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「何処に行こうか」
「何処って?」
僕がそう聞き返すと、彼女はポケットから間抜けなキャンディを取り出して、僕達はそれをひとつずつ分け合った。そのキャンディは少し溶けていて、生温かった。安っぽい葡萄の匂いがして、僕の口の中はそんな味でいっぱいになった。彼女の温度は、僕の舌の上でいつの間にか溶けてなくなっていた。
「何処にだって行けるわ」
彼女は言った。
「何処にも行けないさ」
僕は言った。
「行ける」
彼女は繰り返した。僕の前で足を滑らせながら。すぐに手を差し伸べると、彼女はそれを取って、また歩き始めた。とんでもなく不器用なダンスみたいだった。雪の方がよっぽど上手に舞うっていうのに。
「何処に行こうか」
彼女はそう、僕に聞いた。
「できるだけ現実味のないところが良い」
「例えば?」
「線路があると良いな。何処にも辿り着かない線路さ。で、僕達はずっと、そこを進んでいくんだよ」
「ふうん」
彼女は興味なさそうに答える。でも、手は繋いだままだ。
「線路の途中には?」
「途中?」
「そう、何か楽しいことが必要でしょ?」
「楽しさがあるってことは、辛さがあるってことだ。だから、要らないよ」
「現実味のない場所の話でしょ?」
彼女は振り向いて、僕に笑いかけた。この世界にまだ僅かに残っている灯りの数々が雪の白さの中で混ざって、綺麗になって、そして彼女を照らしていた。なあ、きっと天国ってのはこういう場所のことを言うんだろうな。
「私は」
彼女はつづけた。
「キャンディのお店があったら嬉しいな。そこで売ってるのは、どれも安っちいキャンディで、あなたはきっと文句を言うのね。でも私が買ったらきっと欲しがる。でしょ?」
「そうかもね」
「だから私はキャンディが好き。この意味って、分かる?」
「分からないよ」
彼女はなんだか得意げだった。僕達はいつの間にか、遠くに見えた信号機にたどり着いた。赤い光が、点滅していた。その上には、たくさんの、雪の、そう、それは死骸なのだ。決してもう蘇って舞うことのない死んだ雪達だ。そんな雪が赤い光を反射して、なんといったら良いんだろうか、ああ、そう、強調していたんだ、つまり。説得力があるのだ。
「どうする?」
「どうって……」
「この先に、線路があるのよ。何処にも行かない、行けない、そんな線路」
おいおい、それって僕の言った線路のことだろう?
「それで……」
「そうか、キャンディの店」
はは、と彼女は笑った。僕のほんの少しばかりの仕返しは、彼女に取ってみれば雪みたいなものだ。つまり、僕はほんの少しだって彼女を傷つけることなんて出来やしないってわけだな。
「うん。私がいなくてもあなたは行けるわよ、そこに」
「そんな」
そんな寂しいこと、なんで言うんだよ。
「行ける」
彼女は繰り返した。もう彼女は足を止めていて、あのご機嫌なダンスは終わっていた。幕は下りたんだ。そう、雪はもう止んだって意味だよ。わかるだろう?
「じゃあ、これから僕はそこに行かなくちゃいけないのか?」
「行かなくても良いのよ。あなたの自由。でも、本当にそうしたいの?」
「……」
こんな時ばっかり、彼女は口が達者で、いつだって僕は何も言い返せない。
「なあ、頼むよ。一緒に行こう」
僕がそう言うと、彼女は僕にキスをした。葡萄の匂いがした。彼女の生温い温度があった。
「私が、私が溶けちゃう前に。早く。平気よ。また会えるから、ね」
彼女の温度は、いったいどんなわけか、僕の目から溶けて、零れて、逃げていってしまう。僕はそれを自分の力で止めなくちゃならない。もう、たまんないよな。
「じゃあ、次に会ったら、たんと、キャンディを食べよう。約束だよ、たんとだ」
「じゃあ、たんと文句を聞かせてね、たんとよ」
分かった、分かったよ。もう、本当これってさ、こんな辛いことってないよ全くさ。
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