これが私の生きる道

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「え……」  優莉(ゆうり)は自分でも驚くほどの速さで起き上がり、目を見開く。  白く高い天井、世界史の教科書で見たような細かな彫刻がほどこされた柱、日本家屋では到底見られないような長い廊下、几帳面に剪定され花の咲き乱れた庭園。  目に入った見慣れない美しすぎる光景に、呼吸が一気に浅くなった。  あり得ない。  優莉の全身から冷たい汗が一気に吹き出す。  目の前の光景には全く覚えはないけれど、予想だけは容易にできた。  だてにライトノベルや漫画を愛しているわけではない。理由やきっかけには全く心当たりはないが、確実に日本ではない別の場所へ転移してしまっている。転生ではないと思うのは、しっかりと直前までの自分の行動を覚えているからだ。  優莉は仕事から帰宅して暗い夜道を愛犬と散歩している最中だったのだ。いつもの散歩コース。歩道を歩き、ぼんやりと少し欠けた月を見上げていたものの、車が突っ込んできたわけでもなく、誰かに襲われたわけでもなく、平穏そのものの散歩をしていた。  その証拠に服は散歩をしていた時のまま、ラフなトレーナーとスウェットにウィンドブレーカーを羽織っている。意識ははっきりしているし、腕をつねればリアルに痛みも感じる。  こういった別の場所に飛ぶような状況の場合、創作の世界では何かしら前兆というものがあるはずだ。なのに優莉にはなにもない。単に彼女が忘れてしまっているだけという可能性もあるのだが……。  目の前の西洋風の美しい景色と自分の存在がアンマッチであることに混乱するものの、それと同時に脳は冴え冴えとし、この状況を分析していた。  ファンタジー作品を好んで読む優莉は次の瞬間には自分の身の振り方について考えだす。  この先の展開は優莉が何者か、によって大きく変わる。  貴族、王族、聖女、魔法使い、平民、または奴隷か――。  ウインドブレイカー姿では自分が何者であるのかさっぱりわからない。  試しに手のひらに力を込めてみるけれど別段湧き上がるものなどなかった。  魔法使いではなさそうね……。  漫画や小説を読むたびに、魔法が存在する世界に憧れたりもしたが、そう都合よくはいかないようだ。  すると、奥の方から複数人が駆けてくる足音と声が聞こえてきた。  きっと私を探してるんだ、と優莉は瞬時に察し、音のする方を見据える。 「あ! いたぞ! こっちだ!」  優莉はわずかに体をこわばらせる。それと同時に安堵もした。少なくとも言葉は通じることがわかったからだ。  駆けてきたのは小綺麗なうすい黄土色をベースとした制服を着ている男性二名だった。顔立ちは西洋風だが、髪色や瞳の色は赤やオレンジと鮮やかで、ここが地球のどの国でもない非現実な世界だということがわかる。  彼らの立場は警備、もしくは騎士団所属といったところだろう。  すると、優莉の前で立ち止まった二名は困惑したように目を見合わせる。 「おい……、これは、どっちだ?」 「え……?」  目の前の男たちの言葉に優莉もつられて困惑する。  どっち、とは?  男たちの視線を無意識に読み、視線をうしろへ巡らせたところで初めて優莉は自分の背後にもう一人いることに気づいたのだ。  長くつやつやの白い髪に真珠のように艶のある白肌。十歳くらいの少女が一糸まとわぬ姿で横たわっている。目の前にばかり気を取られて、まさか自分以外にも誰かがいることなど微塵も考えていなかった。  彼女が誰なのか考えるのは後回しにして、優莉は咄嗟にウインドブレーカーを脱いで少女の胴部に掛ける。眠っているのか気を失っているのかはわからないが、少し触れた肌にはぬくもりがあり、肩が静かに上下している様子も見て取れて、ひとまず生きていることにホッとした。  けれど、安心してはいられない。  ここに優莉以外の異質なキャラがいるということは、どちらかが間違いでこの世界にやってきたという可能性が大きい。その場合、間違いだった方の運命は元の世界で得たスキルによって大きく変わる。  なぜなら間違いだったキャラは異世界での特殊スキルなどが与えられないことがほとんどだからだ。勝手がわからない世界で、手探りで生き抜くしかない。  残念なことに元の世界での優莉はただの契約事務員。与えられた書類業務を淡々とこなし、マニュアル通りの電話対応を行い、正社員から回される雑務をこなすという、特別なスキルなど得られようもない仕事なのだ。あるとすれば従順さと真面目さ、あとは自炊能力くらいだろう。  プライベートでも24歳から5年も付き合った彼氏に「お前といてもつまんねぇんだよ」なんて捨て台詞を残して別れられてしまったくらい平凡なのだ。特技という特技も何もなく、褒められることなんてほぼ皆無な人生。せめて人様の迷惑にならないよう平穏に暮らしていこうと日々愛犬を愛でながらなんともない毎日を過ごしていたのに……。  もともと何のスキルもない私がこんな異世界でどうやって生きていけばいいのよ!  こうなったら腹をくくって何でもいいから何処かで雇ってもらうしかない。 「いや、明らかにあっちの少女だろ。教会の壁画の聖女と同じ銀髪だ」 「じゃぁこっちは……」  優莉は自分に向けられる不躾な視線に息が詰まる。  そりゃぁ平々凡々な容姿に見えるでしょうよ。あんな美少女と比べられてしまえば尚更だ。  案の定、男たちは優莉の後ろの少女を特別視しだした。見た目の違いで優莉自身も薄々感じてはいたものの、これから起こるだろう予測もできない試練に胃がキリリと痛くなる。けれど前に進まなければ生きてはいけない。 「おい、お前は何者だ?」  まっすぐと見下ろされる視線に、優莉はなんのやましさも与えないよう姿勢を正して正座する。できるだけ冷静に、事実だけを伝えた。 「私は白井優莉です。たぶん、こことは違う世界から突然ここに来ました。なぜここに来たかはわからないです。でも皆さんを害することはないと誓います」  取り乱さず、まっすぐと、優莉に尋ねた男に向かってできる限り丁寧に三指をつくなり恭しく頭を下げた。この世界の人間に土下座が通用するかもわからないが、男たちの気配が一瞬揺らぐのを感じる。  これで敵意のない人間だと誠意を受け取ってもらえますようにと強く願った。 「うしろの少女とはどういう関係だ」 「それは……私もよくわかりません。知り合いにもたぶん……こんなにきれいな子は覚えがないので……」  頭は低くしまま、少し上体を起こし改めて少女の姿を横目で確認する。少女が目を閉じていてもその美しさは桁外れだ。欧米のモデル並に整った知人などいたら確実に自慢できる。  嘘をついても少女が目覚めればすぐにバレることだ。自分を守るために優莉は正直に話すことを選んだ。  案の定二人の男は困ったように顔を寄せ合い、小声で相談を始める。  優莉はこの状況から推測できる可能性を予想した。建物の様子からここはかなり身分の高い人物の屋敷、もしくは城だろう。  そして目の前の男たちの会話から聖女を探していると予想ができる。おそらく何らかの理由で聖女を必要として儀式をしたものの、余計な人間まで一緒にくっついてきてしまった……という可能性が高い。  聖女の可能性がある白髪の少女は丁重にもてなされるはずだ。けれど、余計なもの――優莉は不要なため不法侵入の罪で拘束されて牢に入れられるか、良心的な相手であれば身一つで解放がいいところだろう。  贅沢な暮らしとは言わずとも一般的な生活水準で暮らしていた優莉は、異世界の牢に入れられたあとの想像をするだけでも身震いがした。  ほんとになんで、こんな事になってんだろ……。  優莉は大きく息を吸って、音を立てないよう静かにゆっくりと吐き出した。  三十歳半ばを過ぎた優莉は、愛犬サクラ(白ポメラニアン)を愛でることが日々の癒やしだった。  三十歳を目前にして約五年付き合った彼氏に振られたときは、なんの取り柄もないのに三十路を過ぎたら結婚なんてもうできるわけない! と酷く落ち込んだ。同時にもう男なんていらない! と犬を飼いはじると、人懐こく賢いサクラに失恋の傷はあっという間に癒やされ、穏やかな独身ライフを満喫していた。  今日だって何の変哲もない一日をやりすごして、サクラと散歩していただけなのに。  いや、ほんと、なんで……?  考えれば考えるほどわけが分からない。  よくあるのは事故にあってその後に――とか、光に包まれて――とか、なにかしら一瞬でもきっかけがあるものだ。少なくとも、優莉が読んだことのある異世界に飛ぶ設定の話はそうだ。なのに、この唐突感はなんだ。  優莉は両手で顔を覆い、自分の置かれた絶望的な状況に考えることを一旦放棄した。 「ユーリ……?」 「――え?」  鈴のような軽やかな声が聞こえ、優莉は反射的に後ろを振り返る。  すると、先程まで横になっていた少女のつぶらな漆黒の瞳と目が合った。 「あ……目が覚めて――」 「ユーリイイイイィィ!!」  少女は両手両足のバネを効かせて優莉めがけて勢いよく飛んだ。反射的に受け止めた優莉だったが、見知らぬ少女がなぜ名前を知っているのかと状況が飲み込めない。 「ユーリ! ごっはん♪ ごっはん♪」 「え……?」  初めて会ったはずの少女は、教えた覚えもない名前を呼んできただけでなく、人懐こい声でごはんをねだってきた。優莉の胸元に顔をスリスリとうずめて、にぱっと満面の笑みで見上げてくるその顔をまじまじと見てみるものの、優莉はやはり少女に見覚えがなかった。 「あ、あの……ごめんね、誰……だっけ?」  なぜ優莉の名前を知っているのか、それは相手が誰であるかを知れば見当がつくかもしれない。申し訳ないと思いつつも優莉は少女に尋ねた。  すると少女は首を傾げてキョトンと優莉を見つめる。その瞳は美しく澄んだ大きな黒い瞳でどこか既視感を覚えた。やはりどこかで会ったことがあるのだろうか。 「ユーリはサクラの……」  そうつぶやいた瞬間、少女が自分の口を押さえ、「え?」とつぶらな黒い瞳を大きく見開いた。かと思えば、自分の手足を眺め、体中をペタペタと触りだす。俊敏な動きで立ち上がるなり、くるりと回り、ぱぁっと美しい顔を輝かせ、再び優莉に抱きついた。 「すごーい! サクラ、ユーリとおんなじだ!」 「え?」 「サクラ! ユーリとおんなじになったよ!」  きゃー! と優莉の首元に顔をうずめて可愛くはしゃぐ少女に、優莉は情報の処理が追いつかずされるがままになる。  サクラ――――?  サクラとは、五年来のパートナーである優莉の大切な家族――愛犬の名前だ。 「――え?」  優莉は少女の顔をしっかり確認するために華奢なその肩を優しく掴む。  くっきりとした二重に大きな黒い瞳。それと対極のツヤツヤの白い髪。薄桃色の頬に透き通るような白肌。体つきは小学校低学年から中学年くらいだろうか。姿は完全に人間そのものだ。愛犬と同じところを強いて挙げるとすれば、その瞳の美しさくらい。  少女と愛犬を同一視するにはあまりにも姿が違いすぎる。  けれど…………。 「サクラ……なの?」 「うん! サクラだよ!」  軽やかな可愛らしい声と共に無垢な笑顔が眩しいほどに優莉へ向けられる。なんの疑いもなく優莉の名を呼ぶ少女をサクラでないと決めつけるほうが無理があった。 「そ、その前に服着て服!!」  自称サクラが胴部にまとわりついているため、優莉は足を伸ばして地面に投げ出されたウィンドブレーカーをたぐり寄せサクラの肩にかけた。かろうじて彼女の太ももまで隠してくれる丈で、ひとまず安堵する。 「ひゃー! ユーリの匂いだー! んんん〜! サクラ、ユーリの匂い大好きー」  優莉のウィンドブレーカーをぎゅっと抱きしめ、ふにゃふにゃと酔っ払いのように体をくねらせる様子に、優莉は思わず目尻を下げた。  やっぱりこの子はサクラだ……。  唯一無二のパートナー。言葉は喋れなくても五年一緒にいた家族だ。犬のくせに喜怒哀楽がはっきりしていて、わかりやすい子。優莉のことが大好きで、優莉の些細な感情の変化も察知してくれる敏い部分もある。  仕事から帰ると、たいてい優莉の匂いがついたブランケットの上にいた。それを洗濯をしようとすると抗議をするように歯茎を見せながら威嚇して抵抗してくるから隙をついて洗濯するのが常だった。  あなたこんなに可愛かったのね……。  艷やかな白髪に指を通すと、サラサラサラと上質な絹糸のようななめらかさで感動すら覚える。たかにトリミングは定期的に行っていたけれど、人間になった途端こんな美少女になるなど反則ではないだろうか。  それにしても、優莉は生身のままなんの変化もなくこの世界へ来ているというのに、片手で抱えられるほどの白いポメラニアンが西洋風の超絶美少女になっているなんて、どういう補正のかかり方をしているのだろうか。  優莉は不公平を感じずにはいられなかった。  まぁ、この補正のかかり方で私がオマケなのは一目瞭然だよね……。犬が聖女かもしれないのは未だに受け入れがたいけど!  優莉は突きつけられた現実を必死に受け止めようと大きく息を吸う。  犬と言ってもサクラは優莉の大切な家族だ。姿が変わろうとも、彼女が優莉にとって何ものにも代えがたい存在であるのは変わらない。聖女と確定すれば身の安全は保証されるはずなのでその点は安心だ。  ただ少し気になるのがサクラの言動だ。犬として見れば賢くて人懐こくて可愛い家族だけれど、人間となればどうだろう。言語はどれほど扱えるのか、人としての常識は備わっているのか、姿が変わってこの世界の補正がどれほど影響しているのかがわからず、不安になる。もしこの先サクラと別行動となってしまったときのことを考えると、その対応が気になるところだ。 「お前達やはり知り合いだったのか?」  優莉とサクラのやり取りを聞いていたのか、二人の男の視線が二人に向けられていた。  どう説明しようか言葉を探していると、二人のうち年長者らしい男が一歩進み出てくる。 「どちらにしろ我らが探しているのは聖女様だ。玉座で国王陛下と神官長様がお待ちだ。ふたりとも来てもらおう」  国王と神官長。その単語を耳にした瞬間、優莉はここが城内であることを確信した。素直に従おうと立ち上がると、前後を囲うように二人の男が配置する。サクラは相変わらずニコニコしながら木にぶら下がるチンパンジーのように優莉に腕を回して離れようとしない。 「あの、すみません、せめてこの子に服を着せてもらえないでしょうか……。さすがにこの格好で国王様とお会いするのは……」  ファンタジーの世界では国王を前にして生足を出す女性はほとんどいないはずだ。裸をさらすのと同じくらい恥ずかしいとする世界もあるくらいだ。この世界の基準はまだわからないけれど、現代日本であっても偉人に会うというのに裸にパーカー一枚で対面する人はいない。  年配の男性は難しそうな顔をするも優莉の主張ももっともだと理解したのだろう。「侍女を呼んでやる」とぶっきらぼうに言ったのだった。
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