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奈緒子を一番辟易させたのは涼介の睡眠障害だ。
涼介は朝五時半には活動を始め、偏食の為殆ど食べない朝食に形だけ手をつけさせ、八時に公園には行く。
延々と滑り台を登ったり滑ったりしている涼介を見守りながらぼんやりと空を眺め、昼時になると「涼くんご飯食べに帰ろうか」とまだ帰りたくないと泣き叫ぶ涼介を引きずるようにして家に連れて帰る。
「イーヤーッ!まだ遊ぶのー!」
「もうお腹空いたでしょ?一回ご飯食べてからまた来よう?」
「お腹すいてない!ご飯ないない!」
「涼くん、お母さんはお腹空いたよ」
「イーヤーッ!イヤーーーッ!」
朝は早く起こし、太陽の光をたっぷりと浴びさせ、外遊びをしっかりさせても、涼介は昼寝もせず、夜もろくに寝ず、二歳を過ぎても夜驚症のような症状があり、奈緒子は涼介を産んでからというもの、もう何年も朝までぐっすりと眠ったことがなかった。
あぁ、もう嫌。
疲れた。
眠い眠い眠い。
奈緒子は目頭を抑え束の間の間目を閉じた。
ほんの一瞬そうしただけで眠りに落ちてしまいそうなほど疲労困憊で眠たくて眠たくて仕方がなかった。
「いやぁ、お母さんっていうのは大変ですね」
至近距離で低い男の声がして奈緒子がハッとして弾かれたように顔を上げると、そこに立っていたのは数日前スーパーで会った不気味な男だった。
公園デビュー、ママ友付き合いを嫌い、わざと人気のない公演を選んで涼介を遊ばせていた奈緒子は希死田の姿を見た瞬間、思わず小さく悲鳴をあげるほど驚いた。
「きゃぁっ!!」
「おや、悲鳴をあげられると少し傷つきますね」
「ど、どうして貴方がいるんですか?」
「僕は何処にでもいていっぱいいます。でも何処にもいません」
「何を、言ってるんですか?」
希死田は奈緒子の目を見て飄々とした仕草で肩を竦めると、涼介に歩み寄りどこからとも無くボールを三つ取り出すとジャグリングを始めた。
「やめてください!涼介に近寄らないで!」
「ママ?さっきから誰と話してるの?」
滑り台を滑り終えた涼介は希死田など存在しないかのようにその身体をすり抜けて奈緒子に駆け寄ると、毛玉だらけの使い込まれた奈緒子のロングカーディガンの裾を引っ張った。
「……え?」
「最初にお会いした時にいいましたよね。僕は貴方の希死念慮、死にたいという気持ち。まぁ幻覚のようなものです。涼介くんのように健全な肉体と精神の持ち主には見えませんよ」
希死田はそう言って軽やかに子供用の滑り台に駆け上がると勢いよく滑り台を滑り降りた。
「奈緒子さん、貴方、死にたいんでしょう?」
希死田は地を這うように低く心地良く響く声でそう言うと、上目遣いに小首を傾げ奈緒子の顔をじっと見た。
「大丈夫、涼介くんには僕は見えないし声も聞こえません」
「……はい」
奈緒子が震える声でそう言ってがっくりと項垂れると、希死田は突然奈緒子の至近距離に姿を現し馴れ馴れしく肩を抱くと「僕は死にたい人の傍にいます。別にだからといってなんにもしませんけど、話し相手くらいにはなりますよ。奈緒子さん、これからよろしくお願いします」と言って耳元で甘く低く響く声で囁いた。
存在も質量もないはずの男の手は妙に生々しくひんやりとしていて、奈緒子は大きく身震いした。
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