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誰かこの地球上に生きている人はいないのか。私は混乱した。 「おーい、おーい。」  大声を上げても声は消えていく。窓の外を見ると私が今いる場所が二階であることがわかった。私は広い病室から廊下に出た。一直線に伸びた廊下の右側にはやはり窓が並んでおり太陽光を存分に室内に取り込んでいる。あたたかな陽光を浴びた病院は全体が温室のようだった、温室には誰もいない。私は廊下を走った。延々と続く長い廊下を走り切った突き当りに、やっと一階へ降りる階段があった。階段の途中で、転びそうになった。白い病院着は生地が薄く、走り回って出た汗が冷えてさらに寒くなってきた。私はさっきまで寝転んでいたベッドの横に小さな古びた衣装ダンスがあることを思い出し、ベッドまでもどった。タンスを開けると上段には長袖のシャツがきれいに畳んで敷き詰められており、真ん中の段には様々な色のスカートがあった。どれも一度も使用したことがないようなきれいなものだった。私は白いブラウスと、膝丈の黒いスカートを選んだ。靴下は白いフリルのついたものしかなかった。ベッドの横には姿見の鏡があり、正面に立ち、その中を覗きこむと、なぜか気持ちが少し和らいだ。そこには昔から知っている古くからの友人の姿が映っていたのだから。一番下のタンスを開けると、黒いかわいらしい小さな革靴が置いてあった。履いてみるとそれはおあつらえ向きのように、私の足にフィットした。私は母の残した手紙をもって再び廊下に出て、走った。再び階段のところまで来ると風のように私は階下へと降りていった。前につんのめりそうになった瞬間に一階に着いた。一階にも病室があったが、二階の配置とは異なり、扉のある閉ざされた部屋がいくつかあった。院長や看護婦のための部屋だったのだろう。覗いてみると、一つの部屋には大きな椅子と机が並べられていた。ただもちろんにはかつていたはずの医師や看護婦の姿はみえない。 「誰かいませんかー。」  声を張り上げても、その声は虚空に消える。ここには誰もいない。私はサナトリウムの外に出た。二階の窓からも見えていたが外に出ると美しい景色が広がっていた。目の前にはいくつもの山脈が連なっており、澄んだ空には先ほどまで漂っていた雲は無くなっていた。振り返ると背後にはさらに槍のように鋭利なピークを持った山塊がこのサナトリウムの後ろに陣取っていた。改めて極めて急峻な場所にこの療養所が建てられていることに感嘆のため息がこぼれた。数メートル先の崖の縁に木製の細長いベンチと机が置かれている。私はそこに腰掛けると、無心でその景色を眺めた。山々はこんなにも美しく、駒草が可憐な花を咲かせている。よく見ると高原の花畑のようだった。こんなにも美しいのに後、数日で地球上の生命は滅びるのだろう。ただ一人残された私とともに。涙が頬を流れた。不意に目前に弟の顔、そして母の顔が現れ、さらには一人の男性の顔が浮かびあがった。ふと思い出したその顔は結婚を約束した男の顔だった。ああ、私は結婚を約束した人がいたのだったという記憶が戻ってきた。走り周り動いたことで、睡眠状態だった脳が活発化してきたのかもしれない。ただ、その婚約者らしき男の顔を思いだすことはできず、脳内に霞がかかったようだった。ただ母の顔だけははっきりと思い出すことができる。鏡に映った私の姿は脳内の母と瓜二つであった。私の姿は若いころの母に類似していた。母は私のことを愛していたのだろうか。自分に似た小さな自分を愛でていただけではなかったのか。私が成長し、進学のため家を出ると母の興味は私から完全に離れていったように思う。これ幸いと私はこれまでの鬱屈した感情を発散するがごとく大学生活を謳歌したわけである。婚約者とは大学で出会った年齢が一つ上の大学生だった。その日々が楽しかったことだけは今でも覚えている。だが、その婚約者の顔にはまだ靄がかかっており、思い出すことはやはりできないのだった。
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