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奈緒子の夫、田嶋悠介は月に一度贔屓にしているケーキ屋で苺のショートケーキとモンブランを買ってくる。
悠介は甘い物が嫌いだから自分の分は買って来ないが、偏食の多い涼介もここの苺のショートケーキだけは喜んで食べた。
しかし、奈緒子は悠介に秘密にしていることがある。
奈緒子はモンブランがどちらかと言えば苦手なのだ。
「言えばいいじゃないですか、旦那さんに」
「別に嫌いってわけではないの。それにもう何年もモンブラン食べといて今更実は苦手だなんて言ったらあの人きっと怒るわ」
「そういうものですかねぇ?」
希死田は無精髭の生えた顎を擦ると、珍しくすやすやと眠っている涼介を見た。
「……今日は涼介くん、よく眠ってますね」
「そうね」
奈緒子は眠る涼介を見もせずにモンブランを切り分けると黙々と口に運んだ。
療育センターで話す母親達は寝顔だけは天使だと口を揃えるが、奈緒子にはそうは思えない。
いつ目を覚まして泣き叫ぶか分からない涼介はいつ爆発するか分からない時限爆弾のようだ。
「今の内に食べておかなくちゃ」
夫の買ってきたモンブランはやはり全然美味しいと思えなかった。
奈緒子が最後の一切れを口の中に押し込んだのを見計らったかのように涼介が引きつけを起こしたように泣き始めたので、奈緒子は冷めたミルクティーでモンブランを流し込むと慌てて涼介を抱き抱えた。
「涼くん、起きちゃった?」
顔を真っ赤にして全身を仰け反らせて泣き叫ぶ涼介を抱き上げて背中を撫でさすろうとするけれど、うまくいかない。
時刻は深夜三時。
早く、早く、急いで泣き止ませないといけない。
「泣かないで涼介、お願い」
奈緒子が祈るようなか細い声でそう言ったのと寝室から「うるさいぞ!何時だと思ってるんだ!」と悠介の怒鳴り声が響いたのはほぼ同時だった。
「早く泣き止ませろ!俺は明日も仕事なんだ!疲れてるんだ!昼間子供と呑気に遊んでお昼寝出来るお前とは違うんだよ!」
「……ごめんなさい」
しかし、そんな都合よく涼介が泣き止むはずもなく余計に甲高い声で泣き喚き、舌打ちと共に寝室のドアが力任せに乱暴に閉められる音がして、奈緒子は肺の空気を全て吐き切るようにゆっくりと息を吐いた。
「涼くん、お願い。寝なくてもいいから、泣かないで」
悠介は多忙な会社員だ。早朝に家を出て帰宅は深夜になることが多く、会社への泊まり込みや休日出勤も少なくない。
「いわゆるハードなワンオペ育児ってやつですね」
涼介の泣き声をものともせず希死田が少しハスキーな低い声でそう言うと、奈緒子は「そうね」と力なく頷いた。
「あの人はね、月に一回ケーキを買ってくれば私の機嫌が取れると思ってるの。涼介のオムツを替えたことなんて一度もないし、夜泣きの対応を代わってくれたことも一度もない。そういう人なの」
「なるほど、典型的なモラハラクソ亭主ですね」
希死田はそう言うと、ふわりと宙に浮かび上がり長い脚を組み、自身の膝の上に頬杖をついた。
「日中、お昼寝なんて出来てないのなんてちょっと考えれば分かるでしょうに」
希死田が呆れたような声音でそう言うと、奈緒子は小さく吹き出し、身体を折り曲げて声を上げて笑い始めた。
「ふふっ、ふふふふっ、あははははッ!」
「奈緒子さん、奈緒子さん?大丈夫、ですか?」
「……不思議ね。四年連れ添った夫より希死念慮の方が優しいだなんて」
奈緒子が目尻の涙を人差し指で拭いながらそう言うと、希死田は芝居ががかった仕草で肩を竦めると「僕は奈緒子さんの幻覚ですからね。貴方にとって都合の良いことを言いますよ。多少はね」と突き放したような口調で言い、自らを見えない筈の涼介の眼前に立ち、いないいないばあをした。
その顔がホラー映画も真っ青な不気味で身の毛もよだつような表情だった為、奈緒子は思わず声を出して笑い、それに釣られたように涼介も笑った。
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