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「碧くん、お疲れ様」
数日後の閉店後、在庫のチェックをしていると、そこに知温が顔を出した。碧が笑顔で、お疲れ様、と返す。
「在庫数えてるの? 俺にもさせて」
「いいけど……残業になっちゃうよ?」
来週からセールに入るので、今のうちに在庫を確認して、セール品の入荷も把握しなくてはいけない。バックヤードや店頭の棚も少し空けなくてはいけないので時間の掛かる作業だった。
「でも、そういうのも大事な仕事なんだろ? それに、その分碧くんと一緒に居られる」
知温がそっと体を近づけ、後半は碧の耳元でささやいた。碧がそれに赤くなって頷く。
「じゃあ……在庫表開いて、数の確認してくれる? おれは確認終わったのから棚の整理してくから」
碧は持っていたタブレットを知温に手渡してから、バックヤードの片隅に置かれていた脚立を手に取る。知温はそれに、待って、と声を掛けた。
「役割逆にしよう。俺なら脚立いらないし。碧くんに重いもの持たせるのもね」
知温がこちらにタブレットを戻す。碧はそれを受け取りながら、ありがと、と頷いた。
「碧くんにはいいとこ見せたいだけ」
知温が笑って碧の髪に触れた。長い指が碧の髪を耳に掛ける。それだけで碧の心臓が跳ねる。
中身はひとを弄ぶようなやつだと分かっているのに、その顔も仕草も碧の好みだからこれは仕方ない。
「ねえ、知温くん。よかったら……今度休み重なる日に、デート、しない?」
「いいね。俺、車出すから少し遠出しようよ。どこがいい?」
聞かれて、碧は、遊園地で絶叫マシン制覇か、スポーツアミューズメントで全種制覇か、と考えてから、いやいや、と軽く頭を振った。
「じ、じゃあ、水族館、とか? ランチはパンケーキがいいかな?」
頭の中にあった行きたいところを封印して、先日波音から仕入れたばかりのデートコースを口にする。すると知温は、いいね、と頷いて碧を緩く抱き寄せた。
「水族館行きたいとか、めっちゃ可愛い。パンケーキも美味しいところリサーチしとくよ」
知温は碧の頬に軽くキスをすると、すぐに離れ、早く終わらせようか、と微笑んだ。碧は、どうやらこの解答は正解だったみたい、と軽く安堵の息を吐いてから、知温に頷いた。
迎えた休日は、快晴だった。いわゆるデート日和で、水族館にそれほど興味がなかった碧だが、いざ来てみるとやっぱり癒されるし、楽しい。
「碧、すごく楽しそうで良かった」
水槽の中を泳ぐ小さな熱帯魚にスマホのカメラを向けているとそんな声が掛かり、碧が振り返る。ここに来てから、その存在をあまり意識していなかった知温が優しく笑んでいた。そこで、自分はこの人とデートをしているんだったと思い出す。
「うん……連れてきてくれてありがとう、知温くん」
うっかり一人で楽しんでしまうところだったと反省しながら、知温の傍に寄る。知温は水槽に向かいながらそっと碧の手を取って繋いだ。体の陰になっているから後ろからは手を繋いでるところは見えないだろう。
「ここまでちょっと寂しかったけど、楽しそうな碧は可愛かったから許す」
やっぱり碧が知温の存在を忘れて楽しんでしまっていたことに気づいていたのだろう。碧は知温の言葉に苦く笑った。
「ねえ、知温くん、写真撮らない?」
「うん、いいね。でも他の人に見せちゃダメだよ」
バレちゃうから、と知温が自身のスマホを取り出してカメラモードにする。三カ月だけの遊び相手とのこんな記録なんて、拡散されたら嫌だろう。見せないという約束をしなければこんな写真ひとつ撮れない。それでも、水槽を背に二人で並んだ写真は、本当に恋人同士のようだった。
「誰にも見せない。思い出にするだけ」
見た目だけなら理想の彼氏。初めてを捧げた男でもある知温との思い出がひとつくらいあってもいいだろう。すぐに別れて忘れられるとしても、今この時は恋人なのだ。
知温が、思い出? と怪訝な顔で聞き返したと同時に、館内のアナウンスが流れる。
『十一時より屋外イルカプールにて、イルカショーが始まります』
それを聞いた碧が知温に笑顔を向ける。
「イルカだって! 見に行こう、知温くん」
碧が知温の袖を引く。知温はそれに引きずられるように歩き出した。碧が、楽しみだね、と笑いかけた時には、さっきの表情は消え、碧と同じように笑っていた。
「イルカ、好き? 碧」
「うん。可愛いし、賢いから」
「碧みたいだね。高い声で可愛く鳴くし?」
知温がにやりと笑いながら碧の腰を撫でた。ひゃっ、と声が出てしまい、碧が知温を軽く睨む。
「いじわる」
少し拗ねた顔を見せると、知温は、やっぱり可愛いよ、と優しく笑んだ。
碧の鼓動はその笑顔のせいで、ずっと駆け足のままだった。
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