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「雪、ふらないかなぁ」
隣を歩いていた彼女がポツリとそう呟いた時、僕は彼女が言い間違いをしたのだと思った。普通に考えれば、僕が聞き間違いをしたのだと思うのが当然なのだろうけど、なぜかその時は確かに僕はそう思った。
「雪、ねぇ……」
彼女とは目を合わせず、僕も空に向かって呟く。
雪。雪。雪。
小さい頃は雪が降るこの季節が待ち遠しかった。見慣れた景色が雪が降るだけで遠くの知らない町のような空気に変わるこの季節が。
しかし今は足元に横たわりたくさんの人に踏みつけられ、べしゃべしゃに溶け、足を運ぶたびにアスファルトから僕の靴に向かって最後の力を振り絞るように手を伸ばしてくる雪の成れの果て。その様子だけでも不快なのに、靴の側面から染み込んでくる冷たい雪の執念が僕を不愉快にもさせていく。
こんな季節が待ち遠しかっただなんて、子供時代はどれだけ自分に都合のよい部分だけを享受し続けて生きていたのか。あの頃に戻りたいと思わなくもないけれど、何も知らない幸せと、知ってしまった不幸せと、どちらが本当の幸せなのだろう。なんてことも考える。
僕の目の前では希望に満ち満ちているかのように白く、軽やかに、天空からチラチラと雪の結晶が舞い降りてきていた。
これでもかというくらい存在を主張している雪の努力もむなしく、彼女ははぁっと白い息をひとつ吐いた後、空を見上げながらこう言った。
「雪、ふるといいんだけどなぁ」
そして僕はもう一度空に向かって呟いた。
「雪……ねぇ……」
僕と彼女がすれ違いはじめたのはいつの頃からだっただろう。
考えてみたけれどよくわからない。
ただどの季節であったとしても、彼女のことを考える度に僕の頭の中に『雪』がちらつく。
雪。雪。雪。
その時「雪、ふらないかな……」と言うと同時に彼女がピタリと足を止めた。
雪。雪。雪。
チラチラと舞っていた雪の数はさっきよりも増え、チラチラを超えてしんしんと降り注いでいる。しかし、彼女はこの雪に気がついていないかのようで、雪が降ることを望んでいるみたいだった。
僕も足を止め、そのことを指摘するわけでもなく彼女の視線の先に向かって呟いた。
「雪……ねぇ……」
彼女の頭、肩、カバンの上に雪が積もっていく。
雪の白さとは対照的に彼女の頬が赤く、赤く染まっていく。
彼女の体温で溶けた雪が彼女の涙と交わって、彼女の頬を滑り落ちて白い地面に小さな穴をぽつりとひとつ。ふたつ。そしてみっつ。
「雪が降ったら会いに来るって言ったくせに。うそつき」
僕は確かに彼女とそんな約束をした。雪が降る前の季節に。
雪が降る季節には彼女に会えないだろうということが分かっていたにもかかわらず僕が彼女と約束を交わしたのは、僕という存在を一分一秒でも長く彼女の中に留めたかったから。そんな卑怯な真似をしてでも僕は彼女に僕という存在を覚えていて欲しかったんだ。
「雪……ねぇ」
僕は雪が降っているときだけじゃなく、いつだって君の傍にいるんだけどな。
なんてことを言ってみても、彼女の耳には届かないんだろうけど。
<終>
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