茶と菓子を愛する犬神と信州のあやかし軍師

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 夏の真夜中、五階建てのビルの屋上のへりで、湖ノ音茉莉(このおとまつり)は、足元を見下ろした。  五階建て、のはずだった。少なくともさっき、階段を駆け上がる前に外から見た限りでは。  しかし今見るとその高さは、どう見ても十階以上ある。    茉莉の体は、すでに手すりを乗り越えて、断崖の風に吹かれている。あとほんの一歩踏み出せば、高校の制服姿のその体は、虚空に踊る。  漆黒と言うにはほんの少し明るい色の長い髪が、ばさばさと風に弄ばれていた。  十六歳の夏休み。転校で二学期から通うことになった新しい学校の制服に袖を通して、なんとなく浮わついた気分で夜の散歩がてら家の外に出たのは、ほんの一時間ほど前のことだった。    好きでこんな危なっかしいところに来たわけではない。いきなり追い立てられて、仕方がなかった。 今だってできることなら、すぐにでも階段へ引き返し、来た道を戻りたい。その証拠に茉莉の体は外側ではなく内側を向き、両手は手すりをしっかりとつかんでいる。  落ちたくない。安全に地上に降りたい。  足が震えた。呼吸が乱れる。    目の前――ビルの屋上の床の上には、奇妙なものがいた。  それは、大柄な人間に似た形をしている。一応、頭と胴体と両手足がある。  問題は、その東部がどう見ても獣のそれであり、服を着ていない体は黒い毛に覆われ、そのくせ二本足で立っていることだった。    怪物は、一歩、茉莉に近づいた。  あとずさろうとして、茉莉は、かかとの下にはもう床がないことを悟る。  獣の頭は、猿に似ている。明らかに人間ではないことが分かる。その目つきから、茉莉への害意を持っていることも。   「あなたは……何者ですか」    茉莉が震える声で問いかけても、怪物は答えない。  言葉が通じているのかどうかも分からない。  怪物が、かっと口を開いた。不揃いの鋭い歯並びが見える。そして、茉莉に向かって低く跳躍してきた。  ほとんど反射的に、茉莉の体は後ろへ飛びのこうとした。しかし、手すりを握りしめた手は硬直している。  だめだ、あとずされば、落下して死ぬだけだ。手すりはしっかりとつかんでおかなければ。  しかし、眼前に迫る怪物を前に、恐怖で身体中の筋肉が萎えた。  がくん、と力を失った両足が屋上のへりからずり落ちる。 「あっ? ――」    なにが起きたのか、茉莉は一瞬分からず。  そして、状況を悟って、今度は長い悲鳴を上げる。 「――きゃあああああっ!」    重力の感覚が体から消えた。けれど、それから、すぐに加速。  目の前にあった屋上のへりが高速で上方へ消えていく。    一階分、二階分、と落下する。  三階分落ちたところで、ふと、あとどれだけ落ちるんだろうと茉莉は思考した。  どうしてさっき見下ろした時、このビルはあんなに高く見えたんだろう。  夜道を歩いていて突然あの怪物に追われ、夢中で、たまたま傍らにあったこのビルに飛び込んだ。  ちゃんと数えていた訳ではないにせよ、確かに、階数は五階程度だった。十階分もの階段を、そうそう一気に上がれるはずもない。  けれど、そんなことは、もう大した問題ではない。  人間というのは、この高さから飛び降りたらどうなるのか。  十階だと、即死しそうだ。  五階なら大怪我で済むかもしれない。ありがたくともなんともないが。  茉莉は、歯を食いしばり、目を閉じた。  どの道、しっかり下を見て接地のタイミングを確認したところで、なにができるわけでもない。  あと何秒? 何メートル? あとどれだけ落ちるの……?    決まるわけのない覚悟を、それでも決めかけた時。   「助けて欲しい?」    その声は唐突に響いてきた。  一度閉じた目を、茉莉が開く。   「……え?」 「だから、助けて欲しいのかどうかって」  声はすぐ右手からする。  そちらを見たが、誰もいない。ただの暗い空間が、彼方まで広がっているだけだ。   「だ……誰?」 「おれはただの通りすがり。死にかけだけどね」     誰がなにを言っているのか、茉莉には皆目分からなかった。  しかし、助けて欲しいかと訊かれて、ほかの答えなどありはしない。   「どなたかは存じませんが、助けてください」 「分かった」  茉莉の背中と腰に、なにかが触れた感覚があった。温かく柔らかいなにか。  一瞬遅れて、落下感が消える。  おそるおそる辺りを見回すと、どうやら、地表に到着したようだった。すぐ真下に地面が見える。  そして、茉莉の頭のすぐ上に、見知らぬ顔があった。  男だ。抱きかかえられている。 「ひ、ひええええっ!」 「着いたよ。お疲れ。軽いね、あんた」  男は茉莉を地面に下ろした。  しかしアスファルトに足の裏をつくと、力が入らずにしゃがみ込みそうになる。 「おっと」  男が茉莉の肩と腰を支えた。  再び至近距離に顔面が近づいて、茉莉は慌てて離れる。 「あ、ありがとうございましたっ!? な、なにがどうしたのか全然分からないんですけど……た、助かった? のかな?」 「どーいたしまして。ただ、ちょっとそこから離れたほうがいいよ。猿が降ってくんじゃねえかな」 「さる?」  どすっ。  茉莉のすぐ右手で音がした。  とっさに、茉莉は右に首を巡らせる。たった今茉莉をビルの屋上に追い詰めたあの毛むくじゃらの怪物が、そこに立っていた。  この高さを平気で飛び降りてきたのか、と茉莉の背筋が凍った。  けれど怪物の目は、今は茉莉を見ていない。まっすぐに男を睨みつけている。その口が開き、低い声が響いた。 「……どういうつもりだ、犬風情が」  ――しゃべった。  茉莉はこの時初めて、怪物の声を聞いた。人の言葉を話している。それも驚きだったが。 「そっちこそさ、猿ごときが、どういうつもりなんだよ?」  男が平然と怪物に答えたことのほうが、茉莉には衝撃だった。顔見知りなのか。……犬? 猿?  しかし怪物はいら立ちをつのらせ、一方、男は一貫して飄々とした態度を崩さない。  その時、月明かりがひときわ強く差し込んできた。  男の顔が照らし出される。  茉莉より少し年上の、――茉莉が思わず息を呑むほど、恐ろしく整った顔立ちをしている――青年ではあった。しかしその表情は、口元にいたずらっぽい微笑を湛えているせいもあり、少年のようにどこか幼い。  くせのない少し長めの黒髪に切れ長の目、月の光も吸い込んでしまうような瞳も墨のように黒い。着流しというのか、これも真っ黒な和服姿で、帯はもちろん、足に履いた足袋まで黒い。  身長は、百八十センチ近く見える。高校一年生にして百六十センチあり、転校前のクラスの女子の中でも目立って長身だった茉莉よりも、ずいぶん高い。   「その小娘をよこせ」 「なんで?」 「食う」 「なんのために? 猩猩(しょうじょう)が、人なんて食うの? おかしいなあ、はっはっ」 「貴様と問答する必要はない! 牙も失った犬が、いっぱしの口をきくな!」 「お、やるか? これでも元、『牙の王』なんだけど」 「その牙がとうにないのだろうが! 引っ込んでいろ!」  怪物――猩猩が、一度体をたわませてから、成年に向かって跳躍した。  茉莉は、叫ぶ暇さえなかった。  猩猩の爪が青年の頬にかかり、その肌を切り裂こうとした時。 「危ないじゃん。おれじゃなければ、けがしてたよ」  青年の両手が猩猩の腰と喉元をつかみ、その細い体がくるりと半回転する。  かと思うと、猩猩は、けたたましい音を立てて地面に叩きつけられていた。 「貴様……人間の技か? こざかしい……」  うめいて、猩猩がよろよろと立ち上がる。  青年は茉莉を連れて、猩猩から五メートルほど距離を取った。 「こんなんで妖怪が倒せるなんて、おれだって思ってねえよ」 「当たり前だ! 仲間の顔を立てて適当にいなしてやろうかと思ったが、もう許さん!」  猩々がその口を開き、牙を剝いた。  人間の耳でギリギリ聞き取れる甲高い絶叫が鳴り響く。   「ひゃっ……」と茉莉がのけぞった。 「あ、あんた。逃げていいよ。ていうか、逃げたほうがいいよ」 「で、……でも」 「ん?」 「あなたは、どうなるんですか。あんな、あんなの……」 「まあ、どうにかなんじゃないの。どの道もう長くないしね、おれは」  え、と茉莉が聞きとがめた。そうだ、さっきもそんなことを。 「おれはただ最後に、ちょっとは人間に善行でも働いてやろーかなと思っただけだよ。ほら行きな、まじで」 「なんだか……いろいろ、分かりませんけど……でも」  猩猩が身をかがめる。飛びかかってくるために。  しかし、青年の様子は変わらなかった。どこかつまらなさそうに、頭などかいている。 「なんだよ、でもでもって」 「こんなに、危ない場所から離れがたいと思ったことは、ありません……なぜなんでしょう?」  青年は、あきれたような視線を茉莉に送ってくる。 「いや、全然分からん」 「私は、ここから離れてはいけないような気がします……」 「多分すげえ気のせいだよ」 「あなたはもしかして、自ら死のうとしているんですか? 病気とか事故でじゃくて、自分から望んで……」  青年の、ずっと緩み気味だった顔が、すっと真顔になった。 「……あんた、誰? なんか変な感じがするんだよね。……おれと前会ったことあるかな?」 「ない、と思います。私は、湖ノ音茉莉といいます」 「おれは、――」  だん、と爆ぜるような音がして、猩猩が低く跳躍した。 「――切風(きりかぜ)」  矢のように風を切って突っ込んできた猩猩の、切風が右の掌底で顎をかち上げ、そのまま喉をつかんで地面に叩きつける。 「ああ、本当なら(おお)猩猩なんて敵じゃないんだけどなあ」  猩猩は首を振りながら平気で立ち上がった。 「悲しかろう。己の失った力が惜しかろうな。かつて散々威張り散らして生きた、そのつけが来たと思え」 「おれ、別に威張ってなんかなかったけど」 「その不遜な態度も、それに見合う力があってのことよ。その首、食いちぎってくれる」 「やってみなよ。お前みたいな猿一匹ひねるくらい、おれができないと思ってんのかな」  切風と猩猩の間の空間に、不穏な圧力が生まれて凝縮していくのが、茉莉には見えた。  猩猩が再び身をかがめた、その時。 「待てい!」  低い声が響き、茉莉はそちらへ振り返った。  茉莉たちから二十メートルほど離れたところに、また別の人影が立っている。  しかもその後ろには、闇の中に、十数人ほどが群れているようだった。  いや、人ではない。夜目の利かない茉莉にははっきりとは見えないが、その体形や手足のつき方が、明らかに人間と異なる者が、少なからず混じっている。 「切風、山次(さんじ)、そこまでだ。同じこの南信州に暮らすあやかし同士、無益に争うな」  声の主は、少なくとも猩猩――山次と呼ばれたか――よりは好戦的ではないようで、茉莉は少しだけ胸をなでおろす。  段々と目が慣れて見えてきた声の主も、どうやら和服姿のようだった。ただ、手首や足首のあたりの布地が細く絞られており、時代劇で見る忍者の装束に少し似ている。  暗褐色らしい髪は長く、かしこまった口調の割には、穏やかな顔立ちをしているように見えた。  その男に、切風が、口をとがらせて応える。 「だあってさ、別になんにも悪さしてないっぽい人間に、食いつこうとしてたのはこの猿なんだけど。魏良(ぎら)こそこいつをしっかりしつけておいてよ」 「山次にも、(ゆえ)あってのことだ。切風、お前の知らぬところで我々にも変化は起きている。山次、下がれ。こちらへ来い」
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