雪の名前

3/4

7人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
 例年より穏やかな天候の正月。幼い俺は、退屈紛れに入った仏間で祖父と対面していた。その頃はまだ、仏間が半ば祖父の自室と化していることを知らなかったのだ。厳しい目つきの祖父に俺はすっかり驚いてしまって、思わずその場にへたり込んだ。  祖父はそんな俺を一瞥すると、無言で仏壇に置かれた林檎に手を伸ばした。そして小さな果物ナイフで器用に皮を剥いて、その一切れを俺に差し出した。  俺が恐る恐る口に運ぶ様子を見届けると、祖父は林檎をもう一つ手に取って、表面を軽く拭くとそのまま齧りついた。その豪快な食べっぷりに呆然とする俺に、祖父はまた一切れ林檎を剥いてくれた。  林檎を咀嚼する二人分の音だけが響く、仄明るい仏間。いつもは冷え冷えとしていたはずなのに、そのとき寒さを感じた記憶はない。石油ストーブでも焚いていたのだろうか。  窓にはめ込まれた磨りガラス越しに、丸い影が見える。ゆらりゆらりと絶え間なく落ちるそれにふと目をやり、祖父は独り言のように零した。 「……今日は、牡丹雪か」  初めて聞く雪の名前に、俺は祖父を恐れていたことも忘れて口を開いた。 「雪にも、いろんな名前があるの?」  俺が問いかけると、祖父はゆっくりと視線を俺に移した。逆光だったのか、そのときの祖父の表情だけは思い出せない。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加