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第一話 ソファってなんや?
一
太平洋戦争の終盤、アメリカの空襲で焼け野原になってしまった大阪は、戦後の「戦災都市復興計画」で土地の区画整理がなされ新しい建物が建ち、高度成長期へと歩み始めていく。
一方で、戦争の被害が少なかった奈良は、昔の町並みが残ったままで終戦を迎えた。
焼け野原にならなかったぶん戦災復興などという言葉が存在しなかったのだ。
古い町並みが残ったままで十年が経ったとき、山中雅が生まれた。もはや戦後ではないと言われた頃だ。
奈良の町並みは狭い路地が縫うように走り、路地には隙間なく古い瓦屋根の平屋が建っていた。
更に十年が過ぎた。昭和四十年、雅は小学校四年になった。ランドセルを背負い小学校に通い初めてもう四年だ。けれど、奈良の町は変わらない。建物を建てようと穴を掘れば遺跡が出てくる。斬新な建築物は観光規制で建てられない。どうにもこうにも新しい風を吹き込めないで周りの都市から鹿と大仏しかない町だといわれる田舎町になっていた。
金のある者は、こんな古ぼけた町を出て郊外に出来た新興住宅地に引っ越しをする。家を持てない貧乏人は、金持ちが出て行った空き家に借家人として住み込んだ。もっと金のない者は、住めればどこでもいいと考える。屋根さえあればどこでもいいと納得したのだ。
その典型的な例が雅の家だった。
廃墟同然の神社の中に住んでいる。神社が破産して、それを引き取った大家が、社務所を二間ごとに仕切り、長屋として改装したのだ。その一部屋に、おかんと雅と弟の三人で暮らしている。父親はいない。と、いうかいなくなってしまったのだ。雅が、小学校に行く前に家から出て行ったきり帰ってこない。詳しい話を雅は知らない。でも、女の人と逃げたらしいと言うことはなんとなくわかっていた。生活費は、おかんの内職とおばあちゃんの援助で賄なっている。暗い家の中で、おかんは夜遅くまで洋服の仕立てをしていた。
雅の住むこの界隈はいろんな職種の貧乏人が集まっている。
売れない焼き芋屋の露天商、ヤクザな大工、変な宗教にはまっている家、それぞれにひとくせある家庭なのだが共通事項は父親が不謹慎であることと夫婦喧嘩が多いことだった。
たいていの家には小学校に通っている子供がいた。
その子供達が学校から帰ってくると、破産した神社の境内だった空き地で遊び出す。
しつけ、勉強、塾、習い事、子供を拘束するすべてのことに無関係の子供達だ。自由な時間がありすぎてやることが派手だった。
爆竹の火薬を集めて爆発させたり、パチンコで石を飛ばし合ったり、井戸に石を投げ入れたり、野良犬の顔に落書きしたり、学校のクラス仲間では絶対やらないようなハラハラドキドキする遊びばかりやっていた。
雅もランドセルを家の中に放り込むと近所の子供達と遊ぶのだ。
彼らと汗まみれ泥まみれになって空き地の中を走り回る。
夕焼けになってカラスが山の巣に戻り始める頃、子供達も一人二人と空き地から家に戻っていく。
ところが雅は薄暗くなっても、月明かりが頼りになっても家に帰らなかった。家に帰ってもおかんが洋服の仕立てで忙しく、晩御飯ができていないことを知っていたし、ようやくよちよち歩きができるようになった弟の世話をしろと言いつけられるし、家の中に大好きなテレビがなかったし、暗い家の中は本当につまらなかったからだ。
雅と同じように暗くなっても帰らない子供がいた。雅より一つ年上、五年生の和夫ちゃんと、和夫ちゃんのことを慕ってついてくる雅より二つ下の幸雄だ。
和夫ちゃんは一人っ子で、両親が共働き。家に帰っても誰もいないから弟のように慕ってくる幸雄と一緒に暗くなっても家に帰らない。
幸雄の家は、父ちゃんがいない。母ちゃんが昼も夜も働いている。やはり家には誰もいないのだ。
ただ、最近、様子が変わった。
変わらない奈良の町でも、東京オリンピックが始まる頃には、世の中の潮流に乗り遅れないでおこうとテレビをつけだしたのだ。屋根の上にテレビアンテナが立ち、テレビが見られるようになっていく。
いつも遊ぶ近所の仲間の家にもテレビがどんどんついていく。いざなぎ景気の波が、この貧乏人達の界隈にもやってきたのだ。家に誰もいなくても、テレビがあればさみしくない。
和夫ちゃんも幸雄もテレビが家につくと遅くまで遊ぶことをしなくなった。家に帰ってテレビを見るようになったのだ。
「和夫ちゃんの家でも幸雄の家にも、みんなテレビあるんやで。うちも買ってやぁ」
辺りが真っ暗になって、遊ぶ相手もいなくなり、仕方なく雅が家に帰ってくると、いつもテレビがないことに雅は不満を漏らした。雅の家だけテレビがないのだ。
「他の家は、他の家、うちは、うちや」
おかんはそう言って、なかなかテレビを買おうとしなかった。
しかし、雅がテレビのある家の窓の外からテレビを覗く。家の人が気を利かせて家の中に呼んでくれ、挙げ句の果てにご飯までごちそうになって帰ってくると状況が変わった。
おかんの面子が保てなくなってきたのだ。
内職で仕立てた服の納め先から雅が人の家に上がり込んで帰らないという噂話が聞こえてきた。話が膨らんで貧乏人達から「あんな貧乏人はいない」とまで言われることにどうにも耐えきれなくなり、自分のへそくりで中古テレビの購入を決意したのであった。
「雅、ええか、NHKの人が来ても絶対家にテレビがあるって言ったらあかんで」
「え、なんで?」
「なんででもや、言うたらあかんのは、言うたらあかんのや、わかったか」
「え、でも、なんで?」
「うるさい! テレビ買わへんで、ええのんか!」
「え~、わかった絶対言わへん」
母親に口答えをすればテレビが来なくなる。
ヤバイヤバイと思った雅は、テレビが来るまでは母親の言うことに逆らわないよう、必死でご機嫌をとっていた。
しばらくして、雅の家に中古のテレビがやってきた。
テレビは押し入れの中にしまわれ、見るときだけふすまを開けて見ることになった。
「おかん、なんでうちのテレビは、押し入れの中に入れてんの」
他の家は、居間にテレビを置いているのに、なんでうちだけ?と、雅には納得できない。
「他の家は、どうでもええねん。うちはうちや。テレビのあることを知らん人に言うたら絶対あかんで!」
テレビのことを言うとおかんはいつも怒り出すのだ。
雅は、そのことが理解できないでいた。
あるとき、家の玄関先に知らないおじさんが立っていた。
「ここは、ぼくのうちか」
「そうやで」
「あんなぁ、教えてほしんやけどなぁ」
「なんや?」
「そや、グリコのキャラメルあんねんけど、食べるか?」
おじさんが、鞄の中から、キャラメルを取り出した。
「えっ! ええのん、食べる、食べる」
「おまけも、あげるか?」
「ちょうだい、くれやぁ」
おじさんは気前よくキャラメルとおまけも合わせて雅に手渡した。
雅は大感激だ。
「ところで、僕の家に、テレビあんのか?」
「あるでぇ。あっ! おっちゃん、NHKの人には絶対言うたらあかんでぇ」
「なんで?」
「いや~、それがなんでかわからへんけど、おかんがそう言うねん」
「わかった。わかったでぇ、ところでテレビおもしろいか?」
「ひょっこりひょうたん島、おもろいなぁ」
「そやろ、ところでテレビはどこにあるんや」
「それがなぁ、なんでか知らんけど押し入れの中にあってなぁ、めんどくさいねん」
「そうか、それは大変やな、ありがとうさん」
そのおっちゃんは、ニヤニヤしながら雅の前から消え去った。
それから二三日が過ぎて、雅にアメをくれたあのおっちゃんは、しっかりNHKの集金人としておかんの前に現れたのであった。
二
家にテレビが来てからというもの、雅は夕方の五時を過ぎれば帰ってくるようになった。ひょっこりひょうたん島や月光仮面を見逃したくないからだ。
テレビが家になかったときは、和夫ちゃんと幸雄の間でテレビの話題がでると、知らないことなのに知っているふりをした。
仲間外れにされそうで怖かったのだ。
けれど、テレビが来てからは率先してテレビの話をするようになった。テレビの話題を知っていることは、雅にとって必須の知識なのである。いままで、仲間の話すテレビの話が分からなくて悔しい思いをしてきた。貧乏だから仕方がないと自分を納得させていたが、これからは違うぞと雅は思う。
雅の頭の中には年上ほどいっぱい物事を知っているものだという考えがある。テレビの話題についても同じだ。
和夫ちゃんは年上だから僕の知らないことを知っていていいけれど、年下の幸雄に、僕の知らないことを言われると腹が立つ。年下は、僕より後に生まれたのだから、アホでなきゃだめなのだ。先にテレビを買って、僕よりいろんなことを知っていてはだめなのだ。自分の知らないことをいいことに偉そうに話をするのが許せなかった。憤りを感じていたのだ。
テレビが来たのは日曜日だった。
セットが終わり、映像が出るのを確認するとうれしさがこみあげてきた。
うちでもやっとテレビが見れるぞ!
そうだ! あいつらにも言ってやろう。
雅はいつも遊んでいる空き地まで走った。
いつもは賑やかな空き地も日曜の昼前は静かだった。
空き地に一人、幸雄がいた。
「おー! 幸雄、ええこと教えたるわ。おれの家にもついにテレビが来たんやで、もうお前の家と同じや、負けへんでぇ」
雅は、ドンと胸をたたいて自慢する。
「ほんまぁ、良かったなぁ、雅ちゃんの家にもお金あったんやなぁ……」
「うるさい! よけいなお世話や! もうこれからは月光仮面や少年ジェットやマッハGO、全部見られるでぇ。なんでもこいや!」
「ホンマかぁ…… 良かったなぁ。じつはなぁ、うちには、テレビのほかに、もっとええもんあるんやで」
幸雄は上目遣いに雅を見る。
幸雄も雅には負けたくない。
母親から雅の家ほど貧乏な家はないと聞かされていたから、一歩リードしていないとだめだと思い込んでいた。
「なんや、ええもんって?」
「ソファって言うんや、フワフワしてすっごい気持ちええやつや」
「ソファ? なんやそれ?」
「一回座ったら、天国にいるみたいな気持ちになるんやで」
小学二年生の幸雄にソファの説明は難しい。
雅は聞いたことのない言葉と幸雄の説明にソファなるものが想像出来ないでいた。皆目見当のつかない雅は鼻をピクピクさせて考えるが、どんなものだか全く想像することができない。そして、年下の幸雄に知識で負けたと思うといらいらしだした。
「ぼくは、いつもソファの上で寝てしまうねん」
幸雄は、思わず出てきた鼻を服の袖で拭きながら自慢する。
「えっ、寝るんか、ほんまか、いやいや、もうええわ…… うちはテレビあるからええねん」
これ以上話したら、爆発して喧嘩になりそうだと思った雅は
「俺、昼ご飯食べに帰るわ」
と、ぷいと家に帰ったのだった。
三
雅の家の玄関の引き戸は、レールが悪いのか家が歪んでいるせいなのかガタガタさせないと開かない。
その引き戸の開けると、音を聞いておかんが雅を待っていた。
「あんた、お使い頼むわ」
買い物かごを持ってくる。
「え~、俺、宿題あるねん」
買い物かごを避けるようにして、雅は靴を脱ぐ。
「はぁ~! 宿題って、あんた、ほんまに宿題やるんやね。テレビは見ないんやな」
「う~ん、う~ん」
おかんは、雅の目の前まで近づいて睨みつける。
「わ、わかった」
雅は、しぶしぶおかんから買い物かごを受け取った。
さっきまで鬼のように睨んでいたおかんは急に笑顔になり、
「さすが雅や。えらいなぁ。お母ちゃんの子や。肉屋でいつもの肉、それから八百屋にも寄ってきて」
と、買い物を書いたメモを雅に渡す。
「お金は?」
「つけや、肉屋のおばさんがなんか言うたら、来月、絶対払うからって」
「また、つけかぁ」
雅には、つけがどういうことなのかわからない。
けれど、肉屋に行って「つけといて」と言うと、お金を払わないのに肉をくれるのだ。ただ、おばさんが眉をひそめ、険しい表情をする。それが嫌だった。
玄関を出ようとしたときだ。雅はさっき幸雄と話したソファのことを思い出した。
「幸雄の家、この前ソファ買うたんやてぇ」
「えっ、ほんまか?」
近所の情報には詳しいはずのおかんが驚いた。
おかんも知らなかったのである。
「そやけどソファってなんや?」
雅は、おかんにソファのことを聴こうと思っていた。
「ふかふかの座布団が何枚も敷いてあるような椅子のことや。そこに座ったら、なんか空中に浮いてるような気分になるんやで」
おかんの話を真剣に聞いていた雅は、
「ほんまか?」
と言いながら、ようやくソファが椅子であると理解したのだが、どんな椅子なのかがわからない。
きっと無茶苦茶ふかふかの椅子やろうな…… ソファのことばかり考えながら古い家が並ぶ曲がりくねった路地を抜け、肉屋のある市場の方に歩いていく。
ふと見ると雅の前を足先が見えなくなるほど長い真っ赤なドレスを着た女が歩いていた。
「あっ! 幸雄の母ちゃんや」
思わず声が出そうになる。
幸雄の母ちゃんは、昼間、雅のおかんが内職で仕立てた服を納品する縫製工場で働いている。
幸雄の母ちゃんは夜も働く。夜は市場の横のクラブでホステスをやっていて、縫製工場から帰ってくると、晩御飯の用意をして出かけてゆくのだ。雅はその姿を前に見たことがある。一度見たら絶対に忘れない。この界隈でそんな派手な服を着る者がいないから、後姿を見ただけで幸雄の母ちゃんだとわかるのだ。
前にそのことを母親に話すと
「あの女は、ほんま化け物や、近寄ったら殺されるでぇ」
と言っていた。
お互いの家庭は、父親がいなくなり、片親で生活をしている。
似たような環境にあるのだが、そりが合わないのか雅のおかんと幸雄の母ちゃんは仲が悪かった。自分の子供に、相手の母親の悪口を言い合っていたのである。
おかんの言葉を思い出し、雅は逃げ出したくなる。しかし、狭い路地には家が建込み迂回する道がほかにない。どうにもできず、後ろをゆっくりついてゆく。
しばらくして、何かを感じたのか幸雄の母ちゃんがいきなり振り向いた。
真っ赤な口紅、青い目、パーマをかけた髪の毛の女が雅をにらんだのだ。
「ほんまに、化け物や」
思わずギョッとして雅は立ち止まる。
女は後についてきたのが雅だとわかると、雅にこちらに来るよう手招きをした。
雅にはその手招きが悪魔の手招きのように思えた。 ぶるっと震えが来る。
殺されてしまうようで思わず、振り返り、もと来た道を歩き出した。雅の背中に幸雄の母親の視線が突き刺さるように感じられた。悪いことはしていない。なぜ逃げようとするのか自分でもわからない。
だが、赤ん坊に鬼の知識が全くなくても、なまはげを見て本能で泣き叫ぶように、雅の危険予知本能が「逃げよ!」と、手足に命令を下したのだ。歩く速度がだんだん速くなり、次第に走り出していく。それが、さらなる恐怖を呼び起こし、最終的には全速力で走っていた。
家の近くまで戻ってきたとき、ようやく心が落ち着いた。買い物に行くのは、少し時間を開けてからにしようと、雅は決めた。家には帰れない。雅は、いつもの空き地を覗いてみた。幸雄だけが、まだ一人で遊んでいた。
「幸雄、今日は、お前しかおらんのか?」
雅の声にビクッと幸雄は驚いた。
「あっ…… …… なに?」
「お前しかおらんのかって、聞いてんの!」
「うん、俺しかおらんねん……」
幸雄は、学年が二年も上で体格もかなり大きい雅が苦手だ。いつも一緒に遊ぶのだが、自分を子分のように扱う雅があまり好きではない。雅より一学年上の和夫ちゃんが一緒にいるときは、和夫ちゃんが雅を抑え、自分の味方になってくれるので安心なのだが、今日は和夫ちゃんがいない。そのうえ、ここには自分と雅の二人しかいないのだ。何をされるかわからない。苦手な雅が近づいてきて、幸雄の声が上ずっていた。
一方、雅は、幸雄を見た瞬間、幸雄の家に行って、ソファが見られるかもしれんと思った。
<ひょっとしたら、家の中は誰もいないのか?…… 幸雄の家に入れるかもしれん>
と、ひらめいたのだ。
「幸雄の家は、お母ちゃんだけか?」
雅は幸雄に尋ねてみる。
「おかんは、さっき、店から呼ばれて出て行ってん。すぐ戻るって、言ってたけど……」
雅の目がらんらんと輝いた。
「あかんがな、あかんで、家をあけといたら泥棒がはいるで」
雅は幸雄をたしなめる。
「そ、そうやな。ほんまや」
幸雄は雅に言われ家に帰ろうとする。
その時だ。雅は幸雄の肩に手を回し耳元で
「幸雄、たしか、お前の担任は太田先生やったな」
と、切り出した。
幸雄は逃げようとするが、雅の腕を振りほどくことができない。
雅に肩を組まれたまま、
「そうや、太田先生やで」
とうなずく幸雄。
太田先生は、学校で一番人気の美人先生だ。
「お前、あの女の先生のことが好きやろ」
雅は、ひそひそ声になって幸雄に話しかける。
「う、うん、太田先生なぁ、僕好きやで」
幸雄は雅を見上げて答えた。
「あんな、俺、太田先生の大事な秘密をな……」
「えっ、秘密?」
「せや、秘密や。俺、知ってるんやで。教えたろか?」
雅はいかにも重大な秘密であるかのように囁いた。
「えっ、何、秘密って、何や!」
幸雄の声が大きくなる。大好きな太田先生の秘密だ。絶対に知りたい。その秘密ってなんや!幸雄は、なんとしてもその秘密が知りたかった。雅の服を引っ張って教えるように迫った。
雅はニヤリとして
「教えてほしいか?」
と、さらに小さい声で囁いた。
「うん、教えてや、秘密ってなんや、教えて!」
<今だ!>とばかり、雅は
「幸雄の家の中に入れてくれたら教えたるけどなぁ。ここやったら話せんわ」
と勝負の言葉をはいたのだった。
「う~ん、う~ん、お母ちゃん、怒るしなぁ」
悩む幸雄。
「ええのんか、誰も知らん秘密やぞ! それに早く家に帰らんと泥棒はいるぞ」
と、とどめを刺しにかかる。
「ちょっとだけやで、ちょっとだけやったら家に来てええわ」
ついに幸雄が観念した。
「ヨッシャー! わかった。行こう! 汽車汽車、シュッポシュッポ、シュッポッポ」
雅は幸雄の後ろに回り、両肩に手のひらを置き、幸雄を後ろから押した。歌を唄いながら幸雄の家に向かったのだった。
四
幸雄の家の玄関の引き戸は、スルスルと音がしてすんなり開いた。
<さすがに大工さんの家だけあるわ。うちの引き戸とは大違いや!>
感激して、幸雄の開けた後を、雅は自分でも開け閉めしてみる。引き戸を持ち上げてバタンバタンと叩かんでもええんやなぁ。
<うらやましいなぁ>と雅は思う。
「なにやってんの?」
幸雄が不思議そうに雅を見ていた。
「いや別に」
雅は引き戸を閉めた。
玄関の中は、二畳ほどの土間になっている。雅は幸雄の後について土間を上がった。ふすまの向こう側が居間のようだ。幸雄がふすまを開けた。
八畳くらいの畳の部屋に藍色のカーペットが敷いてある。部屋の真ん中に、向かい合わせで茶色のソファとその間にテーブルがあった。ソファーには、紫色のドレスかかっている。
「ほぉー、この椅子がソファかぁ」
雅は、興奮気味に幸雄に尋ねる。
「そうや、この前、買うたんやで」
幸雄は誇らしげに答えた。
「ほんまや、柔らかいなぁ」
雅は、ソファを手で触り、押したり少し叩いたりしてその柔らかさを肌で感じていた。
雅がうらやましそうにしているのを見て、
「ええやろ、ここでテレビ見てたら、すごい気持ちええねんでぇ」
幸雄がさらにうぬぼれた。幸雄の思い上がった態度に雅は軽いいらだちを覚える。
「ちょっと座らせてもらうで」
と勝手にソファに座ってしまった。
「ちょ、ちょっとだけやで」
早く雅を家から出さないと母ちゃんが戻ってくるぞとひやひやしだしたのだ。
雅は、ソファに腰を下ろすと、両手をソファのひじ掛けで支え、おしりをバウンドさせてみた。
「ああ、気持ちええ!」
初めてのソファの感覚に思わず声が出た。今までこんなフワフワする椅子に座ったことがない。これがソファって言うものか、おかんの言う通りやなぁと思うのだった。
「気持ちええやろー なぁ、そしたら太田先生の秘密、教えてや」
幸雄は、なかなか秘密を教えてくれない雅にいらだった。雅は幸雄の問いかけを無視し、ずっとバウンドを繰り返している。
しばらくして、
「おもろいなぁ、ジャンプしたら天井まで飛び上がるんとちがうか」
と、立ち上がってソファで飛び跳ねだしたのだ。
ミシミシとソファが音を立てて唸りだした。
「雅ちゃん、あんまり飛んだら、ソファ壊れてしまうでぇ」
幸雄の顔は曇り飛び跳ねる雅を見つめるばかりだ。
「はよー教えてや、雅ちゃん、太田先生の秘密、なんなん、教えてや!」
幸雄が約束違反だと言いたげに声を上げた。
「うん、もうちょっとこのソファーで遊んでからや」
幸雄の言うことは全く気にせず、雅はソファの上で飛び跳ねる。
ソファにかかっていたドレスが畳の上に落ちた。
落ちたドレスを見て、幸雄の顔がさらに曇った。
「幸雄、お前もやれ!」
雅の態度が変わった。幸雄の手を持ってソファにあげようとする。
「あかん、おかあちゃん、もう帰ってくるから、やめてぇな」
幸雄は半べそになりながら必死で雅をソファから降ろそうとする。雅は幸雄の手を振りほどきながら、ジャンプし、幸雄から逃げるようにテーブルからソファにソファーからテーブルに狂ったように飛び回る。
「やめてやー!」
幸雄がこらえきれず、大声を上げて泣き出した。幸雄の泣き叫ぶ声で雅は興奮が冷めた。
「わかった。やめたるわ」
幸雄の涙を見て、雅はようやくソファから降りたのだった。
ふとソファの横の三面鏡を見ると、その上にクルクルとパーマのかかったかつらが置いてある。
雅の頭の中で、ピカッと稲妻が走った。
「泣くな幸雄、太田先生の秘密教えたる」
そう言いながら、雅は三面鏡の前まで行くと、
「あんな、太田先生の股になぁ……」
三面鏡の方を向いたままで幸雄に話しかける。
「股になんや?」
泣きじゃくりながら幸雄が後ろから聞いた。
「股にめちゃくちゃ毛が生えてるんや」
そう言うや否や、雅はかつらをズボンの中にいれた。
ズボンのチャックを開けて、手を突っ込み、かつらをズボンの中からのぞかせたのだ。
そして振り返ると、
「こんな毛が生えてるんやぞ」
と、幸雄を驚かせたのだった。
「うそや!」
幸雄は真っ赤になって怒り出した。
「ほんまや、それでな、こうやって踊ってんねん」
雅は、腰に手を当てズボンのチャックをあけたままで踊りだしたのだ。
「やめてえや!」
幸雄は踊りを止めようとするのだが、雅はまた調子に乗りだした。部屋の端に置いてあったほうきを持ち出し、股の間に挟み、ポールダンスを踊るように体をくねらせる。
興奮が興奮を呼び、仏壇の鐘をちんちんドラムのようにたたき、体をぐるぐる回転させた。
「アハハハ……」
あまりのこっけいさに幸雄は泣くのをやめ笑い出した。そして今まで泣いていたのに幸雄も調子に乗って踊りだしたのだ。
その時だった。突然、ふすまが開いたのだ。
「あっ!」
幸雄が大声を上げた。
「だれやー、ぼけっー!」
怒鳴り声とともに、幸雄のおかんが居間に飛び込んできたのだ。
雅を睨みつけると雅のズボンに手を突っ込み、チャックから出たかつらを取り上げた。そして、胸ぐらをつかみ、雅の顔を引き寄せ、
「お前~!このかつら、なんぼしたと思ってんの!。どないしてくれんの!」
と大声で吠えた。
真っ赤な唇から唾が飛び出て、おもいっきり雅の顔にかかる。青い目の瞳の奥が怒りに燃え、唇がぶるぶる震えている。
「おまえみたいな貧乏人は、二度と起き上がれんようにしたる」
雅の頭をパシーンと思いっきりひっぱたいたのだ。
<殺されるー!>
雅はズボンを半分おろしたまま、脱兎のごとく玄関を飛び出て逃げた。玄関まで追いかけてきた悪魔は、ビシッと鞭がしなるような音を出して引き戸を閉めた。
「幸雄、あんた、あの子、今度家に上げたら許さへんで!」
という罵声と、大声で泣く幸雄の声が聞こえてきた。
足がぶるぶる震えた。呆然と玄関のところで立ち尽くしていると、もう一回、引き戸が開いた。驚いて玄関から逃げると、中から買い物かごが外に投げつけられた。
「あっ、買い物かご!」
雅は買い物を思い出した。大慌てで市場に走る。
<市場、開いてるやろか>
ハァハァ息を切らせて思いっきり走る。ギリギリ間に合った。肉屋のおばさんが店じまいをしていた。
「おばちゃん、ハァーハァー、いつもの肉ちょうだい。ハァー、つけで」
あまりにハァハァしていたせいで、何事かと思い、顔をゆがめるのをおばさんは忘れていた。八百屋に寄って買い物が終わった頃には暗くなりかけていた。
買い物を終え、ホッとして雅が路地まで戻ってくると、反対側から、なんと幸雄の母ちゃんが歩いて来たのだ。
<やばい!>
雅の足が止まった。
早く帰らないと、今度は自分のおかんに怒られる。幸雄の母ちゃんも自分のおかんも、どちらも悪魔のようにおそろしい。
ええい、どうにでもなれ!
雅は、路地の端をうつむいて通り過ぎることに決め、速足で幸雄の母ちゃんに近づいて行く。
あのかつらをかぶってる。真っ赤な唇に青い目が、こちらを睨んでる。
もうすぐ、すれ違う。
雅は、道の隅の溝ぎりぎりに寄って、思いっきり走って通り過ぎようとした。
その時だ。
「ボケッ!」
と大声で吠えられた。
「ギャー!」
雅は、思わず飛びあがった。その拍子に路地の溝にはまってしまったのだ。
「痛っ!」
膝を思いっきり溝にぶつけて雅が叫んだ。それを見た黒いドレスの悪魔は
「ハハハハ」
と大笑いしながら、雅に近寄り、雅の頭を思いっきりぶん殴って去って行ったのだ。
ズボンについた泥を払い、地べたに落ちた買い物かごを拾いあげ、雅は全力で家まで走った。
家の引き戸を開けると、おかんが、
「あんた、いつまで……」
と小言を言おうとした。
「ちょ、ちょっと待って、ハァーハァー」
雅は、おかんが話し出すのを遮った。
「あんな、幸雄のおかあちゃんは、ほんまは、かつらかぶってたんやで」
大発見したかのように雅が言うと、
「あんたは、何をやってんたんや?」
と怪訝そうな顔をしてしばらく雅を睨んでいたが、思い返したように、
「あかんあかんあかん、あんな化け物。近づいたらほんまに殺されるで」
と力を込めて言った。
「ほんまや」
雅は心の底からそう思った。
それ以来、雅は二度と幸雄の家に上がることはなかったのである。
(了)
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