甲羅

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 それはひどく雪の降る冷たい夜のことだった。僕は彼女と並んで池を眺めていた。手がかじかむほどの寒さに震えながら、強いアルコールの入った一本のガラス瓶を彼女と交互に飲みながら、真夜中の池を眺めていた。  月も星もない夜。空は真っ暗で、そんな夜空を映し出す池も真っ暗。深い森の奥のひっそりとした池。ときおり吹き抜ける風に揺れる木々の枝が、不気味に真夜中の闇へと鳴り響いていた。それは胸の奥を不穏に震わせるような音だった。  僕はアルコールをひと口飲んで、彼女にガラス瓶を手渡す。 「ねえ、わたしはこんなに足元もおぼつかない世界から、今すぐ出ていきたいの」  ガラス瓶を手にしたまま、彼女がポツリと言った。 「まるで亀の甲羅の上に置き去りにされたような気分。まんまるく盛り上がった甲羅の上で足元もおぼつかないまま、どこにも行けないような気分で途方に暮れてるの。わかる?」 「……。うん、わかる気もする。君の言いたいことはなんとなく」 「そう……」  彼女は短く相槌を打ち、強いアルコールの入ったガラス瓶に口をつけた。なんだか、この世界に絶望しきった顔で。 「亀の甲羅の上からなんて簡単に飛び降りれるよ。いつだって」  僕は彼女に向かってさらにそう告げた。僕の声が木々の揺れる音にかき消されそうになりながらも。真夜中の暗闇の中で、彼女は僕の目を見つめる。 「本当にそう思ってる? ねえ、本当にそう思って言ってるの?」 「もちろんだよ」  僕がそう告げたとき、また木々の枝葉が冷たい風に吹かれ、不穏なほどに響いた。木に積もった雪がどさどさと地面へと落ちた。それでも雪を落とした木々の枝葉の上へと、またすぐに雪が積もりはじめる。 「じゃあ、私と一緒にこんなにも足元もおぼつかない世界から飛び降りてほしい。今すぐにね」  僕は少し考える。  彼女のことを本当に愛しているか?  それが問われているような気がしたから。  僕は夜の闇の中で彼女の目を見つめる。彼女の目は切実に求めていた。こんなにも不安定な世界から飛び降りることを。 「じゃあ飛び降りようよ。一緒に、今すぐ」  僕は彼女の手からアルコールの入ったガラス瓶を奪い取り、池の中へと放り込む。池の水面が一瞬だけ、ぽちゃんと音を立て、そしてまた静寂が戻ってくる。余計な音はみな降り積もった雪に吸い込まれてしまうから。 「飛び降りるって言っても、本当にそんなことが許されるの?」  彼女が心配そうに言った。 「君のためなら……」  その瞬間、世界は大きく震える。ぐらぐらと大きく、立っていられないほどに。  気がつくと、目の前に巨大な亀がいた。たったいま、池から上がってきたといったふうに濡れている亀だった。その背中には人ひとり乗せて歩きまわれそうなくらいの大きな亀。 「お前たちか。変なものを池に投げ込んだのは」 「すみません……」  ずいぶんと年齢を重ねた亀だという雰囲気が満ちている。甲羅から突き出た首や頭はシワだらけだし、顔もまたシワだらけだったから。そんな亀にも雪は降りしきる。 「お前たちは今、この足元もおぼつかない亀の甲羅の上の世界から飛び降りると言ったな?」  僕も彼女もあっけにとられたまま、無言でその亀を見つめる。 「この亀の甲羅の上から、飛び降りるんだろう?」  無言のままの僕たちにしびれを切らしたように亀がもう一度言った。僕たちは顔を見合わせ、そしてふたたび亀に顔を向ける。 「そりゃあ言いましたけど、それは比喩というかもののたとえというか、そういう話だから……」  僕は弁明するように亀に言った。別にこの亀に言い訳するような筋合いはないのだろうけれど、年老いた亀の怒ったような口調に申し訳ないような、そんな気分も生まれたのもまた事実だからだ。 「別に亀が悪いって言ってるわけじゃないんです」  彼女が亀に向かって言った。 「そうだろう、そうだろう」  亀が満足そうにうなずく。 「私たちはその、自分たちがまだ未熟だから、自分たちの足元だってまだ脆くて危なっかしいってことを言いたいわけで、そんな脆いところから逃げ出したいって思ってるんです」 「違うね。そんなものは言い訳に過ぎない。ワシをごまかそうとするためのまやかしに過ぎんよ」  年老いた亀が彼女の言葉を即座に否定した。そして、僕たちに説教するように語りはじめた。 「知ってるか? この地球は丸いわけじゃない。半球の形状をしていて、それをまず四頭の象が支えている。それぞれ東西南北に配置された象だ。その四頭の象は一匹の巨大な亀の甲羅の上に乗っている。だからつまり、亀から飛び降りるということはだな、この地球から飛び降りるということだよ」  亀は得意げに僕たちに向かってそう告げ、そして意地悪そうに笑った。 「お前たちにそんな大それたことができるかな? 亀の甲羅から飛び降りる、つまりはこの地球から飛び降りて、巨大な宇宙を永遠に漂うひと握りの塵になるんだ」 「宇宙の塵になんてなりたいわけないでしょ」  彼女が語気を強めていった。その右手には一本のガラス瓶。さっきまで飲んでいた強いアルコールの入ったガラス瓶だ。そして左手に握られたのはライター。 「こういうこともあるかと思って、もう一本持ってたの」 「おい、やめるんだ」  年老いた亀がひるむ。亀はその場から慌ててUターンして、池の中へと逃げ出そうとするけれど、しょせんは亀だからその動きは鈍い。とても鈍い。  彼女はすかさず逃げる亀の甲羅にガラス瓶を投げつける。甲羅にぶつかったガラス瓶の割れる音が、真夜中の雪の景色の中に短く響いた。亀の甲羅に強いアルコールが広がる。さっきまで一緒に飲んでいたお酒と同じ匂いのする液体だ。 「やめてくれって言ってるだろう! 頼む!」  年老いた亀は池へと必死で向かう。彼女は亀の甲羅に広がった強いアルコールに火のつけたライターを投げつける。  亀の甲羅から炎が噴き出し、真っ黒い煙がもくもくと立ち上った。 「やめろ、やめるんだ……」  たちまち年老いた亀は真っ黒焦げになる。それでも炎の勢いは弱まらない。甲羅はますます燃え上がり、真っ黒い炭になりつつある。  そのときだった。  すさまじい音があたりに響いた。炎と熱のせいで甲羅に亀裂が入り、割れてしまった音だった。亀の甲羅にいくつもヒビが走った。まるで蜘蛛の巣のようなヒビ。  亀の炎と立ち昇る煙が消えてしまうと、あたりはすっかり朝になっていた。朝の光が森の奥に差し込み、キラキラと真っ白に輝く雪景色が僕たちのまわりに広がった。森の木々は降り積もった雪で真っ白。池の水面も澄んだ青空と周囲の雪景色を澄んだ鏡のように映し出す。  そんな池のそばには黒焦げになった亀。その甲羅に走るのは蜘蛛の巣のようなヒビ。  僕はそんな甲羅を見下ろしながら思う。  僕たちはひどく間違ったことをしてしまったのかもしれない、と。  けれど、もはや失った時間は取り戻せない。亀は雪の上で焼かれてしまった。彼女の手によって。  僕たちはどこにも行けない。こんなにも足元もおぼつかないこの世界から、永遠にどこにも抜け出せない。そんな気分が僕の胸に湧き起こる。  そんな絶望的な思いに囚われていると、彼女が僕のそばに立ち、ひび割れた甲羅を見下ろしはじめた。 「あまりじっと見ているようなものでもないよ」 「大丈夫」  彼女はそれだけ答え、やっぱり亀の甲羅をじっと見つめ続けた。 「ねえ、亀の甲羅に入ったヒビを見て吉凶を占った古代の占いを知ってる?」  彼女の言葉に僕は昔、どこかで習った記憶をぼんやりと思い出す。 「そういえば、そんな占いがあった気がする。たしか亀卜(きぼく)って言ったっけ……」  彼女は無言でうなずき、そして相変わらず池のほとりで黒焦げになった亀の甲羅をじっと見つめ続ける。そのまなざしは古代の亀卜(きぼく)を司る占い師みたいだった。 「甲羅に入ったヒビなんて見たって、なにもわからないね」  彼女が苦笑しながら言った。思わず僕も苦笑する。 「そりゃそうだ。僕たちは古代の占い師でもないし」 「でも、この亀は私たちに災いをもたらそうとしてたのよ。それだけはたしか」  彼女が真剣なまなざしをして言った。僕は無言でうなずき、彼女の意見に同意する。 「それでも、亀を焼いてしまおうなんて普通は思わないよ。なんていうか、たいした行動力だ」  そう彼女に告げた瞬間、僕の胸にひとつの確信がやってくる。この世界は四頭の象や巨大な亀に支えられた、足元もおぼつかない世界なんかじゃない、と。 「ねえ、この黒焦げの亀、ここにそのままにしておくのもなんだから、池の中に戻さない?」  彼女が僕にそう提案した。真っ白な雪景色の中に置き去りにされた真っ黒焦げの亀なんて考えるだけでもまがまがしく、忌まわしい。 「そうだね。真っ黒な亀をこのまま置き去りにしたら、なんとなく気分が悪いからね」  僕と彼女は黒焦げの亀を両手で持ち上げる。僕は亀の右側で、彼女は亀の左側。その背中には人ひとり乗せられそうなくらいの大きな亀だったけれど、思っていたよりもずいぶんと軽かった。 「きっと焼かれてしまったからよ」  彼女の言葉に僕はうなずいた。そして一、二、三の合図で、僕と彼女は黒焦げの亀を池の中へと投げ込んだ。亀が水面を突き破るとき、一瞬だけの断末魔のようなまがまがしい音が森の中に響いた。そして戻ってきた静寂の雪景色の中で、黒焦げの亀は池の底へと沈んでいった。 「これで良かったのよ」  彼女の言葉に、僕は深くうなずいた。池の表面には亀を投げ込んだときの水紋が広がり続けていたけれど、やがてそれも収まり、元の鏡のような水面が戻ってきた。 「これで良かったのよ」  彼女がもう一度つぶやくように言った。 「ねえ、私は思うんだけど」  彼女は一緒に池の水面を眺めている僕に切り出す。池は周囲の雪景色と青い空を映し出していた。鏡のような水面に。 「私たちの足元もおぼつかない世界でもいいと思うの。あなたと二人なら、どんな世界だってやっていける。そんなふうに思えた。あの亀を焼いてね」  彼女はかすかに笑顔を見せながら、僕にそう告げた。 「私たちの足元には四頭の象も巨大な亀もいないの。あなたと一緒なら。だから、これからも一歩ずつあなたとこの地面を踏み出していきたいと思ってる。本当だから」  彼女の顔に明るさが差し込んでいた。暗く長いトンネルを抜けたあとのようなすっきりとした明るさ。 「ありがとう。なんだか僕も、亀の甲羅の上に置き去りにされたような気分はどこかへと消えたみたいだよ」  僕たちは池を取り囲む雪の森を見つめる。朝の太陽の光を浴びて、あらゆる場所に積もった雪の表面で、数え切れないほどの白く細かい光がいっぱいに広がってキラキラと輝いていた。目に入るものすべてが、砕けたガラスの破片みたいな小さな白い光を宿していた。  そして僕たちは、そんな白い雪景色の中へと新しい一歩を踏み出した。  それが僕たちの雪の思い出だ。あれから数年が過ぎたけれど、僕たちは相変わらず幸せに過ごしている。  ちなみに、あのとき亀に投げた強いアルコールの入った酒は、いつも僕たちのそばに常備している。それはある意味で、僕たちのお守りみたいなものだから。 (おわり)
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