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右前方に小さな房の集合体がふいに現れた。それは光なのかもしれない。それが光なのか、はたまた影なのか、わからない。房の集合体はすぐに意識全体へと広がった。房が広がるのは一瞬だった。脳内一杯が房で満たされた時、目前が白色に変わった。するとすぐに強烈な寒気に襲われた。自分の歯音が絶え間なく耳に届く程に、絶え間ない寒気を感じた。そこでやっと私は自分が覚醒していることに気が付いた。これまでの人生の中で最も不快な目覚めだった。手を伸ばすも、その手は何にも触れることはなかった。目を開けるとやっと生きている実感がやってきた。受肉という言葉が最もふさわしいような目覚めだった。高い天井に照らされたスリガラスの天窓のアールヌーボ―調の格子が目に入った。上体を起こすのに一分近くかかっただろうか。驚く程に体が重い。上体を持ちあげたことで、視界が変わるとその先には先ほどの天窓とは違う模様をあしらった格子の巨大な窓が整然とならび、視界の左右には延々と、私が寝ていたベッドと同じものがずらりと並んでいる。そのベッドと窓は二十メートル以上に渡って連なっていた。視力の悪い私にはその壁の端まで見渡すことはできなかった。ここは病院だ。それもとても巨大な空間にベッドが所狭しと、列をなしている。窓の外には雲海が広がっているのが見えた。あの太陽は朝焼けの靄なのか、それとも沈みゆく夕日の一瞬の景色を切り取ったものなのか。今の時刻がわからない私にはそれを判別するすべはなかった。ここが病院で、私はそのベッドで寝ていたということだけが事実だった。しばらくして外の景色が明るくなり、雲海が霧散していったため、私が先ほどまで見ていたのは朝焼けだったのだとわかった。恐る恐る立ち上がると、歩行に慣れない私の足元にはかわいいピンク色のスリッパがそろえて置いてある。ふらつきながらも私はスリッパに足を入れて立ち上がった。改めてこの病院の天井は極めて高く、左右の壁と同じように私の視力では天井の縁はぼんやりとしている。きれいに磨かれた正木張りに敷き詰められた格調高いフローリングはここが病院であることを忘れさせた。立ち上がった視線の先には鬱蒼とした山林が続いている。その木々の先には巨大な山領が遠くに見え、頂部には雲が挽かれて、雪化粧が施されている。 (ここは病院で、私は寝ていたのだ。たぶん外は病院の中よりもずっと寒いのだろう。私はなぜ病院で寝ていたのだろうか。)  頭には疑問が次々に浮かびあがっては、その答えを持たない私の頭上を通りすぎていった。気温だけでなく私は薄ら寒い気持ちになった。覚醒してから何も音が聞こえないのだ。人の気配はするはずもない。 「すみませーん。誰かいませんかー。」  そう声を上げてみても、私の声だけが広い病院のワンフロアに響きわたった。私は病院のフロアを歩き回ってみたが、誰にも出会うことはなかった。 (この病院はなんのための施設なのだろう。なぜ誰も人がいないのか?)  病院内に一人きりというのは、気味が悪い。廊下への出入り口の重厚な扉。廊下に設置された綺麗に磨きあげられた装飾品や、壁に等間隔で取り付けられたライトなど、高級そうにみえる内装が無人の空間をさらに不気味に染め上げている。これまで寝ていたベッドに戻ると、日は完全に昇り、太陽は頭上まで来ていた。ふとベッドの横の小さな棚の上に便箋が置かれていることに気が付いた。目覚めたときには気が付かなかった便箋だった。 (なんだろう。)  手に取った便箋はシンプルなものでおもて面に【妙子へ】と書いてある。私は妙子だった。その文字を見て私ははっと思い出した。 『妙子へ 母です。おはよう。今この手紙を読んでいるということは、妙子、あなたは目が覚めたのですね。よかった。まずは目が覚めたことにおめでとうと伝えたいです。一人でこのサナトリウムのベッドで寝ていることに驚いたことと思います。ただ、妙子がどのようなタイミングで目覚めたのかお母さんにはわかりませんが、あなたが直面している現実を悲観せずに強く生き続けてください。この手紙をお母さんが書いているのは、あなたが事故に遇ってから六年後のことです。そうです。あなたは六年前に交通事故に遇いました。それはひどい事故でした。無謀な運転をしていた若者の自動車が大学へ向かって歩いているあなたへとぶつかってきたのです。その若者は無事でしたが、あなたは大けがを負い、不幸なことに頭を強く打ち、意識不明の状態となり、その後目を覚ますことはありませんでした。私は深い悲しみに震えました。そしてその若者のことを決して許すことはできませんでした。あなたは息をして生きています。ただ決して目を覚ますことはありませんでした。今この手紙を読めていることに私はとてもうれしく思っています。心の底から。ただ、お母さんはもう二度とあなたに会うことはできません。それはお母さんにとってもとても残念で悲しいことです。ごめんなさい。お母さんはもうこの地球にはいません。どれだけあなたに誤ってもあなたは許してはくれないでしょう。それでもあなたは目を覚ましたのだから強く生きてください。あなたの事故とは関係のないことですが、今からちょうど一年前に地球の遥か彼方、三光年先で超新星爆発が起きました。それは何の前触れもなかったことです。日本では地球上のすべての人類が悲観にくれました。それは爆発した超新星が発する電磁波の雨が地球上に降りかかるから。その電磁波の雨は地球上のあらゆる生命を死へと追いやるということがわかっています。ごめんなさい。地球上でその雨を避けることは決してできないのです。強力な電磁波はいくら建物の中にいたとしても透過してしまうのだから。地球上に逃げ場はなかったのです。人類は地球の外へと移住することを選びました。一年で電磁波が地球へ到達し、人類は消滅します。どうやって消滅するのかはここでは明言しません。ただ、消滅してしまうのです。皆、お母さんを含め周囲の人は皆、船に乗って地球外へと移住することにしました。この短時間ですべての人類が移住するには時間もインフラも何もかもが足りませんでした。移住できなかった人類は皆、自死を選び、そのためのマニュアルなるものも流通し、それはよりスムーズな消滅へとつながりました。移住できない人はそのマニュアルに従って消えていったのです。ただ、あなたを自死させることなど私には絶対にできなかった。私があなたを殺してしまうという選択肢などなかった。ごめんなさい。私のわがままを許してください。お母さんは地球外にいるけれど、できうる限りあなたは長く生き延びてください。あなたはなんとしても。ごめんなさい。母』  手紙の途中、一ページ目が終わったところあたりから、冷や汗が噴出して、止まらなくなっていた。手は汗で濡れ、手紙には汗なのか涙なのかわからない体液でべったりと湿り、文字がにじんでいた。 「ふぁ、ふぁい、ふぁああ。このっ、このっ。」  理解できない罵詈雑言の言霊が口をついて出てきた。母はとんでもない爆弾を私に残していた。意識を取り戻した途端にすでに死の超新星の影がすぐそこまで来ている。私は俄かに母の手紙の内容を信じることができなかった。母のこと、あまり思い出せない。まだ意識が混濁しているのかもしれない。ただ母はそういう人だった。それは覚えている。自己愛の強い人だった。貴族の子女の出だから、それはずっと昔から変わらない母の性質だった。お嬢様の母はいつまでも若い娘のままだった。それは実の娘の前でも変わらない。母は私に安らかな死すら与えてくれなかった。やっと記憶を取り戻しはじめてきた。ただ、記憶が戻ったところで現在の境遇がなにも変わることはない。母の手紙には一年前の五月十日の日付が記されている。超新星爆発による電磁波の雨が地球に降り注ぐまで長く見積もってもあと十日。それが私に残された新しい寿命だった。
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