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いつもよりも弾むベッドの感覚に、寝返りを打った瞬間に目を覚ましてしまった沓沢碧は、暗闇の中、背後から聞こえる声に耳をそばだてた。
「――そう、三か月間、こっちにいる間だけの相手。同じ店のスタッフだけど可愛かったから声掛けたらすぐ釣れた」
背後から聞こえるのは、さっきまで碧に『一目惚れなんだ』『これは運命だよ』と甘言をささやいて碧のバックバージンを奪った男、梶田知温の声だ。
――おれのこと、言ってる?
碧は振り返る勇気もなく、寝たふりをしたまま知温の言葉を待った。
おそらく電話の向こうだろう声がかすかに聞こえた後、知温は、うーん、と返す。
「まあ、男女どっちもいけるけど、やっぱり最後は女の子だろ。本気になんかなれない」
電話の向こうから『最低だな』と言いながらも楽しそうな笑い声が聞こえ、知温も小さく笑っていた。
――ホント、最低。
碧は知温にとって遊び相手だということを知って、碧はぐっと唇を嚙み締めた。
時間は三日前に遡る。
アパレルブランドの直営店で働く碧は、その日もいつものように出勤した。今日は入荷がある日だから忙しいな、なんて思って店に出ると、碧くん、と店長が呼んだ。
「おはよう、碧くん。碧くんって明日もオーラスでシフト入ってたよね?」
メンズもレディースも扱っているこの店の店長は女性だ。碧よりも十歳年上だが、碧のような若いスタッフにも気が使えて、ファッションの知識も豊富な尊敬できる上司だ。
「はい、三日間くらいフルで入ってたと思います」
「じゃあ、明日から来る本社の新人、碧くんに任せてもいいかな?」
顔の前で、お願い、と手を合わせる店長に、碧が訝しげな表情を作る。店長は尊敬できる人ではあるが、何分押しに弱い。そして面倒ごとをさらに押しに弱い碧に振るのが常だ。
「本社の新入社員の研修、また引き受けたんですか?」
碧が勤める『vivid masquerade』は全国展開をしているアパレルブランドで、百貨店やショッピングセンターなどに入っている店舗が多いが、碧がいる店は独立店で、新商品も早く並ぶため、よくモニタリング店に選ばれる。それと同時に、本社の新人の店舗研修にも声が掛かってしまう。
正直、新入りアルバイトとは違い、三カ月で本社に戻ってしまう彼らに業務を教えてもこちらに還元されるものがなくて、碧は無駄な業務だと思っている。
「ほら、こういうところで本社に媚び売っておけば得することもあるかもしれないし」
彼らは未来のエリアマネージャーかもしれないよ、と店長が微笑む。それに碧は大きくため息を吐いてから、分かりました、と頷いた。
「ありがとう、碧くん! えっとね、梶田知温くんっていって、碧くんと同じ二十二歳だから、きっと仲良くなれるよ」
お願いね、と店長に手渡された履歴書を見て、碧の胸はどきりと跳ねた。
「……好みかも」
サイドで分けた前髪の奥には凛々しい眉と切れ長の目。通った鼻筋の下にある薄いけれど大きめの唇はきっと笑うととても印象的だろう。少ししか見えないが、広めの肩も碧の好みだ。
相手がゲイである確率はとても低い。けれど、同じ面倒ごとなら、好みの相手との方がずっと楽しいだろう。だったら彼を観察することを楽しみにするのも悪くない。
碧は一人でそんなことを考え、小さく笑った。
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