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自分からご飯を作ると言ったんだし、前回よりも美味しいと言わせたい。謎の使命感を持った碧は、家に行くと約束した日から、毎日レシピの検索をしていた。
無難かつ可愛い洋食がいいのか、家庭的な和食、それともがっつり胃袋掴みに行く中華がいいか――その日の休憩時間も、碧は一人で、うーん、と唸っていた。
「結構がっつりなバーガー、ぺろりと食べてたしな……」
やっぱり胃袋から落とすか、とスマホを眺めていると、壁を隔てた向こうから、お疲れ様です、という声がした。
碧がいる休憩室はバックヤードの奥にあり、薄い壁の向こうの音は大抵聞こえてしまう。その時はいつものことと、あまり気にしなかったのだが、店長の声で、相談があるんだけど、と聞こえてしまい、そうなるとちょっと聞き耳を立ててしまう。
『どうしました?』
相手は優菜のようだ。作業の音に紛れ、店長の、実はね、という声が聞こえる。
『この間、ちょっと調子悪くて病院行ったじゃない? その時に、妊娠してることが分かって』
その言葉を聞いて碧が、え、と声にしてしまう。けれどそれ以上に大きな声で優菜が、えー! と驚いていた。
『おめでとうございます! 予定日いつですか?』
『半年後くらいかな? だから秋には産休に入るつもりで……で、その前に店長代理を立てたいと思ってるの』
実際に店長が休みに入る前に店長業務を全て誰かに委託したいということだろう。自分が監督できるうちにやらせておくというのは、確かにいい方法だ。
『それでね、社員の碧くんか、優菜か、どっちかにやってもらおうと思って』
碧は自分の名前が出たことに驚いて更に耳を傾ける。
『だったら碧くんじゃないですか? いっこ上だし』
確かに社員は碧と優菜だけで、あとはパートやアルバイトという扱いになる。代理という立場になるなら社員、更に勤務年数なら碧の方が一年多い。
『うーん、でもね、碧くんは真面目だけど、言われたことしかやらないじゃない? 与えられた仕事は完璧だけど、それ以上を求めないっていうか……』
『あー、確かに。碧くん、すぐバックヤード作業するし、店長に言われない限りディスプレイとか関わってこないですしね』
何気にディスられてないか、なんて思いながら、碧は小さく笑った。店では最大限に気を使って、面倒な作業をなるべく引き受けるようにしてきた。ディスプレイに関わらないのは優菜が好きな仕事だと思って譲っていたからだ。裏目に出る、とはこういうことなのだろうか。
『そうなの。だから、ちょっと不安で。やっぱり優菜のほうがいいかな?』
優菜やってみない? という店長の言葉に、お疲れ様です、という声が重なる。それは知温の声だった。
『店長、レジカウンターまでお話聞こえてましたよ。少し声落としたほうが』
『え、うそ、お客様に……』
『――は、聞こえてませんが、レジにいた俺には聞こえました』
知温の小さな笑い声に、ごめん、と店長の声が重なる。
『でも聞こえたなら……梶田くんはどう思う?』
店長の言葉に碧の心臓が跳ねる。どう思う、だなんて知温に聞いてほしくなかった。店長と優菜に『使えない』みたいに言われた後に知温にまでダメ出しされたら、ここでぺしゃんこに潰れてしまいそうだ。
『んー……碧くんは言われたことだけやってるわけじゃないと思うの、俺だけですか? いつの間にかバックヤードが片付いてたり、休憩室のゴミがまとまってたり……そういうの、碧くんがしてるって、この間気づいたんです、俺』
返品棚キレイになってるの気づきませんか? と知温の優しい声が響く。碧の胸がふわりと温かくなり、鼓動が少し駆け足になる。
『あ、確かに』
優菜の声に、ですよね、と知温が言葉を足す。
『俺は、まだ言われた仕事もこなせてないから、淡々とこなしていく碧くんはすごいと思う。中途半端に引っ掻き回すよりもずっといいんですよ、優菜ちゃん』
『え? 何? 私が中途半端だって言いたい?』
『優菜ちゃんも仕事できるんだと思いますが……散らかしたままだったレディースのシャツ、畳んでおきました。半裸のままのマネキンもカウンターの方へ寄せておきました』
『優菜、また色々放置してきたの? 悪い癖だよ』
店長の呆れた声に、すみませーん、と優菜が謝っている。その会話を聞きながら、碧はなんだか少しすっきりしていた。
少なくとも、知温がかばってくれた。そのことが嬉しくて碧は小さく微笑んで、特別美味しいものを作ってあげようかとレシピの検索を再開させた。
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