「ええ。ただ、側に居て下さい。そうしてください。一緒に休むだけです……よろしいですか?」
第八王子は、よく解らないというような顔をして「はあ」と、小さな声で呟いた。
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