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黒い御札
「私のこと、大人になってもきっと忘れないでいてくれる?」
黒い髪に紺色の目をした青年、伽羅は思い出していた。
それは幼馴染の犀が、最後に告げた言葉。
思い浮かぶのは幼い犀の顔。
伽羅は幼い頃に犀と別れて、それから随分と大人になった。
かつての日々は、なつかしい思い出へと成り果てる。
あの日。犀は伽羅の前から姿を消した。
突然犀と会えなくなったあの頃。幼い伽羅は泣いていた。あの頃は事情なんて何もわからなかった。
けれど、今ならわかる。
犀がいなくなった理由は、優秀であるがゆえだ。
優秀であるがゆえに犀は、本家へと連れてゆかれたのだ。
けれどそんなことは、幼い伽羅にはわかるはずもなかった。
大人たちの都合なんて、子供には誰も話さない。伝えようとすらしなかった。
単に犀は、伽羅よりもずっと優秀だった。ただそれだけのことだ。
(私は犀にはなれなかったのか……)
噂によると犀は産まれた時から、妖を全く寄せ付けないほど強い力を持っていたらしい。
妖祓いが本業である本家、明けの一族にとっては、この上ないほど大切な存在だったのだろう。
物思いにふけって、伽羅は大きな窓の外を見る。
冬にも枯れぬ木々の黒い葉がゆれて。
雲の少ない青空の下、庭の土は青白い光で照らされている。
その庭は、かつて伽羅と犀がよく遊んでいた庭だ。
おにごっこをしたり、かくれんぼをしたり。
それはたった二人っきりの遊びだったけれど、伽羅にとってはかけがえのない楽しみだった。
数少ない娯楽のひとつだった。
その思い出がなんだかまぶしくて、伽羅は目をそむけた。
(寒い……)
庭に面したガラス戸の隙間から、こごえるような隙間風が入る。
背中が冷たい。
古い家だから、これも仕方のないことだ。
こたつ布団に肩まで潜ると、少しは寒さが落ち着く。
「ギャギャ、ギャギャギャギャ」
こたつにもぐる伽羅の目の前を何かが通り抜けた。
鳴き声が聞こえる。
インコのきゅーりさんは羽を広げ、机の上を走り回っている。
伽羅の様子には目もくれず、きゅーりさんは今日も元気そうだ。
部屋にはきゅーりさんと伽羅以外、誰もいない。
机の上のかご。
伽羅がその中から一つのみかんを手に取ると、きゅーりさんがやってきた。
きゅーりさんはみかんを凝視している。言うまでもないが、食べたいのだろう。
伽羅は、きゅーりさんにみかんをわけてやった。
嬉しそうにみかんをくわえるきゅーりさん。
小さなくちばしでみかんをついばむ姿は、いつ見ても可愛らしい。
伽羅がぼんやりとしていると、頭の中を昔のあたたかな記憶が流れてゆく。
幼い頃の犀の笑顔も、こんな風に愛らしかった。
伽羅が何でもない日常を過ごす今、犀はいったい何をしているのだろう。
(犀は……元気でいるのだろうか)
とりとめもなく伽羅は、そんなことを考えていた。
その時だった。
ふいに玄関のドアを叩く音が聞こえた。
こんこん、と規則正しく。五回。
来客だろうか。
伽羅の住む家は山奥だから、人が来るのはめずらしいことだった。
伽羅が玄関へと向かうと、後からきゅーりさんがやってきて肩に乗る。
きゅーりさんの動きは、いつもより活発だ。
「客が来たから、あとで遊んでやる」
そう言って伽羅が頭をなでてやると、きゅーりさんは怒る。
なぜきゅーりさんが怒っているのか、この時の伽羅にはわからなかった。
そうして玄関のドアの前。
すりガラスのその向こうに、誰かの影が見える。
「どちら様ですか?」
伽羅はぞんざいに声をかけた。
「犀だよ」
ドアの向こうのその影から、すぐさま返事が聞こえる。
その声はなつかしいようでいて、聞いたことのないもの。伽羅にはそのように思えた。
「久しぶりだね。俺のこと、覚えてる?」
伽羅がその声に耳をすますと、ふと昔の犀の顔が思い浮かぶ。
その顔は……笑顔で、いやこの顔は本当に犀なのだろうか。
伽羅は記憶の中の犀を思い出そうとした。
けれどなぜか、もやがかかったようではっきりと思い出せない。
そうして考えていた。
それは突然のことだった。
言いようのないぞっとした冷たさを、伽羅は感じ取った。
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