希死念慮の希死田 2

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母性というのは子供を産めば自然と湧いてくるものだとばかり思っていた。 しかし、現実は違った。 奈緒子は自分が産んだ子を愛おしいと思うことが出来なかった。 涼介は酷い偏食で癇癪持ちで兎に角寝ない子供だった。 一日中火がついたように身体を仰け反らせて泣き喚き、抱かれるのを嫌がり、この世の全てが気に食わないのだと全身で主張するように地団駄を踏んで物を投げつけた。 一歳六ヶ月健診で言葉の遅れと多動傾向を指摘されてからは市の療育センターに通っているが、抱っこ紐は勿論のこと、自転車のシートに乗せるのもひと苦労だ。 同じように一歳六ヶ月健診で発達の問題を指摘された子供達の中でも涼介は明らかに異質で、ひとりだけ怪獣の赤ん坊のようだった。 買い物に行っても涼介が階段に登りたいと言い出せば三十分以上登ったり降りたりを繰り返し、満足するとようやく買い物がスタートする。 あれが欲しいこれが欲しいと言う涼介を宥め「うん、欲しいね。食べたいよね。でも今日は買わないよ」と言おうものなら床を転がり回る全身モップの完成だ。 しかし、ここで癇癪に屈してお菓子を買い与えようものならば、癇癪を起こせばお母さんはお菓子を買ってくれる、お菓子を買ってくれないのは癇癪の強さが足りないからだと誤学習するので決して屈してはならないのだと、ペアレントトレーニングで講師をしていた児童発達心理学の偉い大学の先生が仰っていた。 真面目で律儀な奈緒子はいついかなる場合でもこの言いつけを守っている。 「うん、欲しいねぇ。でも買わないからね。ほら立って」 「イヤッ!イヤッ!」 うるさい。 躾の出来ないバカ親。 みっともない。 うちの子は絶対こんなことしなかった。 これだから最近の若い母親は。 「……涼介、帰ろう」 冷たい視線が、無言の圧力が奈緒子の全身に突き刺さる。 奈緒子は今日の分の買い物を諦めて手早く籠の中身を棚に返すと、顔を真っ赤にして仰け反って泣き叫ぶ涼介を横抱きにして、逃げるようにスーパーを後にした。 激しい抵抗に合いながらも自転車置き場へ向かい、身を捩って甲高い声で泣き叫ぶ涼介を無理矢理自転車のシートに括り付ける。 ベルトが上手く嵌められず悪戦苦闘していると、涼介が暴れた拍子に自転車が倒れそうになり、奈緒子は慌てて自転車ごと涼介を抱き留めすんでのところで転倒を防いだ。 「どうして!?どうしてお母さんの言うことを聞いてくれないの!?」 奈緒子が思わず金切り声をあげると、涼介は引きつけを起こしたようにしゃくりあげ、耳をつんざくような声で涼介が泣き始めた。 あぁ、まただ。 怒鳴ったりしたらいけないのに。 またやってしまった。 この子だって癇癪を起こす理由があるのに。 自転車ごと倒れそうになって怖い思いをしたのだからまずその気持ちを受け止めてあげなくてはいけなかった。 最低だ。私は最低の母親だ。 きちんとこの子の気持ちを聞いてあげないといけないのに。 出来ない。 私には出来ない。 私は、私はダメな母親だ。 今日の療育も涼介だけお遊戯の真似事すら出来ず、積み木もまともに出来ず、片付けを嫌がりずっと泣いていた。 今日の分の買い物も出来なかった。 今夜の夕飯はどうしよう。 夫はきっと、また出来合い?と嫌な顔をするだろう。 涼介はまだ泣き止まない。 泣き止ませないといけない。 疲れた。 もう疲れた。 消えたい。 消えてしまいたい。 可愛くない。 子供なんて全然可愛くない。 誰か代わりに育てて欲しい。 でも、こんな育てにくい子、私以外の誰が育ててくれるだろう。 「あの、すみません。大丈夫ですか?」 涙でぼやける視界の中に立っていたのは真っ黒な細身のスーツを着た酷く痩せた猫背の男だった。 奈緒子が顔をあげると男は「どうも、希死田と申します」と仰々しく自己紹介した。 「キシダさん、ですか。宗教勧誘の類であれば間に合ってます。うちお金ないですし」 宗教勧誘の撃退は慣れっこだった。彼らは不幸そうな顔つきをした人間に狙いを定めてくる。 「僕は宗教勧誘の人じゃありませんよ。希死念慮の希死田です」 「……キシネンリョ?」 男は「以後お見知りおきを」と律儀に名刺のようなものを差し出した。 男の差し出した名刺には明朝体で希死念慮の希死田と書かれていた。 「あの、こういうの困ります」 「僕達、また会えますよ」 希死田は癖のある長い前髪の隙間から少し充血した三白眼気味の鋭い瞳で値踏みするように奈緒子をじとりと見た。 「……貴方、なんなんですか?」 「貴方が死にたいと願った時、またお会いしましょう」 希死田と名乗る男は芝居がかった仕草で右足を後ろに引き、右手を体に添えて左手を横方向へ水平に差し出すようにしてと恭しく挨拶すると、奈緒子が瞬きをしたほんの一瞬に煙のように消え失せた。 それが奈緒子と希死田の、最初の出会いだった。
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