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 吹きすさぶ森タワーの屋上から、彼らは燃あがる六本木ヒルズレジデンスを眺めていた。  ミチルは脱力したようにぺたんとその場に座り込んだまま、夜空に揺れるアビルのカーテンを見上げていた。 「かなくん、だいじょうぶぅ?」  兎みたいな真赤な眼の千春が、不安そうに奏多に歩み寄る。 「僕は大丈夫だから、ちーちゃんは裏道さんに付いててあげてよ」  小さくうなずいた千春は、友人の元へ駆け寄っていく。  昇は予想以上に力を使い過ぎたらしく、リバウンドで大量の鼻血が出ていた。さすがにこの人数でのジャンプはオーバーワークだったらしい。 「……無茶ばかりさせて、ごめん」 「ったく、どっちが無茶なんだよ。奏多の背中に比べりゃ、この程度どうってことねぇよ。次あんなことしたら絶交だかんな!」 「うん、もう絶対にしないよ」  苦笑いを浮かべる奏多の向かいで、「あははははっ」生還を喜ぶ男が快活に哄笑。 「いやいや、助かったよ。情緒不安定な姪でね。危うく焼き殺されてしまうところだった」  不愉快な声音が夜を揺らすと、奏多は男を睨みつけた。  裏道京太郎は彼らが何も知らないと思っているのだろう。自分を正当化する言葉を並べ立てては、姪である彼女を蔑んだ。頭のおかしな女だと嘲笑っている。 「すぐに警察に通報して、このイカれた女を逮捕してもらわないとな」  奏多は怒りに拳を握りしめ、昇は獰猛な獣のように奥歯を噛んだ。千春はミチルを守るようにそっと両腕で包み込む。誰もが我慢の限界だった。 「捕まるのはお前の方だ、裏道京太郎!」  目じりを険しく吊り上げた少年が吠える。 「は……? 君は状況がわかっていないみたいだね。家に火をつけて私を殺そうとしたのはそこの女――」 「彼女の父親を殺したのはあんただろ!」  男の言葉を遮り、奏多は声を張り上げた。 「こっちは全部まるっとさっくり知ってんだぜ、おっさん! てめぇらが妙な装置、アビルゲートとかいう訳のわからねぇ玩具で遊んでることもな!」  あんぐりと大口を開け、彼らの顔を順に見比べた男は、「なるほど……。なんだ、ああ……そういうことか……」ぶつぶつと何かを呟いていた。 「もういい加減観念したらどうなんだよ、おっさん!」 「……で、証拠は? 私がそこの女の父親を、兄を殺した証拠でもあるのか?」 「この期に及んでまだ言い逃れをするつもりか?」 「では聞くが、自宅に火をつけ、私やそこで伸びている私の部下を焼き殺そうとした女と私。世間はどちらを信じると思う? それに兄が残した書類は全部、あの阿呆な女が燃やしてくれたよ。つまり、証拠はなにも残っていないというわけだ」  すっかり機密書類のことを忘れていた奏多と昇は、やってしまったと顔を見合わせた。 「あら、書類ならあるわよ」  しかし、やられっぱなしは性に合わないと、勝ち気な少女が反撃の狼煙を上げる。 「嘘をつくなっ! 書類はたしかにあの部屋の中で灰になった! 私はこの目で見たんだ」 「ええ、そうね。でもあれは私が印刷しただけの紙切れよ? トリック製薬の汚職やアビルゲートに関するデータが入ったUSBメモリは、ちゃんとここにあるわ」  立ち上がったミチルが男にも見えるように、顔の横でUSBスティックを掲げる。  そのことにほっとした彼らの表情が和らいでいく。 「くっ……だがっ! そこに私が兄を殺した事実など書かれていない。それともなにか、死人が私に殺されたとでも書いたというのか? 馬鹿馬鹿しい。それに汚職などいくらでも揉み消せる」 「本当にあんたは最低だな。裏道さんがあんたを殺したいと思ったこと、不本意だけど納得してしまうよ」 「ふんっ、なんとでも言え。捕まるのは私ではなく、そこの放火魔だ!」 「あら、それはどうかしら?」  そこには人を食ったような顔の、いつもの裏道さんがいた。彼女は徐ろにスマートフォンを取り出すと、それを手早く操作した。 『――父親の死に様を知っているかぁ? やつがアビルゲートでアビルの中に入っている間に、私と間宮で四本目のソウルエナジーを打ち込んでやったのだ。やつは自分が死んだことにすら気付かず、阿呆面さらして逝きやがった! とんだ間抜け野郎だ! この家に覚醒剤を仕込んだのも私だよ。世間的には自然死とされてしまったが、今となってはどっちでもいい』  スマートフォンからは裏道京太郎の音声が流れた。殺害をほのめかす確かな証拠だ。 「バカ……な」 「ボイスレコーダーも知らないなんて、とんだまぬけね」  目をむき出しにしたまま口をポカーンと開き、両手をだらりとぶら下げたまま固まる京太郎。もしも美術の課題でまぬけを絵に描けと言われたなら、奏多は迷わず眼前の男を描くだろうなと思った。 「終わったな」  千春の元に歩き出す昇は、あばよと背中越しに手を振っていた。奏多はミチルにそっと微笑み、よくやったと頷いていた。  しかし次の瞬間、勝利を確信したはずのミチルの表情が恐怖に歪んだ。 「逃げてぇっ、天道くん!?」 「へ……?」  彼女の張り裂けんばかりの声が意識の内側に届いたときには、奏多はすでに京太郎に羽交い締めにされていた。 「動くなっ! 一歩でも動いたらこのガキを殺す! わかったら今すぐにそれを渡せ!」  奏多は背後から左腕で首を絞められ、首筋にナイフを突きつけられていた。 「この野郎っ! 奏多を離しやがれぇっ!」 「お願い、かなくんに乱暴しないでぇ!」 「天道くん」 「ガタガタ騒ぐな鬱陶しい! いいか? おとなしくスマホとUSBをこちらへ渡せ。そうすれば誰も傷つかずに済む。拒めばこの糞ガキは死ぬ。どちらを選ぶかはお前の自由だ、ミチル」  耳元でがなり立てるおぞましい声音に、奏多は悪感情を抱いていく。ほんのわずかだが、奏多の中にも京太郎に対する殺意が芽生えようとしていた。  友人と叔父を交互に見た少女は肩を落とし、諦めたように息を吐き出す。 「裏道の判断は正しかった。この糞野郎はぶっ殺しておくべきだったんだ!」 「もう……手遅れよ」  昇の激情に首を横に振ったミチルが、うなだれるように足下に視線を落す。 「これを壊されてしまえば……どうしようもないもの」 「そんなことはねぇ! 俺っちが代わりにあの糞野郎をぶっ殺してやる!」  じっと奏多を見つめるミチルが、儚げに微笑んだ。 「天道くん、やっぱりハッピーエンドなんてどこにもないわ」  ゆっくりと思い足取りで二人の元に歩きだす少女。 「それでいい、渡せばこのガキはすぐに開放してやる」  手を伸ばす京太郎に、ミチルは悔しそうに奥歯を噛みしめて、そっと目を伏せた。  すべてを諦めてしまったような暗い顔の少女に、少年は言う。 「裏道さん、上を見て」 「え……?」 「もう一度言うよ、天と地の間にはお前の哲学などには思いもよらぬ出来事があるのだ」  はっと息を呑んだ少女が空を見上げる。  そこには夜空一面を覆ったアビルのカーテンが揺れていた。 「天道くん、あなた……まさか!?」 「決着をつけてくるよ」  少年は勇ましく笑った。  さらば、彼女は潤んだ瞳で小さくうなずいた。 「天道くん、絶対に帰ってきて。そうすれば天道くんが嫌がるほど謝罪してあげるから」 「その言葉、絶対に忘れるなよ」  二人ははじめて笑顔を交わした。 「なにをごちゃごちゃ言ってるっ! 早くそれを寄越せ!」 「お前はもう終わりだ、裏道京太郎!」 「は? 終わってるのは貴様だこのまぬけがァッ!」 「そいつはどうかな? パンドラボックス、発動!」  天道奏多の魂が肉体から剥がれ落ちていく。彼に触れていた裏道京太郎の魂を伴い、選ばれしシェルパは天にそびえ揺らめくアビルへと、迷える魂を誘うのだ。
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