こしぬけ侍 無刀の構え

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   はじめに  前から取り組みたかったテーマですが、ようやく書き著すことができました。 ありがとうございます。 少しでもご満足いただければ幸いです。 どうぞ、お楽しみください。 免許皆伝 幼い恋心 予期せぬ出来事 良きことも悪しきことも 主君 時の移ろい    こしぬけ侍  無刀の構え           大空まえる    免許皆伝  「トオリャーッ!」 「チェストーッ!」 竹刀を打ち合う音と共に、威勢のいい気合が聞こえています。 ここは空穂無刀流の町道場なのです。 「トオーッ!」 「オオーッ!」 「トオリャーッ!」 「チェストーッ!」 「それまで!」 これよりは八段以上の者が師範代、尾上龍之介に稽古をつけてもらうのです。 双方、礼をして始めます。 龍之介は、正眼に構えるとピタリと動かなくなりました。目も閉じています。 その構えには一分の隙もありません。 いや、というより隙だらけのようにも見えるのです。しかし、打ち込めば途端に打ち込まれるように思えて恐いのです。これを、誘いの隙というのでしょうか。 「トオリャーッ!」 満を持して打ち込みます。 「オオーッ!」 それよりも一瞬早く小手を決めます。 「参りました。 ありがとうございました。」 他の者も次々に稽古をつけてもらいます。 師範代は、無刀流免許皆伝なのでした。 龍之介は五十二才。妻と四人の子に恵まれています。妻の名は美代、四十八才です。長男、清之介、二十二才。次男、清二郎、二十才。長女、美奈、十八才。三男、清三郎、十六才でした。 時は元禄十一年(一六九八)、江戸で大火のあったこの年、第五代将軍、徳川綱吉の治世における、備前の国、岡山藩、第二代藩主、池田綱政公の治める岡山城下の事なのです。 無刀流師範は空穂清史郎、五十八才。 岡山藩の剣術指南役を務めているのでした。 龍之介の長女、美奈は、空穂家へ行儀見習いに上がっています。もちろん、二人の息子たちも無刀流の道場で腕を磨いているのです。 ただ、次男の清二郎だけは、どういう訳か和歌を好んで剣術には不向きなのでした。 龍之介も、和歌は大切な教養だからと、それはそれで応援しているのです。 空穂清史郎の奥方、小百合は五十一才で、長女の由利子は二十二才。その下の、長男である利光は清二郎と同い年の二十才で美奈の、いいなずけなのでした。その下に次女の、かな恵がいて、十五才なのです。 ですから龍之介の奥方、美代にとっては、小百合は良きお姉さまであり、日頃から何かと相談にのっていただいているのでした。 龍之介の長男、清之介は、清史郎の長女、由利子と、近々婚儀を挙げることになっていました。 「由利子さん、どうですか、甘いものでも食べに行きませんか・・・・・。」 清之介が誘います。 「いいですね。 参りましょう。」 二人そろって城下の甘味処で、あんみつを頂くのです。 「婚儀の折は、よろしくお願いしますよ。」 清之介が言います。 由利子も、「こちらこそ、よろしくお願いします。」と応えます。 清之介は婿養子になるのです。 じつは、由利子の弟、利光は、まるで清二郎と示し合わせたかのように武芸が嫌いで和歌を好むのでした。 だから空穂家の家督を清之介に継がせようとしているのです。 清史郎は、武芸などしなくてもいいという考えなので、べつに利光のことを責めてはいないのでした。 無刀流は清史郎の父、清一郎が創始したもので、一般には無刀流で通っていますが、正式には空穂無刀流といい、龍之介も清史郎と共に小さい頃から稽古に励み、息子たちに清の字を頂いてきているのです。  甘いものを食べた帰り、清之介と由利子が川岸を連れだって歩いていると呼び止めるものがいます。 「まて! 懐のものと腰のものを置いてゆけ!」 前方の柳の木の陰に浪人風の男が立っているのです。 「何者だ!」 「名乗るほどのものではない。 おとなしく言うことを聞け! さもなくば命はないぞ!」 男は刀を抜きました。 とっさに身構える清之介と由利子。 男は切りかかってきます。 それを、さっと体をかわすと同時に、由利子が男の手首を手刀で打ち、刀を落とさせ、清之介が男を川へ放り込みました。 清之介は六段、由利子も三段です。 大抵の者には後れをとりません。 少し息を整えて、また何事もなかったかのように帰路に就く二人でした。    幼い恋心  「かな恵さん、花見に行きませんか。」 清三郎が誘います。 「うれしいわ、参りましょう。」 河川敷は桜の名所なのです。 大勢の人出でした。 「きれいですね。」 「ほんと、とってもきれい。」 枝々に、ぼんぼりがぶら下がっています。 夜には提灯に灯がともって、また、奇麗なのです。 二人が花に見とれていると、不意に、ドン!と、ぶつかってゆく女がいます。 とっさに女の手を取った清三郎。 「馬鹿なことはやめなさい。」と諭すと同時に財布を返させるのです。 「イタタタタタッ! ごめんなさいね。 やめとこうと思ったのだけれど、子供のくせに女連れなのが憎たらしくって、つい! おみそれしました。」 謝ると女は、そそくさと、どこへともなく消えていったのでした。 清三郎でさえ道場では二段の腕前なのです。 少々の者には後れをとらないのでした。  二人が家へ帰ったころを見計らって、今度は清二郎が、かな恵のもとを訪ねます。 和歌を持参して。 かな恵は縁側へ座っていました。 「歌ができましたので、見て頂けますか。」 そう言いながら清二郎はかな恵のそばへ腰を下ろします。 そして、歌をしたためた半紙を渡しました。  並木なすいちょうの若葉萌え始め   遠くの桜満開となる      あいにくの曇りなれども道の上を   覆う桜の満開となる 昨日の雨にも散らず道の辺の   なじみの桜満開のまま 「どうでしょうか。」 「素敵だわ。 お上手ね。」 「気に入っていただければ、何よりです。」 清二郎は表現が下手なので、こうして和歌を詠むことで救われているのです。 それは利光も同じなのでした。 その兄の事を身近で感じているので、かな恵は、清二郎のことも分かるような気がしているのです。 「お琴を弾いてみましょう。 聴いてくださる。」 「もちろんです。 よろこんで聴かせていただきます。」 かな恵は、いろいろとお稽古事をしているのですが、お琴もその一つなのです。 座敷へ入って琴の準備をすませると、かな恵は息を整えます。 そして、やおら弾き始めると、たちまち美しい調べに包まれてゆきます。 流れるようであり、寄せては返す、寄せては返す波のようです。 (なんて幸せなんだろう。) 清二郎は心の底から、そう思っていました。 (今、この時が一番しあわせかもしれない。 できれば、いつまでも、こうしていたい。) 清二郎の心は満たされたのでした。 「なんだ! 兄上ばかり、いい思いをして・・・。」 いつの間にか、清三郎が尋ねてきていたのです。 かな恵は手を止めて、「お茶にしましょう。さっ、お二人とも、こちらへいらして。」と、招き入れます。 「私は、もう失礼します。 清三郎と、どうぞごゆっくり。 また聴かせてください。 ありがとうございました。」 そう言って、清二郎は帰ろうとします。 「兄上、お待ちください。 わたくしは、お邪魔をする気はなかったのです。ただ、先だってお借りした、手拭いを、お返しに上がっただけなのですから、兄上こそ、どうぞ、どうぞ、ごゆっくりなさってください。」 そう言って、清三郎も気を利かせようとします。 しかし結局、二人とも、お暇することになったのでした。 辺りは、だいぶ薄暗くなってきています。 河川敷では提灯に灯がともるころで、夜桜見物の人たちで賑わっている事でしょう。  そんなある頃。 城下には不思議なうわさが流れていました。 近郊のある村で、夜な夜な狐の嫁入りが見られるとのことなのです。 「兄上、お聞きになりましたか・・・。 近くの村で狐の嫁入りが見られるそうですよ。 どうですか。 かな恵さんを誘って、一緒に行ってみませんか・・・・・。」 清三郎が清二郎に告げます。 「お前も物好きだな。 そんなの、見なくったっていいよ。」 「まあ、そうおっしゃらずに・・・。 何事も経験ですよ。 一度は見ておいても損はないでしょう。 ねえ、行きましょうよ。」 清三郎は乗り気なのです。 必要に誘います。 そんなことで、三人は出かけることになりました。 そう遠くない村です。 ちょうど辺りも薄暗くなってきました。 山の麓には八幡様のお社があります。 三人はお賽銭を入れてお祈りをしました。 ここから山の中腹にあるお稲荷さんの祠までに狐火が連なるのだそうです。 「なんだか薄気味悪いわね。 もう帰りましょうよ。」 かな恵が言います。 「清三郎。 もう帰るぞ。」 今度は清二郎が言います。 「待ってくださいよ。 いま帰るのであれば、ここまで来た苦労が水の泡ではないですか。 もう少し様子を見てみましょう。」 「いやだわ。 私、もう帰る。」 そう言って、かな恵が歩きかけた時です。 「あっ! あれ、見てごらんなさいよ! 狐火が! ほら、見事に連なっているではありませんか。 どうです、見事なものでしょう。」 清三郎が叫びます。 それは奇麗に連なって青白く輝く神秘的な狐火でした。 三人は恐いのも忘れて見入ります。 あまりの美しさに声も出ません。 それは、まさに狐の嫁入り行列のようだったのです。 (不思議なことがあるものだ。) 三人は三様に、そう思っていたのでした。    予期せぬ出来事  空穂無刀流の道場には八幡様が祭られていました。神仏に深く帰依しているのです。それが同派の根幹でした。稽古の始めと終わりには必ずお祈りを欠かしません。 師範の留守は、師範代が守っています。 そんな折、道場を訪ねてくるものがありました。門弟が御用の向きを伺って取り次ぎます。 どうやら稽古をつけてほしいとのこと。 道場へ通された男は、立ち居振る舞いのきちっとした武芸者でした。 その隙のなさから、そうとうの使い手と思われます。 これは、少々の者では歯が立つまいと思われましたので、龍之介は、六段の者から立ち合せてみたのです もちろん、袋竹刀での立合いですが、まずは一礼をして。 「トオリャー!」 気合を入れますが、武芸者は動かず、これといって構えてもいないのです。 「オーリャーッ!」 「トオーッ!」 いくら気合をかけても武芸者は動きません。 これは、いつもとは様子が違うなと思いつつも満を持して・・・・・。 「トオーッ!」 打ち込みます。 途端に、一瞬早く打ち込まれたのでした。 武芸者の技量のほどが窺われます。 そうとうの使い手でした。 門弟は次々に敗れていきます。 とうとう龍之介との勝負になりました。 世の中に、この様な武芸者がいるものなのかと一同の者たちが感心していたところで試合が始まったのです。 互いに、ピタリと正眼に構えると、ピクリとも動かなくなりました。 しばらく動きません。 時だけが過ぎてゆくのです。 みんな固唾をのんで見守っています。 こんなときは、時が長く感じられます。 まだ動きません。 まだ動きません。 そして一瞬ののち、双方同時に動きます。 「トオーッ!」 「オーリャーッ!」 それを見て、みんな驚きました。 同時に面を打っているのです。 「まいりました。」 それも同時でした。 共に平伏しています。 「もう一度、今度は真剣でお手合わせ願いたい。」 武芸者は、そう言うのです。 「それは、お受けできません。 我が流派では、真剣勝負は禁じられております。それだけは、ご容赦ねがいたい。」 いかにも残念そうな武芸者。 龍之介は尋ねます。 「まだ、お名前を伺っておりませんが。」 「いや、名乗るほどのものではござらぬ。 良い手合わせをさせてもらった。 失礼いたす。」 そう言って立ち去ろうとします。 「お待ちください。 失礼だが、これをお持ち願いたい。」 そう言って龍之介は、金一封を渡すのです。 「これは、かたじけない。 路銀にも困っていたので、助かる。 遠慮なく頂戴いたす。」 そう言って武芸者は立ち去って行ったのでした。 門弟たちは騒がしくなります。 「あのような武芸者が、おるものだなあ。」 「いや、驚いた。」 「強いのなんのって、師範代と互角だからな。いや、驚いた。」 その日の稽古は、それで終わったのでした。 さわやかな初夏の風が入ってきます。 蝉の声も聞こえ始めているのです。 みんなは井戸端に集まって汗を拭き始めました。 近所を通ってゆく風車売りの、売り歩く声も聞こえてきているのでした。  それから暫くして、人ごみを龍之介が歩いていると、「まて!」と、浪人者に呼び止められます。 「何ようかな。」と、問い返すと浪人は難癖をつけてくるのです。 「刀の鞘が触った。」 「その様な覚えはないが。」 「いや、触った。」 「どうしろというのかな。」 「問答無用だ! 立ち合え!」 そう言うと浪人は刀を抜きます。 「ここでは周りの者が迷惑する。 あちらへ参ろう。」 そう言って広場へ移動します。 そして龍之介は、右の手刀を前に出して、まるで拝むかのように構えたのです。 これが、空穂無刀流無刀の構えでした。 しばらく動きません。 というより、浪人は上段に構えたまま、切り込めないのです。 しだいに焦りが見えてきました。 しばらく時が流れましたが、浪人は刀を降ろして言います。 「おぼえてろよ!」 そう捨て台詞を残して立ち去っってゆきました。 「はははははっ!見事な構えだな。拙者と立ち合ってくれぬか。」 そういうや否や武芸者は刀を抜くと、そばの女に切りつけた。 その女の帯だけが見事に切られる。 はらりと落ちた帯。 たちまち女の着物の前がはだける。 あわてて前を押さえる女。 返す刀で女の着物だけを裂く。 思わず前こごみになる女。 はらりと着物が落ち、女は桃色の腰巻きだけになる。 慌てて胸を手で隠す女。 すかさず刀が振り下ろされる。 すると見事に腰巻きが切り落とされ、女は一糸まとわぬ裸となり、手で前を隠しながら小走りに去ってゆく。 「見事な腕前だな。 立ち合うまでもあるまい。 おぬしの勝ちだ。 良い目の保養をさせてもらえたのだ、これ以上この場を騒がせるのはよそう。それにしても美しい女であった、それに感謝をしよう。」 そう言って龍之介はその場を離れます。 武芸者も、それ以上無理強いはしないのでした。 龍之介は大事無かったことを神仏に感謝して、人ごみに戻っていったのです。 日差しは、だいぶ暑くなってきています。 でも風は、比較的さわやかなのでした。  その足で城下の八幡宮へお詣りをした龍之介は、周りに繁っている樟の一本の太い幹に空蝉を見つけました。 まだ羽化したばかりのようなのです。 瑞々しい命の輝きです。 そこで羽化登仙ということを思い浮かべてみました。 人間に羽が生え、仙人になって天に上るということらしいのです。 周りの緑が鮮やかで、木洩れ日が眩しく輝いています。 境内には蝉の鳴き声が満ちていました。    良きことも悪しきことも  清之介と由利子の婚儀が行われています。 二人は同じ酒を、まず清之介が三度。そして由利子も三度。そしてまた清之介が三度と酌み交わしているのです。 尾上家と空穂家にとって誠に目出度い日を迎えました。 ここに新しく空穂清之介が誕生したのです。 酒宴の席は質素に行われました。 空穂無刀流は清之介が後を継ぐことになっています。 清之介の責任は重いと言えるでしょう。 その覚悟のほどが試されています。 まだまだ修行は足りないのです。 それは清之介も充分に承知していました。 「未熟者ですが、今後ともよろしくお願いいたします。」 そう挨拶をして、締めくくったのでした。  その後の道場では若先生と呼ばれます。 門弟たちの稽古をつけることも多くなってきているのです。 「若先生、お願いします。」 「ちょっと待ってくれ。 こう矢継ぎ早では息が切れる。」 一息ついて、また相手をします。 「トオーッ!」」 「オーッ!」 まだまだ、打ち込まれることも、しばしばです。 でも道場は、若返ったような活気に満ちていました。  清史郎は剣術指南役の勤めが忙しく、留守にすることが多かったので、食事も清之介が主になることもあったのです。 「母上、この漬物は、おいしゅうございますね。」 「そうですか、それはよろしゅうございました。」 糠漬けは小百合の自慢で、それだけは女中にも任せず、自分で手入れをしているのでした。 庭の木立も薄く色づいてきていて、秋の訪れが感じられます。 蝉の鳴き声が絶えて久しく、代わって、虫の音が聞こえてきているのです。 吹き入る風も、心地よくなっていました。  道場には、師範も師範代も不在で、清之介が留守を任されているのです。 「たのもう!」 誰か尋ねてくるものがいます。 門弟が取り次ぐのですが、どうやら稽古をつけてほしいとのこと。 事情を話してお断りしている様子なのです。 「入門しようかどうか迷っているので、ちょっと稽古をつけてほしいと言っておりますが、若先生、どうしましょう。」と、告げられた清之介。 まあ少し様子を見てみよう、ということになりました。 通された男はオズオズとしながら、「自己流ですが、よろしくお願いします。」と、言っています。 稽古が始まりますと、男は、そこそこに打ち合っているのです。 まあ、それはそれでいいかと、みんな思っていました。 でも、段々と調子を上げてきた男は、なかなか強いのです。 下の者では歯が立たず、負け始めました。 これは尋常ではないぞと思い始めたころには、清之介との対戦を迫ってきたのです。 やむなく受けることにしました。 清之介としても、いい稽古になると思ったからです。 たとえ自分が敗れたとしても、まだ高段の者がいるので大丈夫と思ったのです。 男は着流しです。 一見したところでは強そうには見えません。 (どうして、こんなに強いんだろう。) みんな不思議に思っていました。 確かに、どこの流派にも属していないようなのです。 やがて試合が始まりました。 男の構えは構えとは言えず、(これを、無手勝流というのだろうか。)と、思わせられたほどです。 (ならば我が流派とも相通ずるものがあるの ではないのか。) そう思ったときに、男に隙が見えたので、清之介は、すかさず打ち込みました。 「まいった!」 小手が決まったのでした。 「いやー、合格、合格。 驚かせてすまなかったが、兄貴に頼まれたのでな、許してくれ。」 聞けば、清史郎の疎遠となっている義理の弟さんとのこと。 ようやく清之介をはじめとして、みんなは合点がいったのでした。 あとは和気あいあいとした空気に包まれる道場だったのです。  季節は移ろいゆきます。 美代は日頃から病気がちでした。 冬に入って風邪をこじらせ、寝込むことが多くなっていたのです。 「あなた、ごめんなさいね。 みんなも、許してね。」 「いいから、ゆっくり休みなさい。」 「母上、早く良くなってくださいね。」 「母上。」 「母上。」 そうした、みんなの願いもむなしく、とうとう帰らぬ人となってしまったのです。 雪のちらついている夜の事でした。 みんな、覚悟はしていたのです。 通夜は、なぜか長く感じました。 そして、型通りの葬儀をすませ、鄭重に送ったのでした。 しばらくは美奈が母親代わりです。 尾上家も寂しくなりました。 残念でしたが、仕方がなかったのです。 お盆には、また会いに来てくれるでしょう。  季節は更に移り、その年の蛍狩りの時がやってまいりました。 例年、一家そろっての恒例の行事になっているのです。 今年も奇麗でした。 幻想的な青白い光が、無数に飛び交っているのです。 止まっているものもあれば、動いているものもあります。 肩に止まるものさえあるのです。  黄泉路より今も優しき母上が    蛍となりて会いに来たらし その時の感動を、清二郎が詠んだ歌でした。  ある日の道場でのことです。 久しぶりに師範がいます。 稽古の前に訓示を述べているのです。 「ご承知の通り、我が道場の者は、こしぬけ侍と呼ばれています。 しかし、これは讃辞と捉えるべきでしょう。 なぜならば、人を、あやめない侍だからです。 武芸とは、人を、あやめるためのものではありません。 あくまで、身を護るためのものなのです。 腕を磨くのも、そのためです。 さらには、刀を用いないで身を守るところまで行くのが、我らが無刀流なのです。 だから真剣勝負はしないのです。 するべきではないのです。」 これは無刀流の処世訓なのでした。  それから暫くののち とある茶店を清之介が訪れた時のことです。若い女性客に、遊び人風の男が、執拗に絡んでいます。遊びに行こうと誘っているようなのです。 見かねた清之介。 「嫌がっているようじゃないか、もうやめなさい。」 やさしく諭します。 「なにいっ! よけいなことだ。 ほっといてくれ。」 「そうはいかないだろう。 かわいそうではないか。」 「じょうとうじゃあねえか。 表へ出ろ!」 そして刀を抜きます。 「この通りだ。 勘弁してくれ。」 清之介は土下座をして謝ります。 「ハハハハハッ! 無刀流の道場の奴か。 口ほどにもない奴だ。 今日のところは勘弁しておいてやる。 おぼえてろ!」 そう捨て台詞を残して、男は去ってゆきました。 清之介は袴の裾を払って茶店へ戻ります。 「ありがとうございました。 無刀流の道場の方は本当にお優しいですね。 城下の者は、みんな助かっております。 今後ともよろしくお願いいたします。」 そのように礼を述べて、若い女性は帰ってゆくのでした。 秋風が心地よく吹いています。 道端には団栗が転がっているところもあるのです。 リスは冬支度に大忙しでしょう。 団栗で遊んだ子供の頃を思い出している清之介なのでした。    主君  あるひのこと。 清史郎が城での勤めを終え、帰路についていると、数人の男たちが取り囲みます。 「何者だ。 何の用があるのだ。 話せば分かる。 聞かせてくれぬか。」 「問答無用だ!」 そう言って、男たちは刀を抜くのです。 清史郎は身構えます。 右の手刀を前に出して、まるで祈るかのように。 空穂無刀流無刀の構えです。 前から切り込んでくる刀を両手に挟んで止めると同時に男の鳩尾を蹴り上げます。 堪らず離した刀を地面に投げ捨てるのです。 その動きの速いこと。 切り込んでくる相手を交わしながら、刀を取っては捨て、取っては捨て、とうとう刀を取り切ってしまいました。 すると、拍手がきこえてくるではありませんか。 見れば石垣の上から綱政公が姿を現されます。 「皆の者、見たか。 あれが空穂無刀流無刀の構えじゃ。 励めよ。 清史郎。 大儀であった。 あっぱれ。 あっぱれ。」 清史郎は殿に一礼をします。 そして息を整えて、また、帰路に就くのでした。 お城の楓も赤く染まっています。 桜の葉も奇麗に色づいているのです。 散り続く落ち葉も、また少し、数を増しているのでした。  池田綱政公は、江戸時代前期の名君として名高い池田光政公のご長男です。 母は、本多忠刻公と千姫の娘・勝子様です。 父・光政が三十歳のとき、江戸藩邸でご誕生になられました。 寛文十二年(一六七二)に光政の隠居に伴って家督を継ぎましたが、父が存命中の藩政は隠居した父によって行われましたので、天和二年(一六八二)、父の死によって自ら藩政に取り掛かりました。 光政公の治世により、岡山藩は藩政が安定し発展しましたが、大藩になればなるほど何事においても支出が増大し、そのために光政の治世末期から綱政が家督を継いだ頃には、岡山藩は財政難に見舞われていました。このため、綱政は津田永忠や服部図書を登用して財政再建に取り掛かりました。 綱政は、財政再建のためには農村再建による新田開発が必要であると考えていました。 また、この頃、岡山藩は大洪水などの天災が発生して多難を極めていました。そのため、津田永忠を用いて児島湾に大掛かりな干拓を行い、洪水対策としては百間川や倉安川の治水工事を行いました。 この農業政策は成功し、岡山藩は財政が再建されることとなったのです。 また、綱政公は造営事業にも熱心で、元禄十一年(一六九八)には池田氏の菩提寺である曹源寺を創建しました。 元禄十三年(一七〇〇)には、やはり津田永忠を責任者として後楽園も造営しました。  そんなことですから、尾上龍之介も隠居して、昔から好きであった野良仕事に精を出しているのです。 そのころには刀も捨てていたのでした。 そして清二郎は清二郎で、和歌が認められてお城に上がり、松姫のお相手を仕っていました。  頬を吹くこの春風の心地よさ   月見櫓の窓に尊む 姫君もかく心地よく御覧かも   月見櫓のこれの眺めを 階のこの欄の艶やかさ   西手櫓で触るる姫君 西の丸西手櫓は今は亡き   光政公の隠居所なりし 四首めよりは後楽園で詠んだものです。 曲水の底の豊かな水苔を   ひた透き通す水の真澄みて 一陣の風に吹かれて散る桜   裾を曳きつつ流るる如し 引き込まれ園を巡れる曲水の    小さな水車さわさわ回る 殿も和歌がお好みでした。 後楽園は、やすらぎの場として、お客をもてなす場として、時には領民に開放したりもして、園内の舞台で藩主自ら能を舞われることもありました。 綱政公は、備前吉備津宮も建立しました。 また、曾祖父の輝政公が三河の国吉田城の城主であった時に信心しておられた縁で、三河国行基開基の岩屋観音にも多大な寄進をしています。 そして宝永四年(一七〇七)、東海道白須賀宿に宿泊中に観音が夢に現れ、立ち退くようにお告げがあり、急ぎ二川宿へ向かったところ、地震が起こり、白須賀宿は大津波に飲み込まれましたが、綱政公の一行は無事だったのです。    時の移ろい  時は流れています。 空穂無刀流の師範は清之介に代わっているのです。 お城の剣術指南役も受け継ぎました。 無刀流免許皆伝なのです。 子供も三人授かっています。 公私ともに多忙な日々を送っているのです。 師範代は清三郎が受け継ぎました。 道場も若返ったのです。 清史郎も龍之介も趣味に生きる日々を送っています。 和歌も嗜んでいるのです。  人生とは寂しきものか誰とても   いずれはお別れなさねばならぬ ひと方を凝視せし猫翻り   躍動しつつ藪へ駆け入る 奇岩巨石突き出す峰の上空を   とんび幾許く己がじし舞う これらは龍之介の詠んだ歌でした。 ままならぬ動乱の世の安寧を    念ず写経の文字の見事さ      尊氏願経 隣接の足守藩の小さめな   家老屋敷の御成門かも 小藩の家老屋敷のそれなりの   威厳を示す長屋門かも こちらは清史郎の詠んだ歌でした。 ここに詠まれています足守藩木下家は、平氏の出身で杉原と称していましたが、家定のとき、妹(ねね)が豊臣秀吉の北政所であったので、木下氏を許され、豊臣の称号を与えられました。 木下家定は、関ケ原合戦に際しては、北政所を守護して中立を守ったので、慶長六年(一六〇一)三月二十七日、姫路から備中国足守二万五千石に転封したのでした。 時の移り変わりではあります。 利光と美奈も結婚して子供を二人授かっていました。 ここよりは利光の詠んだ歌です。  かぐわしき煙の匂い漂いぬ   どこかで誰か焚火するらし ささやかに煙の立ちて消えかけし   焚火に残る赤き柿の葉 さ走れる真澄みし水に細長き   川藻の群れて流れにまかす 細枝をふいに離れしひとひらの   枯れ葉舞いつつ池へ落ちゆく 国分寺の丘にはびこる荒草の   中に芒の穂の出揃える 国分寺の丘の道辺の荒草の   中にほおけし芒穂の群れ この頃の国分寺は廃れていたのでした。 この年、御前試合が行われました。 綱政公の御前に柳生新陰流の武芸者を招いての事です。 実は清之介の祖父に当たる空穂無刀流の創始者、空穂清一郎は、もともと柳生新陰流の門下でした。 それを更に創意工夫して、独自の技を編み出されたのが、空穂無刀流なのです。 空穂無刀流無刀の構えは、柳生新陰流の無刀取りから生まれたのでした。 試合場には陣幕が張られています。 そこには池田家の家紋である備前蝶が、はっきりと染め付けられているのです。 各地から主だった武芸者が招かれており見ごたえがあります。 それに、試合は真剣で行われることになっていて、いちおう切り込む寸前で止めることになってはいるものの、迫力満点なのです。 まずは宝蔵院流の槍の使い手と柳生新陰流の対戦で始まりました。 宝蔵院流槍術とは、奈良の興福寺の僧、宝蔵院覚禅が創始した十字槍を使った槍術です。 柳生とも親交がありました。 槍の使い手は法衣を身に着けた入道です。 双方、殿へ一礼。 そして、互いに一礼をしました。 「はじめーっ!」 審判の声で試合が始まります。 柳生の武芸者も刀を抜きました。 たがいに構えたまま動きません。 しばらく時が流れます。 と、入道が右へ回り始めました。 どうやら太陽を背にするようです。 すかさず柳生も左へ動きます。 たちまち距離が縮まったかと思うや否や、槍が突かれました。 柳生は刀で跳ね返します。 ところが十字の槍です。 反対に刀を跳ね飛ばされてしまいます。 しかし、その期に乗じて入道の懐に入り込んだ柳生の小刀が抜かれ、入道の脇腹へ突き立てられます。 「それまでっ!」 審判の声と同時に入道も声を発しました。 「まいった!」 まさに一瞬の出来事でした。 双方、元の場所へ戻ると殿へ一礼。 そして、互いに一礼をします。 そして退場です。 さて、次の試合に移ります。 方や、小野派一刀流の使い手。 相対(あいたい )するは、北辰夢想流の使い手です。 北辰夢想流とは、相馬中村の藩士、吉之丞が藩主の御前で同門の藩士、山上角之進と剣法の技を競って敗れたので、相馬の妙見宮に参籠して熱心に武術の上達を祈願したところ、神霊に剣法の秘訣を授けられた夢を見て、急に技法が進み開けたので流派を称えたものです。 方や、小野派一刀流の方ですが、伊藤一刀斎には善鬼と神子上典膳の二人の弟子がいて、一刀斎は二人に下総の国小金原で真剣勝負をさせて、勝った者に一刀流を相伝することにしました。 そして勝負に勝ち残った典膳に一刀流を継承させたのです。 その後、神子上典膳は小野忠明と名を改め、柳生新陰流の柳生宗矩と共に徳川将軍家剣術指南役として召し抱えられました。 さて、試合が始まります。 双方、殿に一礼。 そして、互いに一礼をしました。 「はじめーっ!」 審判の声が掛かります。 双方、刀を抜いて正眼に構えました。 しばらく動きません。 やおら、小野派一刀流が上段に構えます。 まだ動きません。 すると、今度は北辰夢想流の方が大上段に振りかざしました。 「トオーッ!」 「オーッ!」 互いの気合が響きます。 一瞬の後、小野派一刀流の方が切り込みました。 北辰夢想流も振り下ろし、刀を交えます。 そして、また退くのです。 お互い距離を取って睨み合います。 少し間をおいて、再び小野派一刀流が切り込みました。それを切り返す北辰夢想流。 その刀を更に振り払って胴を決める小野派一刀流。 「それまでっ!」 審判の声と同時に北辰夢想流の声。 「まいった!」 双方もとの場所へ戻り、殿へ一礼。 そして、互いに一礼をして退きます。 日が大分強くなってきていました。 しかし、風が爽やかなので、さほど暑くはないのです。 一同、試合の行方を見守ります。 先ほどの勝者同士、柳生新陰流と小野派一刀流との勝負です。 両者が現れます。 そして、殿に一礼、互いに一礼をしました。 「はじめーっ!」 審判の声と同時に、双方、刀を抜きます。 両者、正眼の構えです。 動きません。 時が流れます。 まだ動きません。 柳生新陰流が下段に構えなおします。 そのとき。 小野派一刀流が突いてきました。 「トオーッ!」 「オーッ!」 柳生新陰流が上へ跳ね返すと同時に、胴を決めます。 「それまでっ!」」 その審判の声と同時に、小野派一刀流。 「まいりました。」 勝負は、やはり一瞬でした。 双方、元の場所へ戻ると、殿へ一礼します。 そして互いに一礼して退いてゆくのでした。 いよいよ最後の試合になります。 しばしの休憩の後、柳生新陰流の武芸者と空穂無刀流の空穂清之介が現れました。 柳生新陰流ですが、流祖、上泉伊勢守藤原秀綱(のち信綱)に師事した柳生石舟斎宗厳(むねとし)は、無刀の位を開悟して第二世を継ぎ、その長男、厳勝の子、兵庫助利厳は祖父、石舟斎の薫陶を受け第三世を継承し、元和元年に尾張初代藩主、徳川義直公の兵法師範となりました。 石舟斎の五男が柳生宗矩で、その子が柳生十兵衛三厳(みつよし)です。 場内に緊張が走ります。 双方共に、殿に一礼をしました。 そして、互いに一礼をします。 「はじめーっ!」 審判の声が掛かります。 おもむろに刀を抜く柳生の武芸者。 ところが、清之介の腰には刀が差してありません。 柳生は正眼に構えます。 清之介は、右の手刀を前に出して、まるで祈るかのように構えます。 空穂無刀流、無刀の構えです。 柳生の武芸者は、ジリ、ジリッと、間合いを詰めてゆきます。 そして、上段に構えるのです。 更に間合いを詰めて、にじり寄ります。 「トオーッ!」 気合と共に刀を振り下ろしました。 それを両手で挟み、受け止めます。 すると柳生は、すぐに刀を離し、間合いを取るのです。 そして、すかさず小刀を抜いて、ふたたび切りかかります。 それを、大刀を捨てるや否や、またもや両手で挟み、受け止めたのです。 更に捻りを加えて奪い取り、捨てました。 双方、手刀で構えるのみです。 ふたたび間合いを取ったまま動きません。 時が流れます。 柳生の武芸者も、これは想定していたようです。 言わば、同門での試合ですから。 どちらも、もともと攻める刀ではありません。 あくまで身を護る為のものですから。 そして双方、良しと見た時、同時に構えを解きました。 そしてまた、同時に声を発するのです。 「まいりました。」 「まいりました。」 「それまでっ!」 審判も制止します。 もとの場所へ戻った二人は殿に一礼。改めて五人そろって、もう一度、一礼をしました。 綱政公も身を乗り出して皆を称えます。 「皆の者、見事じゃ。 大儀であった。 あっぱれ。 あっぱれ。」    おわりに  お楽しみいただけましたでしょうか。  史実に基づいている部分は、ウィキペディアなどを参考にさせて頂きました。 ありがとうございました。           著者 大空まえる         えいめいワールド出版
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