君と一緒に。

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君と一緒に。

 徹君の体をおぶり、山の中を進む。道は無く、木の根や枝が私達を阻んだ。跨ぎ、避け、時折鎌を使って切り裂いて、先を目指す。私が怪異でなければ到底辿り着けまいと確信をした。  道中では、野生の動物や物言わぬ怪異がうろついていた。どれも危害を加えようとはして来ない。ただ、じっと此方の気配を伺っていた。そうか、と気付く。この探られている感覚に恐怖を覚え、この土地の主は山を閉じたのかも知れない。おかげで自然は守られ、動物は闊歩し、怪異も大人しく住み着いている。そんな場所になったのかも。まあたかだが五十年間、病院で過ごしているだけの私には推測するしか出来ないのだが。答え合わせの術も持っていないし。考え事をしていたら、徹君が背中からずり落ちそうになった。軽く背負いなおす。その重みに、彼がもう子供ではないと実感させられた。溜息が漏れる。十年だもんな。大きくもなるか。怪異の私とは違って君は人間だったから。唇を噛む。止まりそうになる足に力を込めた。  やがて目的の場所へ辿り着いた。一気に視界が開ける。此処をこんなに近くから眺めるのは初めてだ。当然のように目を奪われる。しかしまだゴールではない。徹君をそっと横たえて、私は近くの木々を見回した。中でも大きな一本を鎌で切り倒す。そうして黙々と削り始めた。簡単な物でいい。私達二人が乗れれば十分だ。  しかしすぐに完成するかと思いきや、案外時間がかかってしまった。夜の空が白み始める。星々の煌めきが見えなくなっていく。深呼吸をした。大丈夫。焦る必要は無い。明日の夜でも構わないのだ。  その日は生憎、雨が降り始めた。徹君を再びおぶって山の奥へ引っ込んだ。木々が密集する場所は、地上まで水滴が届かなかった。引き摺ってきた削りかけの木に黙々と鎌を振り下ろした。  幸いにも夜が来るのとほぼ同時に雨は止んだ。あと三時間程で病院は消灯の時間を迎える。今夜も子供達が私を呼ぶ。怖い。寂しい。暗い。助けて。一人一人の声に応えて、色々な私が生まれる。そうして彼ら彼女らの心を支え、或いは守り、最期を看取る。そんな、たくさんの私の内の一人がこの森にいる私。田中徹君が病院へ来なくなった時点で役目を終えたはずだった。だけど十年ぶりに彼は私を呼んでくれた。だから今、私達は此処にこうして二人でいる。さあ、今夜も頑張れよ、私達。草葉の陰から応援しているぜ。  空を見上げる。雲はまだ晴れない。だったら水上で待てばいいか。物言わぬ徹君の体をもう一度、背中に乗せる。これが最後のおんぶになるな、と確信した。少し寂しいよ。  夜の闇の中、私達は湖のほとりへ戻ってきた。病院の屋上から何度も眺めていた、星空を映し出す湖面。一日かかって作り上げた簡易的な小舟を浮かべる。彼と二人、静かに乗り込んだ。オールを使い、のんびりと漕ぎ出す。雲はまだ、晴れない。  横たわった彼はぴくりとも動かない。折角、ボートに乗ってデートをしているというのにつれないなぁ。なんて、私のせいで君はこうなってしまったのだ。たとえ冗談だとしても、そんなことを考えてはいけないか。  ……ごめんね、私を好きにさせてしまって。ごめんね、君の拠り所になってしまって。巡り巡って、君を怪異に貶めて、その上私自身が祓うという結果に辿り着いてしまった。私は君に人間として生きて欲しかった。楽しい人生を送って貰いたかった。明るい気持ちをたくさん覚えさせたくて、私なりに尽力した。どこで間違えていたのかな。どこかで違う選択肢を取っていたなら君は怪異になろうとなどせず、私に魂を祓われることも無かったのかな。  だから、ごめん。徹君。そして、君が想ってくれたこの私も、一緒にいくよ。  小舟が湖の真ん中に辿り着いた。徹君の体を後ろから抱き締め、支える。そこからは、ただひたすらに待った。ゆっくりと、しかし確実に、雲が空からどいていく。急がなくていいよ、夜が明ける前にいなくなってくれるのなら。それに、もし今夜が駄目だとしたら、明日も明後日も此処で待つもの。私達は、二人で、ね。  そんな風に、気長な心持でいたのだけれど、またしても運良く夜中の内に雲は全てどいた。星の位置から時刻を割り出す。午前二時十分。私と徹君がいつも屋上に出た時間だ。これは奇跡かな。  湖面を眺め、そして空を見上げる。感嘆の声と溜息が漏れた。 「見てごらん、徹君。君の想像した通り、上も下も星空だ。夢みたいな光景だよ。此の世と彼の世、二つを合わせて見回したって、こんな素晴らしい場所は他にあるまい」  返事は無い。見開いたままの彼の目にはこの光景は映っている。そう、ただ映っているだけ。それでも私は言葉を紡ぐ。 「もし君が本当に写真家になっていたら、ここをフィルムに収めたのかな。そうしたらきっと歴史に名前が残せたぜ。賞金が手に入ったら、情報を提供した私にもお礼としてお酒の一本でも持って来てくれただろうよ。なにせ君は真面目だから」  無言。無音。彼は応じない。 「そんでもっていつものように病院の屋上から此処を眺めながらさ、二人で一杯やるの。月見酒ならぬ星見酒。いや、そんな言葉じゃ足りないな。素敵な言い回し、無い?」  湖面は静まり返っている。彼を抱き締める腕に力が入る。あのさ、と私は耳元に口を寄せた。 「色々、本当にありがとう。君にはちゃんとお礼を伝えなきゃね」  聞こえていなくても構わない。彼と此処へ来たのも、一方的に話し掛けるのも、そしてこれから追い掛けるのも。全ては私の自己満足だから。 「まず、私の存在を秘密にしてくれたね。勿論、君がおかしくなったと思われないためではあったけれど、君だって本当はお母さんに相談したかったに違いない。それを我慢してくれたのだろう。だから、ありがとう」  あぁ、本当に綺麗な景色だなぁ。ちゃんと、二人で来たかったなぁ。 「君は約束を守り通した。故に私も秘密を貫こう。君が怪異に懸想したこと、怪異になろうとしたこと、そして私に祓われてしまったこと。全部、君と私、二人きりの秘密だ」  誰も知らない。誰にも知られない。二人だけの、秘密。 「そして、本音を言うならば。本質的に間違ってはいるのだけれど、実は嬉しかったんだぜ。大人になっても私を想ってくれていた。会いたいと強く願ってくれた。それは、いけないことなんだけどさ。どうしようもなく、幸せだった。ありがとう」  好きって告げられて嫌な気にはならないのだぜ。たとえ怪異であっても、ね。さて、気持ちは全て伝え終わった。この素晴らしい光景も、もう見納めだな。 「そろそろいこうか、徹君。次はお互い、人間として会えるといいな。その時はまた、新しい秘密でも共有しよう。もっと明るく、楽しくて、輝くような秘密をさ」  使い慣れた鎌を取り出し、右手にしっかりと握り締めた。 「またね」  左手で彼をしっかり掴まえる。決して離さないように。ちゃんと一緒にいけるように。そうして私は、躊躇なく振り下ろした。
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