茶と菓子を愛する犬神と信州のあやかし軍師

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■  少し前から、切風軍の第一軍と、「赫の王」軍の前軍は、乱戦に入りつつあった。  紺模様とワタヌキの駆け引きで、伊織初めカマイタチが中心になって突進しては引き上げている。その繰り返しに、熊たちが疑念を抱いているのが分かった。  阿僧祇は、何度か、中軍への様子見に部隊を編成しようとした。しかし、目の前に敵――しかも接近戦に持ち込めばまず勝てる――がいる状態で、わざわざ後方の様子を見に行きたい者など、「赫の王」の軍にはいない。  副将の知多でさえ、突撃したくてたまらず、舌なめずりを繰り返している。  熊の本能には、阿僧祇とて抗いがたいものがあった。矢など気にせずに突進して、あの犬やら狐やらの肉にこの牙を打ち込んでやりたい。  信州征服のために、いたずらに兵を損耗させたくないからこのような消極的な戦をしているのだが、その辛抱もいつまで続くか分からない。  一方で、将としての理性はずっと変わらずに脳裏で警鐘を鳴らし続けていた。この敵には、なにか、ほかに狙いがある。ほかの狙いといえば、やはり本陣への襲撃だろう。無理矢理にでも、兵の一部を、中軍に向けたほうがいいのではないか。その堂々巡りだった。  紺模様たちにすれば、それだけはさせられない。意識を自分たちに向けさせるために、それまでよりも深く敵陣に切り込む。しかし柵や塀のせいで、無理はできない。  手傷を負った兵が増えていった。  勇敢で機敏な、優れた兵ほど、敵陣近くで危険を冒し、時には矢や牙を受けてしまう。  その血の匂いが届くと、阿僧祇の軍勢はいよいよ自分を抑えられなくなっていく。  一匹、二匹、と突出する兵が出始めた。中には旗本も混じっている。そしてその爪で敵兵を引き裂き、返り血を浴びていた。そんな有様を見ていると、もう熊たちはたまらなくなった。  紺模様が弓部隊へ射撃を号令する。  無謀に突っ込んでいった「赫の王」の兵は、端から矢の斉射を受けてたちまち骸に変わった。だがそれすらも、熊たちには撒き餌同然だった。戦いたい。殺し合いたい。彼らは自ら柵を出て、塀を倒し、白兵戦へと望んでいく。 「紺模様殿。我らも、腹をくくらねばならないようです」  そう言う伊織に、紺模様がうなずく。 「ワタヌキ殿、弓兵を頼み申す」と言って、紺模様は人の姿から犬に変わった。ワタヌキが神妙にうなずく。  紺模様は、傍らにいた成家にも「参りましょう」と声をかけた。 「あっ!? へ、へえ!? そ、そうじゃのう、参ろうぞ!」  成家は、よほど慌てたのか、上半身が人、下半身が狐の姿に化けた。そのまま、後ずさりしていく。  その様子を、もはや伊織も紺模様も見ていなかった。地を蹴り、血風薫る戦場へ飛び出していく。ただワタヌキだけが、小さく嘆息した。 「敵将はいずこ! 我は、信州カマイタチの伊織なるぞ! いざ、神妙に相手せよ!」  紺模様は部隊の指揮をとりながら前進したが、伊織は単身突っ込んでいった。人からイタチの姿に変わると、入り乱れる敵味方の中で敵の爪牙をかいくぐり、それらしい巨体の熊を探す。  熊とカマイタチでは、熊のほうが圧倒的に優位にあった。  カマイタチの鎌は鋭いのだが、熊の四肢や首を切り飛ばせるほどの重い斬撃は繰り出せない。  切ってはかわしを繰り返すうちに、熊の爪が体にかすりでもしたら、そこで勝負は決してしまう。 (それでも、やるしかない)  息巻く伊織の目の前に、旗本が現れた。ほかの兵よりも、動きが速く体も大きい。  まずはこいつを制することができるか。伊織が体を緊張させた瞬間、十本近い矢が、旗本の急所に突き立った。熊の体が、どうと倒れる。  振り返ると、ワタヌキの姿が小さく見えた。 「ワタヌキ殿! かたじけない!」  犬妖の、いや切風の郎党の弓術には、伊織も畏怖の念を抱いていた。こんな、人間以上の精度で武器を操る妖怪などほかにいない。「赫の王」に限らず、ほかの王に対抗しうるのは、信州においては切風を置いてほかにはいまい。だからこそ、この戦は決して負けるわけにはいかない。  決意を新たにした伊織の目が、ほかの熊よりも一回り大きい、灰色の大熊をとらえた。  伊織が人の姿に変化する。 「敵将とお見受けした! カマイタチの伊織である! いざ、尋常に勝負!」 「……『赫の王』の六士、……知多……」  ちた、という名前の後にもなにか言っていたようだが、口の中がよだれで満ちてしまい、伊織には聞き取れなかった。  周りに旗本の類がいないことを目視して、伊織は人の姿のまま、腰の下から生えた尾を鎌に変えて、知多の胴へ斬撃を放った。  さん、と鎌は知多の肉を削いだ。熊の血がしぶく。だが浅い。 「やはり、こうなるか! 承知していたよ!」  知多が反撃の爪を放った。それをかわしざま、伊織が右腕を振る。  新たな血が舞った。知多の前腕に、切り傷ができていた。  怪訝な目で知多が見ると、伊織の右手のひらから、鎌の刃が生えていた。人間形態の長所がこれで、腰以外のところからも鎌を生やすことができる。扱える刃の数が増えるわけではないので、どこから出そうとも一本だけだが、一対一で戦う時は相手の意表をつけるので伊織なりに重宝していた。  腰を落とした伊織は、再び跳ねて、知多へ切りつけていく。  紺模様もまた、前軍の大将である阿僧祇と対峙していた。阿僧祇も、ついにたまらず、柵を越えて陣頭に出てしまっている。  切風軍の指揮は、ワタヌキに任せている。一方で、阿僧祇には、ほかに指揮を託せる部下がいないことを紺模様は見抜いていた。犬の力では勝てないまでも、この大熊を戦闘に没頭させれば、「赫の王」軍は命令系統を失う。  しかし、阿僧祇の力は、知多をも超えていた。紺模様は四肢を駆使して素早く動き回るが、矢を放つ暇も、牙で噛みつく隙も見つけることができない。  捨て身で挑んだ二三匹の猿の妖怪が、阿僧祇の爪を受けて骸に変わった。敵将に傷一つつけることもできずに。  紺模様はワタヌキのほうを見たが、矢の援護を受けるには遠すぎた。 (おのれ、どうする。ここで膠着すれば、力で押し切られるのは我らのほうだ)  焦りが、紺模様の動きを鈍らせた。  阿僧祇の伸ばした爪が、ぎりぎりかわし切れずに、紺模様の腹を削った。 「ぐおっ!」 「ふ……犬よ貴様、名のある怪異か? ……食ろうてやるぞ」  こうなれば、相討ち覚悟で、喉笛に噛みついてやるか。しかし、犬の牙で、熊の首が刈れるのか。  逡巡の向こうに、死の影が見えた時。  異様な騒ぎが、阿僧祇の向こう――敵陣から巻き起こった。それに、声が聞こえる。遠吠えのような、しかしそれよりはるかに勇壮な、犬たちの鬨の声が。  阿僧祇はまだ気づいていない。だが、大きな混乱が起きているのは確かだった。  紺模様は確信した。 (やった。切風殿が、やってくれた) 「赫の王」の陣から、矢が飛んできた。しかしそれは、犬妖たちでなく、熊たちを狙っている。  さすがに阿僧祇が、何事かと振り返った。  その隙に、紺模様は弓を取り出して宙に浮かせ、矢羽を噛んで引き絞る。  ぐわん、と紺模様が大きく吠えた。  阿僧祇がこちらを向いた。  その眉間に、紺模様渾身の矢が突き立った。 「ごおっ!? おごおお……!」  急所には刺さった。だが、致命傷ではない。  次の手をどうするか、紺模様が考えている間に、阿僧祇の背に十数本の矢が次々に突き刺さる。それすらも、致命傷には至らなかったが。  戻らなくては。本陣に何かが起きている。阿僧祇は、目の前の紺模様を置いて、後退した。  それを見て、紺模様が人間の姿に変化した。手には脇差を握っている。  紺模様は阿僧祇に追いすがり、追いつくと飛び上がって、後ろから首に組みつき、脇差でその喉首をかき切った。  噴水のような血しぶきが上がる。  阿僧祇は体をぶんぶんと振って、紺模様を振り払おうとした。紺模様は大熊の眉間に突き立ったままだった矢をつかみ、さらに奥に押し込んだ。  阿僧祇の動きが止まった。その胸に、腹に、また十本以上の矢が撃ち込まれた。  巨体が、ひび割れた地面に倒れ伏した。  伊織の耳にもまた、切風たちの鬨の声が聞こえていた。  だが、血の匂いに我を失っている知多の耳には、背中越しに響くその声はまるで届いていない。  少しはひるんでくれれば、その隙を突けるのだが。このまま一騎打ちを続けていれば、いつやられてしまうか知れない。  伊織は、イタチの姿に変わり、素早く知多の後ろに回り込んだ。それを追って、知多も後ろへ向き直る。  そこへ、「赫の王」の陣地の中から飛び出して加勢に来たのは、総大将である切風本人だった。  さすがに、知多が仰天して目を見開いた。なにが起きているのか、どうするのが最善なのか、興奮に侵された頭で必死に考える。  伊織が、再び知多の背後に回り込んだ。知多はそれに対応しようとしたが、どう考えても、正面の切風の脅威のほうが大きい。ひとまず、この小うるさいカマイタチは放っておくことにした。  知多は切風に向かって腕を振り上げた。その時ようやく、切風が帯刀していないことに気づいた。  切風は振り下ろされた知多の腕をとり、関節を決めて後ろへねじった。  知多の巨体が、強制的に後ろを向かされる。  伊織が切り込んできた。だが、カマイタチの刃では熊の首は飛ばせないことは、知多も分かっている。あえて一撃を受け、無手の切風を薙ぎ倒してやる。そう決めた。  伊織は人間の姿に戻っていた。そして、この戦いで初めて、その鎌を斬撃ではなく突きに使って、手のひらからまっすぐに打ち出した。  あっと思った知多は、切風の柔術で体の動きを制限されており、かわせなかった。鎌は知多の口の中へ飛び込み、首の後ろへ突き抜ける。伊織の渾身の突きは、正確に霊気の急所を穿っていた。  灰色の巨体が倒れた。  それとほぼ同時に、朔日に乗った軍師が、切風の横に到着した。 「切風さんっ! どうして素手で突っ込んでいくんですか! 危ないじゃないですかっ!」 「ごめんごめん。伊織が危なかったもんだからさー」  そう言われて、茉莉が伊織のほうを見る。 「そ、それは、確かに大事ですけど……」 「軍師殿……策は、成ったのですね……」  はい、とうなずく茉莉の横で、切風も答える。 「ああ。恒河沙は死んだ。おれたちの勝ちだ。さーてお前ら、耳ふさげよ。充分混乱させて敵将も倒したし、ここの仕上げだ」  すうと切風が息を吸い込み、凄まじい声量で叫ぶ。 「熊公の軍のやつら! 恒河沙は、もう本陣で死んだ! ここにいた六士とかいうのも、二匹とも討ち取ったぞ! 嘘だと思うなら霊気を探ってみろーッ!」  にわかに、巨大な動揺が「赫の王」軍を襲った。  そして切風の声が事実だと分かると、兵たちはどんどん潰走していった。  それを見て取った切風軍が、追撃を始めた。背を見せる敵兵を、矢で、牙で、爪で、次々に倒していく。先ほどまで、豪壮な大熊に率いられ、血に飢え、勢いに任せて攻め込まんとしていた獰猛な軍勢は、見る影もなかった。  それに対して、ここにきても切風軍の統制は乱れなかった。ワタヌキの指示で、散り散りになる敵兵をさっと包み、包囲した上で矢を浴びせていく。  茉莉が、はっと気づいて、伝令の犬妖を呼んだ。 「ワタヌキさんに伝えてください。敵を完全に包むんじゃなくて、逃げ道を開けてくださいと」  伝令は、思わず聞き返した。 「逃げ道? みすみす、敵を逃がすということでござるか」 「いえ、……」茉莉は一度言いよどむ。だが、ここで揺らぐわけにはいかないと、はっきりと意志を決めて告げようとした。「あの、たぶん、ですけど、……考えられることとして」  それを、切風がとどめて、代わりに言った。 「完全に包囲しちゃうと、死に物狂いで抵抗する敵も出てくるじゃん。それよりも逃げ道を用意して、そこに逃げ込ませて、左右後背(こうはい)から狙い撃てってことだよ。敵はまともに抵抗できねーし、上手くすりゃ全滅させられるよ。そうでなくても、逃げて行ったやつらはもう脅威になんない。おれたちだってここを片づけたら、まだ敵の後軍が残ってんだからね」  はっ、と答えて伝令が駆けていった。 「ごめんなさい……切風さん、私……」 「いいよ。茉莉は、謝るようなことは、してない」 「でも、私、……軍師として、……覚悟をして、今みたいな時は、自分で言わないと」 「でももなにもない。つらいんだろ? 口に出すのもつらいことだった。それだけだよ。総大将に任せればいい。だから、『でも』はいらない。……泣かないで」  茉莉は、手のひらで涙を抑えた。  それから、前を見た。自分の指示通りに、ワタヌキが軍を動かしている。  それを見届けて、切風と共に、踵を返した。  最後の敵が待っている。 ■  魏良は優秀だった。  千哉の術から回復しつつあるが、まだ足を引きずっている載にはほどほどに。  血眼になってこちらの弓兵を狙ってくる阿賀祢には、集中的に。  高所から木々に紛れて、山道を繰る敵兵へ、適度な弓射を、絶え間なく続けている。  しかし矢は、いずれ尽きる。もとより兵力では、熊どものほうがはるかに優位にある。地の利を生かしているとはいえ、いつ犬妖たちの一角が崩されてもおかしくはない。  千哉は魏良に目配せした。そろそろ、矢だけではなく切り込んでおかなくては、敵勢を削げなくなる。  千哉が、放つ術をいくつか頭に思い浮かべた時、戦況の変化が訪れた。  敵の後方が乱れている。  やったのか。切風たちが来てくれたのか。千哉は高揚しかけて、慌てて気を引き締めた。それなら、雷蘭とかいうカラスが鳴き声で知らせる手はずだ。まだ安心はできない。  そこに、一匹の犬妖がやって来て、千哉と魏良に伝令を述べた。 「敵、『赫の王』軍、中軍と前軍を壊滅せしめました! 敵総大将、『赫の王』こと恒河沙は討ち死に!」 「討ち死に? じゃあ……」  聞き返す千哉に、伝令が嬉しそうに答える。 「はっ! 切風殿が、見事恒河沙の首を取りました! 紺模様どのらの第一軍と合流し、あの後軍を後背より挟撃しております!」  魏良が、両こぶしを突き上げて快哉を上げる。  眼下の敵の混乱も、急激に膨れ上がっていくのが分かる。 「よし、魏良、行こう! 今ならあの大熊二匹を倒せる!」 「おう!」  二人とも、この第三軍がはりぼてに近いことは承知している。 挟撃状態にあるといっても、敵が死に物狂いでこちらに突っ込んでくれば、大多数を取り逃がしてしまう可能性は高い。 ならば、混乱から壊走に移りつつある敵軍にあって、最も大将が無防備に近くなるのは今だろう。腹をくくられてからでは遅い。 祓い師とカマイタチは、ともに下草をかき分け、斜面を滑り降りた。 すぐ目の前に、敵将の一匹が現れた。すでに敗勢を悟りかけているのか、焦燥が見える。足に傷がないほうだ、と千哉は見て取る。果たして、それは阿賀祢であった。 射撃の援護を受けて、魏良が突っ込んだ。  阿賀祢は矢を腕で払い、その爪を魏良に振り下ろす。  しかし。 「一針(いっしん)風突(ふうとつ)!」  千哉が手にした、錐のような呪具の先から、光の針が放たれた。  針は正確に阿賀祢の眉間を打ち、阿賀祢がぐんとのけぞる。  さらされた喉を、魏良が人間形態のまま鎌の尾を一閃させて薙いだ。  鮮血がしぶく。だがカマイタチの鎌には、熊の首を一撃で両断できる重さはない。 「ぐばああああッ!」  怒り狂う阿賀祢が、なんの工夫もない、大振りの、前足の振り下ろしを魏良に放った。  魏良は正確に、その二本の前足のつけ根、両脇を鎌で鋭く削ぐ。  激高した頭で、あくまで首狙いだろうと考えていた阿賀祢は、それをまともに受けた。傷はさほど深くはないし、霊気による治癒でほどなく治るだろうが、力が入らなくなった両腕をだらりと下ろしてしまう。  そこへ千哉が突っ込んできた。こともあろうに、阿賀祢の顔面へ、右こぶしを突き出してくる。  阿賀祢は口を大きく開けた。肩ごと噛みちぎってくれる、と咆哮した。  千哉は、あやまたず、右腕を肩まで阿賀祢の口にねじ込んだ。口を閉じようとした阿賀根だったが、喉の奥で千哉が手を動かすと、反射的に口が開いてしまう。  千哉の親指の爪に仕込んである小さな刃が、阿賀祢の喉の奥で、「井」の形に肉に傷をつける。手の中には、符が一枚握られていた。 「四桁、一符――」  阿賀根の脳裏に、載が先ほど受けた稲妻が思い浮かび、その牙は千哉の肩を噛むどころか、さらに大きく開かれた。 「があっあっ、」 「――雷槌!」  ガン! ……  稲妻が、阿賀祢の喉の奥で炸裂した。  白目をむいた阿賀根の鼻や耳から、煙が昇る。  千哉が腕を引き抜いた。自身もやけどを負っていたが、手首に防御の符を一枚貼りつけておいたおかげで、軽傷で済んでいる。  膝をついた阿賀祢の首に、魏良が、四五鎌を振るうと、その頭部がごとりと地に落ちた。  そして二人は、視線を上げる。その先には、阿賀祢に加勢しようとしてできなかった、いまだ足の傷の癒えない大熊――載が立ち尽くしている。 「千哉くーん! あっ、それに、魏良さん! 本当に、無事だったんですね! よかった!」  朔日に乗った茉莉が駆けつけてきたのは、そんな時だった。雷蘭はすでに、後方で降ろされている。  朔日の横には、切風がいた。呆れたように茉莉に言う。 「茉莉、忘れてるかもしんないけど、あいつ君を殺そうとしたやつだからね?」 「う、それはそうですけど、事情を聞いてしまっていますし……」  なにそれ聞いてない、と騒ぐ千哉をよそに、魏良が、朔日の前にきてこうべを垂れた。 「茉莉殿、かつての無礼、どうかお許しください。切風よりうかがっております、この度はまことにかたじけない。言葉では言い尽くせぬ感謝をしておりますが、いまだ戦場にありますれば……」 「い、いいですいいですそんなのは! それより、あの熊は……」  そして一同の目は、載に向けられた。  切風が告げる。 「分かってんだろうけど、恒河沙は死んだ。おれが倒した。お前らの中軍も前軍も壊滅させた。んで、できれば弟を助けてやってほしいって頼まれてる。お前がそうだろ? 顔がそっくりだ」  茉莉には判別がつかなかったが、載は、ああ、とうなずいた。 「お前がこれ以上抵抗すれば、『できれば』の範囲を超えるけど。どうする?」 「……もう一匹、……兄がいる。阿僧祇という」 「どこにいる?」 「前軍にいた、二匹のうちの一匹だ」 「……そうか。なら死んだ。お前が、六士とかいうのの最後の一匹だ」  切風は、黒い剣を手にしたままでいる。しかし構えてはいなかった。  載は、周囲を見渡した。『赫の王』軍は断末魔の叫びをあげながら次々に討たれ、骸となり、塵に変わっていく。それを見つめながら、うなだれて、答えた。 「我々の負けだ。……降伏する」
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