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 風呂から上がると幼馴染の姿はなかった。 「綾瀬さんなら帰ったわよ」  縁側の柱にもたれ掛かった少女は、幻想的なカーテンを纏った夜を見上げていた。 「で、お前はいつまで(ここ)に居座る気なんだよ」  わずかに頬を緩ませた彼女に視線を流しながら少年が問いかけると、月に手を伸ばした彼女が「それは天道くん次第じゃないかしら?」と言った。 「僕、次第か……。ならせめて何のためにお父さんに会うのか教えてもらえないか?」 「天道くんが知る必要のないことよ。プライベートなことだもの」 「なら質問を変えるけどさ、ここまではすべて裏道さんの予定通りなの?」  じっと少年の目を見つめた少女が「あら、なんのことかしら?」平然と言ってのけた。 「惚けても無駄だよ」  ――考えてみればすべてがおかしかった。 「部屋のカレンダーの印。あれは今日が決行の時ということか? いつから付けていた?」 「天道くんが何を言ってるのか分からないわ」 「入学してからずっとクラスメイトに冷たい態度を取り続けたのも、本当は孤立する状況を作り、さっきの言い訳をちーちゃんに言うためだったんじゃないのか? あの時ファミレスで掌を叩きつけたのは、このことに僕が気づいてしまうと思ったからか?」 「だから、何を言っているのか分からないわよ!」  語気を強めた少女に、「僕は、裏道さんが分からないよ」と少年は言った。 「ええ、それでいいのよ」  少女からはとても悲しそうな声音が返ってくる。  少年は呆れるように嘆息し、やがて少女の隣に腰を下ろす。そして同じように空を見上げた。直に夏が訪れる六月の夜風は思ったよりもじめじめしていて、蒸し暑さが肌にまとわりつき、少年は少し不快に思った。そんな不快な気分を一掃するように、甘い薫りが鼻先をなでる。少年はそっと少女に顔を向けた。  アビルが放つ神秘的な輝きに照らされた彼女の横顔は息を呑むほど美しく、見るものに大人びた印象を与える。きっと日本人離れした整った目鼻立ちのせいだろう。 「本当は一年前から、僕の住んでる場所を知ってたんじゃないのか?」  少年は独り言のように、空に向かって呟いた。 「どうしてそう思うのかしら?」 「いまのこの状況は裏道さんにとってあまりにも都合が良すぎるからね。祖父が亡くなって一ヶ月、生きてたらさすがにこんな真似できないでしょ?」 「……ええ、そうね」 「そこは素直に認めるのか」 「あら、私はいつだって素直よ?」 「どこがだよ」  呆れたように笑うと、少女も「ふふっ」と笑った。 「ここは時間がゆっくり流れるみたいで好きよ。忙しない東京とは別世界ね」 「田舎なだけだよ」 「天道くんとここでこうして語り合う未来にやって来るためには、この時期しかなかったのよ。独りになった天道くんは本当はすごく寂しいのよ? だから、なんだかんだ言いながら私をここに置いてくれるの。だけど今とは別の未来では、天道くんは来月には高校を中退して、どこか遠くの街に行ってしまうの。私の【可能性】は私の未来しか教えてくれないから、天道くんがどこに行ってしまったのか、探し出すことはたぶん無理ね……」  両手を天高く突き上げて背筋を伸ばした少女が、後ろ向きにゴロンと倒れ込む。その姿は気まぐれな猫のようだった。 「それより前だと、天道くんが言ったようにお祖父さんが一緒だから、やっぱりこうしてゆっくり話をする機会は訪れないわ」 「……そっか。僕はやっぱりこの家を手放すことになるのかな?」 「ええ、そういう【可能性】ばかりだったわ。天道くんは諦めるのが上手すぎるのよ。でも、手放さない【可能性】もあるわ」  少女は寝転んだまま視線だけを少年に合わせる。その瞳は驚くほど透き通っていた。 「裏道さんが僕を、この家を救ってくれるってことかい?」 「私は誰も救えないわよ。誰も……救えなかったもの」 「ずいぶん含みのある言い方をするんだね?」 「ミステリアスな女性が男性にモテると本で読んだことがあるのよ」 「意外だな。裏道さんがそんなことを気にする人だとは思わなかったよ」  「あら、そうかしら? 天道くんの気を引けるのなら、ミステリアスな女になるつもりよ?」  ――僕の気を引く……か。  自分に能力を使わせるためだと定義しないところが、実に彼女らしいと少年は思った。 「ひとつだけ、誤魔化さずに答えてほしいんだけど」 「……なにかしら?」 「裏道さんはこの物語の結末を知っているんだよね? なら、僕と裏道さんがこうして語り合う物語の結末は、ハッピーエンドなのかな?」  わずかに空白とも呼べる時間が流れた後、「ええ」溜息を吐き出すように相槌を打った。 「私が幸せになれる未来を、天道くんがバッドエンドだと言うのなら、ハッピーエンドとは言えないかもしれないけれど」 「僕はそこまでひねくれていないよ。裏道さんが幸せになれる未来が訪れるのなら、それは間違いなくハッピーエンドなんだと思う」 「ええ……そうね」  このとき、奏多は裏道ミチルをアビルの中に連れていくことを決意した。  それはこの家を守りたいから、いまの暮らしを失いたくないからとかではなく、彼女の幸せのために自分の力が役に立つのなら、そうするべきなんだと思ったからである。それが結果的に騙されていたとしても、自分を不幸にするためにこんな事をする人なんていないと思っていた。仮に彼女が幸せになることで自分が不幸になる未来が訪れたとしても、やはり天道奏多は裏道ミチルを幸せにしてあげたかった。  天道奏多とはそういう男の子なのだ。  奏多はミチルと同じように背中から倒れ込むと、闇に揺らめくアビルのカーテンを見上げた。淡い緑色が漂う光に手をかざした奏多は、そっとミチルへと手を差し出す。 「ありがとう、天道くん」  ミチルは奏多の方を見ることなく手を取ると、感謝の言葉を述べた。 「説明は不要みたいだね」 「ええ、何度も視たから知ってるわ」  ――彼女はここで僕がこうすることも、すべて最初から知っていたのだろうか……?  その答えを知るのはこの世で唯一、裏道ミチル本人だけである。  天道奏多の能力は幽体離脱と呼ばれる現象に似ている。能力を発動させると魂と肉体が分離し、魂――意識だけを別の場所に転送することが可能。その場所は必ずある場所に繋がっており、奏多はそれを自分の『心の中』、或いは妄想――パンドラボックスと名付けていた。  普段は奏多だけが行くことが可能なパンドラボックスだが、対象者に触れることで自分以外も連れていくことが可能だった。奏多は祖父の協力を得て、そのことを知っていた。 「行くよ?」 「ええ」  改めて決意を確認すると、少女からは力強い声音が返ってくる。それに応えるように少年も覚悟を決めた。  ――パンドラボックス、発動!
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