5人が本棚に入れています
本棚に追加
二年後。
前回の入院から二年が経ち、僕は小学二年生になった。だけど体は弱いまま。しょっちゅう風邪を引いたり熱を出しては学校を休んでいた。でもそのくらいならまだマシで、今回は更に拗らせまた入院となってしまった。前と同じ山の麓にある大きな病院だ。二、三日で良くなるだろうとお医者さんは言っていた。
「徹は風邪がひどくなりやすいね。二年前も気管支炎になっちゃって入院したんだよ」
仕事を休んで付き添ってくれたお母さんが、困ったように零した。僕にもお母さんにもどうしようもないとわかっている。でも我慢出来なくて一言漏れた。そんな気配を感じ取る。ごめん、と言い掛け咳が出た。そっと頭を撫でられる。その時ふと、記憶が蘇った。あの夜、怖い目に遭ったことを思い出す。
「今日、お母さんは泊まってくれるの」
そう訊くと、今夜は泊まらない、と首を振った。不安に駆られ、どうして、とベッドから身を乗り出す。また少し咳が出た。
「仕事、休めないの。お給料も止まっちゃうし。ほら、でも徹も小学生になったから二晩くらいは大丈夫だよね。明日、仕事が終わったらまた来る。それまでは悪いけど我慢して。本もいっぱい持って来たし」
仕事はしょうがない。うちにはお父さんがいないから、お母さんが働くしかないとわかっている。だけど、夜に一人で過ごすのはやっぱり嫌だ。だって足を掴む闇や、知らない女の人が現れるから。そう訴えたかったけど。
「絶対に秘密だぜ」
掛けられた言葉が蘇る。口を噤むと、偉いよ、とまたお母さんに頭を撫でられた。その日はホタルノヒカリが流れるまで、お母さんは一緒に居てくれた。
夜九時に消灯された。小さな個室の明かりが落ちる。テレビを点けて怖い気持ちを誤魔化そうかと思ったけど、見回りに来た看護師さんに怒られるかも知れないと気付いてやめた。やっぱりお母さんに泊まって欲しかったな。でも、と考え直す。前に入院して闇に掴まれた時、バタバタしたけどお母さんは起きなかった。女の人の声にも全く気付いていなかった。やっぱりあれは夢だったのかな。うん、そうだよ。熱が出て怖い夢を見るなんてよくあることじゃないか。そんなに闇を心配しなくても大丈夫。それにお母さんも言ったように僕はもう小学二年生だ。お化けに怯えて眠れない、なんてクラスメイトに知られたら馬鹿にされてしまう。
強く目を瞑る。平気さ、起きたら朝になっている。怖がる必要なんて一つも無い。自分に言い聞かせつつ、掛布団から足が出ないようしっかりと押さえるのを忘れなかった。
「痛っ」
反射的に体を起こす。いつの間にか眠っていた。だけどまた、あの時と同じ感覚を覚えた。掛布団を跳ね除ける。目に入った光景に、背中の毛が逆立つのを感じた。
闇。
人の全身に棘の生えたような形の闇が、今度は僕の両足首を掴んでいた。一気にベッドの端へ引き摺られる。咄嗟に柵を掴んだけど、闇の力はとても強くてすぐに離してしまった。そのまま床に叩き付けられる。闇は壁へ溶け込んでいく。掴まれた僕は一体何処へ行くのか。何だこれ。何なんだこれ。夢なのか。悪夢なら覚めて。お願いだから目を覚まさせて。嫌だ。行きたくない。死にたくない。そして、もしも夢じゃないのなら。
誰か、助けて。
瞬間、空気を切り裂く音が部屋に響いた。途端に足を引っ張る力が無くなる。僕を掴んでいた闇は壁に溶け込み、消えた。気付けば壁から数センチしか離れていないところまで来ていた。這いつくばったまま、震える手足を何とか動かしベッドの元まで辿り着く。冷たい脚に掴まり、荒い息を吐いた。恐る恐る顔を上げた、その先には。
「やあ、また会ったね。久し振り」
巨大な鎌を持った女の人が、立っていた。彼女がゆっくりと空いている手を振る。白い看護服と、それよりもっと白い肌。対照的に真っ黒な瞳。短い髪が肩口で揺れる。
「今回は危なかったな。お母さんがいないとこうも無防備になるのか。いやはや、君は愛されているねぇ」
白い歯が光る。ひっ、と反射的に声が漏れた。おいおい、と肩を竦める彼女の手から鎌が消える。
「そうビビんなって。私は君の味方だよ。と言うか子供皆の味方だが」
足音も無く此方へ歩いて来る。ほら、と両手を広げて手の平を上に向けた。
「攻撃の意思はござんせん。っつってもまあ怖いよな。よし、まずは自己紹介から始めようか」
そしてベッドの傍らにパイプ椅子を置くと目を細めた。立てるかい、と手を差し伸べられる。
「大丈夫、です」
ベッドの脚を伝い、何とか布団へ這い戻る。偉いよ、と拍手を送られた。彼女が椅子に腰掛ける。目線の高さは僕より少しだけ上だった。
「さてさて、それでは夜の密会を始めるとしよう。おっと、小学生に密会とか言っちゃいけないか」
意味がわからず首を捻る。
「でも夜中の二時に個室で二人なんて密会以外のなにものでもないよな」
その言葉に時計を確認する。二時三分と表示されていた。
「ま、馬鹿話はこのくらいにして、改めて自己紹介だ。とはいえ私に名前は無い。子供達のヒーローである素敵なお姉さん、としか言いようが無いな」
ヒーロー、とうわ言の様に繰り返す。名前も無いヒーローのお姉さん。何一つこの人のことがわからない。
「どっちで呼ぶ? ヒーロー? お姉さん?」
「えっと、じゃあお姉さんで」
あいよ、とあっさり応じてくれた。
「そんで、君の名前は何て言うんだい? 田中徹君」
え、と声が漏れる。途端にお姉さんは笑い声を上げた。細長い指でベッドを指す。
「名前、はっきり書いてあるもの。なんなら二年前から知っているぜ」
単純なことだけど、言われて初めて気付いた。からかわれたようで少し悔しい。
「あの、それで貴女は何者なのですか。あと、あの闇は何ですか」
話題を逸らす様に疑問を口にする。お姉さんは腕と足を同時に組んだ。
「怪異。そう呼ばれる類のものだ。お化けや妖怪と言い換えてもいい」
「あの闇が?」
「闇も、私も」
反射的にお姉さんから遠ざかる。心配すんな、と顎を引き、上目遣いで僕を見詰めた。
「私は子供の味方だってば。順繰りに説明しようか」
最初のコメントを投稿しよう!