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 どれくらいの時間、二人は黙り込んでいたのだろう。  普段は近寄りがたいクラスメイトが、今は気が滅入ったように窓の外を見上げていた。  その横顔はゾッとするほど美しかったのだが、彼にはとても悲しそうにも見えていた。  家族連れで賑やかなはずの店内も、心なしか静寂に包まれている気がする。それくらい彼の頭の中には様々な物事があふれ返っており、どうすべきなのかと判断に迷っていた。  カラン――グラスの中で氷が甲高い音を立てた。ゆっくり窓の外からテーブルの上に置かれたグラスに視線を戻した彼女は、虚ろな目でグラスの縁に指先をそえる。それから物憂げな面持ちでグラスの縁をなでた。 「天道くん」  耳をすましていなければ聞き逃してしまうほど小さな声で囁く彼女に、「なに?」突然名前を呼ばれてあたふたする少年が返事をする。  こんなことはあまり言いたくないのだけれどと前置きをしてから、彼女が気まずそうに口にする。 「生活費に困っているのよね? 田舎とはいえ、あれだけの自宅を維持するとなれば、固定資産税だけで相当な出費になるのではないかしら?」 「そう……だね」  図星だった。 「さっきも言ったけれど、私の父は製薬会社を経営していたわ。私には一生かかっても使いきれないほどの莫大な遺産が、その……」  奏多は彼女の言おうとすることを察していた。彼女に協力したなら、自分の悩みを彼女が解決してくれるのだろうと。  祖父と暮らした思いでの詰まった家を奏多だって手放したくはない。もしも叶うのであれば、あの家で生涯を過ごしたいと考えている。  けれど、それは叶わない。  彼のささやかな夢は、支払いという名の現実に阻まれる運命なのだ。  しかし、いま彼女に協力すると名乗り出れば、そんな彼の夢を守り抜くことが可能だ。  私利私欲のためにすべてを投げ捨てることができたなら、どれほど楽だったのだろう。  しかし、天道奏多にはそれができない。  自身の願望を叶えるため、目の前のクラスメイトがさらなる悲しみに見舞われるかもしれないと、わかっていながら引き受けることが彼にはできなかった。 「ごめん」  張り裂けそうな胸を抑えつけながら、奏多は頭を垂れた。 「理由を聞かせてもらっても構わないかしら?」 「裏道さんの言っていることを疑っているわけじゃないよ。だけど、仮に本当に亡くなったお父さんに会えたとしても、それは悲しみを増すことにしかならないと思うんだ」 「天道くんは、優しいのね」  ミチルは小さく微笑み、俯いた。  その儚げな笑顔に奏多の胸はぎしぎしと鈍い音を立てる。罪悪感に似た感情が胸をしめつけていく。しかし次の瞬間、顔を上げた彼女はいつもの凛々しい表情に戻っていた。先程までの儚げな表情が嘘だったように、その顔は自信に満ちていた。 「私が父に会いたい理由が一目だけでも会いたいという子供じみた理由じゃなかったとしたら、天道くんの気持ちも少しは変わるのかしら?」 「ん……どういうこと?」 「天道くんはこう考えているんじゃないかしら。天涯孤独になった私が寂しさのあまり父に会いたいと願い、ロミオのあとを追いかけた悲劇のジュリエットのようだと……」 「違うの?」  彼女は口許に手を当てながら愉快そうに肩を揺らすと、「全然違うわ!」力強く否定した。 「たしかに私は父を愛していたわ。だって大切な家族だもの、当然よね? だけど、さっきも説明したように、人は死んだら魂となり、アビルへ還るの。これはつまり、いずれ私も父と同じ空間に誘われるということでもあるの。別にいますぐ父に会いに行く必要がどこにあるというのかしら?」 「いや、だったらなおさら僕は必要ないじゃないか。裏道さんの言っていることはチグハグだ、まるでネズミが食べ散らかしたチーズみたいに穴だらけだよ」  それは私の言い方が鼻につくという意味かしら? 彼女が口をへの字に曲げた。  別にそういう意味で言ったわけではないと訂正する彼に、彼女はまぁいいわと一瞥くれる。 「天道くん、もう少し頭を働かせて考えてみてもらえるかしら? どうして私がいま、父に会いたいと言っているのかを。これはロミオとジュリエットのような、ただ悲しいだけの悲劇の物語ではないのよ? それにあの話、私嫌いなのよね」  四大悲劇のひとつ、ロミオとジュリエットを嫌いだと言い張った彼女は、肩にかかった黒髪を手で払いのけ、脚を組み替える。それと同時に腕を組み、「だから天道くんが気に病むことなんて何ひとつないの」と言い切った。  されど、奏多にはわからない。  亡くなった人が恋しくて会いたい訳ではないのなら、なぜ彼女は〝今〟父に会いたいのだろう。いまでなければダメな理由。わざわざ自分を見つけ出し、引っ越して来るほどの理由とはなんなのだろう。考えても奏多にはわからなかった。 「その理由ってのを聞いてもいいかな?」 「嫌よ!」  考える素振りも見せない程の即答だった。 「嫌って……」 「天道くんはプライバシーという言葉を知らないのかしら?」  最もな正論を投げつけてくる彼女だが、今の今まで赤裸々になんでもかんでも話していたじゃないかと、奏多は怪訝に眉をひそめる。 「そんな不動明王みたいな顔をしてもダメなものはダメよ」 「誰が不動明王だよ! 僕は仏教徒じゃないんだけど」 「誰も天道くんが仏教徒だなんて言ってないわよ。それに、なんでもかんでも聞けば答えるなんて思わないことね。私はこう見えても仏ではないのよ」 「こう見えてもの意味が全然わからないよ。裏道さんはどう見ても仏陀には見えないよ」 「天道くんに下着の色を聞かれたとしても、私が答えることはないということよ。だから天道くんもそのつもりでいてもらえると助かるわ」 「誰もそんなこと聞くわけないだろ! 僕は変態じゃないんだ!」 「あら、これまた意外だわ。天道くんがそっちの世界の住人だったなんて。でもひとつ納得したわ。通りで私のすべてを差し出すといっても頑なに首を縦に振らなかったのね」 「なっ、僕はゲイじゃない!」  立ち上がると同時に力いっぱい否定した言霊が店内に響き渡ると――ガシャン!? ウエイトレスがグラスを床に落としてしまう。数秒固まって少年を見るウエイトレス。店内に居合わせたすべての視線が疑惑の少年に注がれてしまう。 「ママ、ゲイってなぁ~に?」「あのお兄ちゃんゲイなの?」「見ちゃいけません」「ご、ごゆっくり」  耳を塞ぎたくなるような声音があちこちから聞こえてくる。ウエイトレスは愛想笑いを浮かべながら逃げるようにキッチンへ逃亡。少年の顔からは火が噴き出し、やがて沈没船のように席に沈み込んでいく。 「天道くん、いくらなんでも少し大胆すぎるわ。こっちまで恥ずかしくなるようなカミングアウトは時と場所をわきまえることをおすすめしておくわ」 「誰のせいだよ! つーかカミングアウトってなんだよ! 違うからな!」 「そんなことはどうでもいいの。問題は天道くんがこの依頼を引き受けてくれるかどうかが重要なことだもの」  ――話を脱線させたり戻したり、まさか僕をおちょくってる訳じゃないだろうな。 「いまはなんとも言えないよ」  奏多は少し語気を強めた。 「そう、でもそれは先程と違って見込みがないというわけではないのよね? 安心したわ」 「……」  奏多は何も答えなかった。 「さて、陽も完全に暮れてきたみたいだし、そろそろ出ましょうか?」  彼女に促される形で奏多も窓の外に目を向ける。外はすっかり夜の帳が下りていた。
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